リーハイム・ジェノサイド(8)
ルイバルキン懲罰歩兵部隊に属する中隊の面々は、誰もが突如として身の上にやってきた幸運に安堵していた。掃き溜めの方がマシな境遇から、抜け出せるチャンスが訪れたからだ。
軍紀違反者や政治犯、徴発された刑法犯などで構成される徴発部隊の兵士たちの扱いは、基本的に弾薬を始めとする消耗品と大差はない。彼らの命は軍用犬よりも軽く、糧秣の缶詰よりも安い。銃座で武装したトーチカや、死屍累々の地雷原を前にしても、彼らに後退は許されない。背後から銃口を向ける督戦隊が敵前逃亡を許すはずがなく、今の境遇にある彼らが選べるのは、いかなる方法で物言わぬ肉塊になるか、だけである。将兵のすべてが自業自得の立場に身を置いているわけでもなく、冤罪や差別的人事によって配属された者も少なからずいた。処せられた厳罰を回避すべく、打算的にここへの志願を願い出た者も若干数いた。彼らの多くは元いた場所へ戻ることなく、凍土の泥濘にその臓物をぶちまけて人生を終える末路に至る。
そんな悲観と諦念が渦巻く黒雲の隙間から、この選ばれた中隊には、一筋の光が差し伸べられたのである。生き地獄にも等しいこの環境からは、生きて配属期間を満了するほかにない。例外として認められるのは、恩赦である。配属前に決定した有罪を特赦によって免罪されることだけが、唯一の希望であった。
免罪にあたって、彼らは帝国諸民族解放委員会名誉審議官たるマニロフ中佐からの任務が課せられた。実にシンプルで、愛国精神に溢れた誉ある職務であった。親もなく子もなく友もなく、頼れるものは己の信念と、同志諸君の背中だけ。いかにそれが一人善がりなものであろうと、それに縋るほか拠り所はない。そんな彼らが、すんなりと作戦内容を嚥下することのできる命令であった。
ヘルヴェチア連邦北部国境の難民収容所。これを武力によって制圧せしめ、モスクワ・帝国領国家より、官民問わず収奪された財産を奪回する。自らを難民と称して他国の庇護にあやかろうとする卑しき非猿人種どもに、制裁を加えよとのことであった。
おお神よ、ここまでの不運と不遇は、このような名誉ある使命に至るための試練であったのか。
それだったら遠慮することはなかろうな、薄汚い魔物どもが人間ヅラして金勘定ばっかり上手くなる方がいけねえ。奴らは大陸のどこにだって現れやがる、得体の知れねえ悪魔の王に手を合わせ、俺たちから金を巻き上げ、いずれは国家を転覆させるつもりに違いねえ。帝国の凋落も、あのシロアリみてぇに巣くう六本足どもを駆除しきれなかったからだろう。人の生き血を啜って生き永らえるノミどもが。だとすりゃあ次の目標はガリアか、それともモスクワか。
そうだ。そうに決まってやがる。お偉方もなかなか気の利いた仕事を回すじゃあねえか。
かくして武装したモスクワ連合陸軍懲罰歩兵中隊計二一二人は、各々の正義感を携えながら、魔物どもの討伐へと乗り出すのであった。
彼らがこれより従事する作戦における現場の地名より、のちにこの夜の一件は、リーハイムの虐殺と称されることとなる。
山間の底冷えするような夜の気候の中で、難民たちを擁する宿舎が炎に包まれている。
ごうごうと燃え盛る火柱が紺色の夜空を橙に明るく照らし、生きながら焼かれる人々の苦悶の呻きが、黒煙とともに夜天へ呑み込まれていく。その様子を、夜半に目覚めたエルチェはただ茫然と窓から見下ろしていた。弾けるように床を蹴り、蜂の巣をつついたような恐慌が支配する廊下を抜け、事務所の正面から外に出る。
そこには、想像だにしていなかった地獄が広がっていた。
正規の軍人とも思えぬ、薄汚れた身なりの男たちが、炎上する宿舎から逃げおおせてきた難民たちを殴り倒し、引きずり、蹴り回している。逃げる女児を気まぐれに射殺し、スカートの裾に引火した炎に狂乱する老婦人の頭を銃床で叩き割る。そうして懐をまさぐって、金になりそうなものを漁っては、次の得物に銃を向ける。ハンチング帽をかぶった初老の男性に弾丸が放たれ、その頭蓋に着弾した。受け身を取らずに昏倒した男性は、そのまま息絶えた。
あちこちから響き渡る断末魔と、抵抗にもなりえない悲鳴とが混ざり合い、エルチェの耳朶を蹂躙した。この光景は、いったい何? どうして彼らが、あんな目に遭っているというの?
握り締めた拳に、あの魔法の杖があることに気づいた。ラウラが持ち去ったはずのあの杖がなぜ自分の手の中にあるのか。疑問ではあったが、今のエルチェには問題にならなかった。
「ふざけないでっ!」
義憤と悲哀がないまぜになった思考で、エルチェは叫ぶ。彼女の激発に応えるように、杖の先端にはめられた結晶片がひときわ大きく輝く。燃え盛る閃熱が結晶より発され、エネルギーの奔流はやがて鋭利な刀身を思わせる形状へと収斂していく。それはさながら、銃身に装着される銃剣のようであった。
ひとりの暴漢がエルチェに顔を向けた。首からは略奪の証である金時計をはじめとする、貴金属類を含む装飾品が多くぶらさがっていた。若い少女であるエルチェに思わず表情をほころばせるが、彼女の手にした魔法の杖に気づくと、男はぎょっと目をむいた。エルチェの知らない言葉で何かしらをぶつくさ呟いたかと思うと、彼は他の仲間に声をあげた。だみ声に応じて、周囲の視線がエルチェに集中する。
「何しに来たのよ、あんたたちはッ!」
杖を男に差し向けるエルチェ。先端に生じた光の鏃は、高速度で結晶片から解き放たれ、男の胸部に突き立った。射出から着弾まで、およそ十分の一秒もかからない。鏃はより強く発光してみせると、男の上半身が鈍い水音を立てて破裂した。かろうじて原形を留めた頭部や両腕部がボトリと投げ出され、四散した体組織とともに地面を彩った。背骨の残骸を上から生やしたままの下半身が力なく倒れ込むころ、エルチェは次なる獲物に矢を放った。
最初の犠牲者と同じように四肢を爆散させ、もう一人分の鮮やかな絵図が地面に描かれた。居合わせた数人の男たちはさすがに怯んだのか、エルチェからじりじりと距離を取り始めた。彼らの傍らには、衣服を剥かれた半裸の女性が横たわっていた。その横には、喉笛から鮮血を垂れ流す乳飲み子が転がっていた。
「国境警備隊は何をしているの! ヘルヴェチア軍は? 義勇軍は?」
エルチェは展開していたはずの歩哨や国境部隊の姿を探した。国境警備隊に加えて、ヘルヴェチアと魔王軍の共同で、少なくない数を動員していたはずなのだ。二人を殺害したことでほんの少しだけ薄まった激情が、エルチェの視界にフリュギア人の兵卒の死体を映しとらせた。
エルチェは監視塔の方向を見上げた。上部の櫓は暗闇に包まれており、その能力を発揮しているようには見えなかった。
周囲からは、悲鳴と怒声に混じって頼りなげな銃声が時折響いてはくるものの、襲撃に対して優勢なようには思えなかった。
「やられたの……? みんな……それとも」
事務所には軍属の非戦闘員が少なからず残っている。しかし眼前で燃え盛る四棟の宿舎に背を向けることも、エルチェにはできなかった。付近では依然として略奪と虐殺と強姦とが続けられている。こんな凄惨な幕切れを強いられるほどの悪事を働いてきた者が、難民たちの中にどれだけいただろうか。この薄汚い男どもの、どこに彼らの人生を虐げるだけの権利があるというのか。許せない。許されない。決して許してなるものか。
憤怒の形相で、エルチェは数人の男たちの一団へと近づいていく。不意打ちで発砲しようとした背後の一人には一瞥もくれず、ただ杖の一振りで爆散させた。血肉のしぶきが頬に付着するのもお構いなしに、天才魔導士は新たな死骸をつぎつぎ築いていく。
いよいよ杖を男たちに向けると、そのうちの一人が小銃を放り投げて逃げ出した。
「逃がさない」
エルチェがそれを目で追うと、男は突如こめかみから血を噴き出して倒れ込んだ。仲間の末路に驚愕した数人も同じく、一人また一人と倒れていく。惨劇に感づいたヘルヴェチアか魔王軍の援軍だろうか? 淡い希望を求めて、エルチェは周囲を見渡した。誰もいない。オレンジの灯りの中で蠢くのは、エルチェの異能におののく数人の暴漢ばかり。
彼らもまたエルチェに背を向けて走り出すと同時に、頭から血を噴き出して死んでいく。
「どう、なってるの」
倒れ込んだ死体に歩み寄るエルチェ。彼らを殺した射手が、先ほどから自分を観察し続けていたことに感づけるほど、今のエルチェは冷静ではなかった。
監視塔の櫓の内部には、薄い死臭が漂いだしていた。喉をナイフでかき破られた二人の国境警備隊員による、せめてもの無言の抗議ともいえるだろうか。
すべての照明を落とされた内部は、炎上する宿舎からの灯りがやや差し込むばかりで薄暗い。内壁の四方には、十字型に刻まれた銃眼が備え付けられている。殺戮の現場を垣間見ることのできる狭間の前で、モスクワ歩兵の装束に身を包んだ狙撃手は床に座り込み、立てた片膝の上に置いたウィークハンドの二の腕で銃身を支えている。
誰に教わったわけでもない、ノーラ・ツェツィーリア・ライネッケ独自の、座射ともいえるポジショニングであった。銃という武器が修道騎士団に導入されてから二年ほど経つが、騎士とは己が健全な精神と肉体、そして主君より賜りし剣と義によって立つものという思想から、形式主義に拘泥する貴族や僧兵は、銃火器という兵器を敬遠する傾向にあった。
そのような環境であっても、最新兵器に関する知識の吸収を怠らなかったノーラは、騎士団きっての先見の明があったといえよう。修道院内の食糧難を切欠にして誕生した
ノーラはライフルのアイアンサイト越しに、及び腰の兵の姿をとらえていた。狙撃をするにも、ノーラはスコープを用いない。突如現れた火焔を操る魔法使いを前にして、周囲の兵たちは蜘蛛の子を散らすような恐慌状態に陥っている。やがて燃え盛る宿舎の陰から、杖を手にした小柄な少女が姿を現す。
少女が杖を兵に差し向けると、兵の肉体は爆炎を伴ってばらばらに飛び散った。
「エリーゼ様、あれは」
「例の、ベルリンの《魔法野郎》で間違いないわ」
あんなに小さい女の子だとは、思わなかったけど。傍らの大砲用の銃眼から単眼鏡で地上を観察しながら、観測手に徹していたエリーゼ・ガーデルマンが呟く。ノーラと同じく、モスクワ陸軍の兵卒の装備に身を包んでいた。
「……本当に人間ですか、あれ。人間をザクロみたいに破裂させてますけど」
「逃げたくなる気持ちも、わからないでもないわね」
ひとたびあの《魔法野郎》と相対すれば、もう戦力として使い物にはならない。もとより、恐怖にまかれた逃亡兵ごときの使い道を考えてやる気などないのだが。
ノーラは照準をひとりの兵の頭部に合わせた。ためらいなく、引き金を引く。銃声とともに、兵の頭は果実のように内容物を大地に広げ、首から下が倒れ伏す。続けて標的を変え、再び発砲。発砲。発砲。督戦隊の役割を買って出てやっているにも関わらず、依然として兵は《魔法野郎》に立ち向かう気概を見せる気はなさそうだった。エリーゼの合図とともに、ノーラは生き残った最後の一人の頭部目がけ、八ミリ弾を退職金と恩給手当の代わりに見舞ってやった。
「お上手」
「鴨を撃ってた方がまだ面白いですね。キモチ悪い猿人撃ってもキモチ悪いだけです」
床に転がる金属薬莢から揺蕩う白煙が、決して広くはない櫓の中に立ち込める。
次々に倒れていく兵たちの姿に戸惑いを見せた《魔法野郎》に、ノーラは弾倉に残った最後の八発目を発砲した。その気配に寸前で気づいたのか、《魔法野郎》は咄嗟に身を翻した。しかし弾は左の腿に命中し、《魔法野郎》は鮮血を散らして転倒した。
「すみません、撃ち損じました」
「命中には違いないわ。それに、かえって好都合かもしれない」
「《魔法野郎》とはいえ、血の通った生き物には変わりない、ということでしょうか」
手にしたライフルに新たな八発を装填しながら、ノーラが言った。
「大した教練の経験もなさそう。本当に普通の女の子みたい」
装填を終えたノーラは再び床に腰を下ろし、銃口を少女の方へ向けた。
放たれた弾丸は、少女が手放した杖の先端に着弾した。その衝撃で紅色の結晶が砕けると、その煌々とした輝きは徐々に喪われていった。
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