リーハイム・ジェノサイド(2)
滞在先のホテルの部屋の窓から、アミルは真下にある広場を見下ろしていた。ホテルの向かいに立つ時計塔のふもとには、市街のシンボルともいえる噴水広場のひとつがあった。普段なら市民や観光客の往来で賑わう憩いの場所ではあるが、現在は白い天幕や簡易事務所が設営された、一時的な人道支援事業の専用区画と化しつつあった。窓口を市庁舎に設けるというオーギュストからの申し入れもあったが、そちらも受け入れつつ迅速な難民対応を実現するため、フリュギア軍人たちは自主的にこうした活動に勤しんでいるのだった。
そこへ、控えめなノックがドアから聞こえてきた。
「どうぞ」
「ボクだ。ラウラだ」
アミルの許しを得ると、ひとりの少女を伴ってラウラが入室してきた。赤いボレロを纏った、ラウラよりやや長身の彼女は、右腕を肩から巻軸帯で固定していた。痛々しげな白の三角を抱え、その少女は控えめに頭を下げ一礼した。少女のオレンジがかった三つ編みが揺れた。
「エルチェ。ただのエルチェよ、魔王様」
「よろしく、エルチェ」
愛想よく笑顔を向けると、アミルはリビングのテーブル席へと二人を招き、手早く三人分の紅茶を用意した。すでに湯沸かしを済ませておいたので、さほど二人を待たせることなくテーブルへカップを並べることができた。
「二人はベルリンで一度会ってるはずなんだ、わかるかな」
アミルとエルチェの双方に視線を行き交わせ、ラウラが言った。アミルとしては、思い当たる節は一つしかない。数週間前の、リーツェンブルク宮殿での出来事。後で聞いた話では、あの場に居合わせた二つの勢力が、一瞬ではあるが衝突したあの日の夜。
「あなたを宮殿から連れ出すために、肩に一発もらったの。そのことで、感謝の一つでももらいたくて」
エルチェの緊張の度合いは、ほぼほぼ初対面のアミルが、その言葉が虚勢であることがわかるほどであった。思春期特有の自意識の奔流を持て余すさまが愛らしく思え、アミルは破顔しながら応えた。
「ありがとう、エルチェ」
「ふん。まあ別に、あんなのただのマグレなわけだし。ちょっとだけ油断しただけだし。つってもほら、あたしのファインプレイのおかげで、あなたもラウラも怪我しなかったわけじゃん?」
ふてぶてしく照れ隠しをしてみせるエルチェ。
「まだ痛む?」
「……ちょっと」
年は隣のラウラと同じくらい。だからというわけでもないが、アミルの脳裏にはどうしても、あの満月の夜を境に別れたヴィルヘルミーナ・フォン・ヴァイマル・アイゼナハの似姿が浮かんでしまう。
「でも、こんなにうまくいくなんて思ってなかった。夢でも見てるみたいだ」
「何言ってんの。まだ何もかもが始まったばっかりじゃない。モスクワは帝国から全部の軍隊を引いたわけじゃないし、難民の対応だって、どこで躓くかわかんないのよ」
「もちろん、ここで手抜きなんかできないよ。エルチェだって、ただ名前を売るためだけにブルクゼーレから出てきたわけじゃないでしょ」
「天才魔術師には、天才魔術師にしかできないことがあるの。あんなド田舎に燻ぶってる暇なんてなかった。ただそれだけ。人類皆で仲良くなんてのは、あたしにとってはついでなのよ」
天才魔術師、その隣には勇者。
アミルとて、俄かには信じられなかった。伝承にのみ名を遺す勇者の、魔法の、聖剣の存在。しかしこうして実在を目の当たりにしてしまった以上、現実を受け入れるほかなかった。
ふたりは、東西を帝国とガリアに囲まれた小国群のひとつ、ブルクゼーレの出身だという。決して名が知られているわけではない片田舎で生まれ、そして育った彼女たちが、どういったいきさつで人知を超えた異能を授かったのか、アミルは未だ断片的にしか知りえていなかった。
曰く、聖書伝承の真似事。
そんなにも容易に神の奇跡の模倣を再現できるのであれば、世の政治家や王侯貴族は苦労をしない。だが現にアミルは軟禁から解放され、権利回復と解放運動の一翼を担っている。たった二人で戦中のベルリンへ突入し、勇者たちは宮殿から魔王の身柄を奪いせしめた。ただ賢しいだけの少年少女が、あまつさえブルクゼーレの義勇軍を意のままにし、ここまで大々的な国家間活動を実現させられるだろうか。ラウラたちの常軌を逸した身体能力と、そこに付随する奇異なる異能だけが、それを可能とさせたのだ。
「かつて勇者は魔王と手を取りあい、戦争を平定した。ボクが本当に勇者に相応しいと思うのなら、あなたにはこの手を取ってもらいたい」
人質の身の上から解放されてからすぐに訪れたブルクゼーレ軍の野営地で、ラウラはアミルにそう問いかけてきた。青天の霹靂と称するほかない出逢いだった。人の身には余る理想を、しかしラウラはそれすら実現するチカラを持ち合わせているのかもしれない。勇者と名乗るに足る血統と異能を、彼女は与えられたのかもしれない。そんな直感をアミルは抱いていた。
ただ、ラウラの言う通りフリュギアの主席として、拝火を率いて戦うことには抵抗があった。むろん経験に乏しいアミルが即座に国政のトップに立たされることはなく、現在は以前と変わらず宰相がフリュギア本国での国家運営の中枢を担っている。
アミルに求められたのは、あくまでシンボル性なのだ。このことについてはラウラからも、彼やブルクゼーレと繋がりのあったフリュギアの面々からも謝罪の言葉を向けられていた。魔王としての血統を利用することを許してほしいとの断りに、アミルは二つ返事で許しを与えた。しかしそれは寛大さからでも、彼らへの恩を報いるための使命感からでもなかった。
そもそも、帝国から救け出してほしいだなんて願った覚えはないのだ。
人魔統一を掲げ、命を賭して非猿人種の権利回復に邁進するラウラたちを前にしたら、そんな本心は言葉になるより先に、口の中で霞のように霧消してしまっていた。だが、アミルの胸中には、どこか諦念にも似たやるせなさがへばりついているようだった。
アミルにとって、宮殿内のことだけが世界のすべてであった。国内外への視察に付き合わされることはあったにせよ、彼女に思い入れがあるとするなら、少なくとも実感の伴わない人魔統一などという大義名分ではなく、寝食を共にした年下の第四皇女に対して、くらいだろう。
今のアミルの据わりの悪さは、恐らくはラウラとの間に意図せず結ばれた、利害関係に起因する。ラウラの理想は、確かに大陸人として、ひいてはフリュギア王族として尊ぶべき最大の悲願といって差支えはない。人質としての生活を十数年、自分と同じ立場の者たちにも不遇を強いてきた帝国への意趣返しという感情も、アミルの中にないわけではなかった。ラウラやフリュギア本国に与することについて、デメリットらしいデメリットは見当たらない。何より、ここまで自分に期待を寄せる人々の感情を無碍にすることなど、できそうになかった。
だが彼女とラウラとの間には、決定的な温度差というものが存在する。
アミルにとって優先されるべきは、崇高なる理想の実現ではない。
ヴィルヘルミーナとの再会を願うほか、アミルには目指すべき目的はなかった。向けられる畏敬の念を自覚してしまっているからこその、居心地の悪さである。
もちろんあのまま宮殿内に籠っていたとして、ヴィルヘルミーナとの離別は避けようがなかったはずである。ラウラとの出逢いが幸運であったことは、紛れもない事実といえる。
今の立場であれば、帝国の人質という肩書に甘んじていた当時とは比較にならない自由と権力を行使することが可能だ。権能を駆使して第四皇女の行方を追うことも、不可能ではない。アミルにとっては、家族も同然のヴィルヘルミーナの安否だけが気がかりだった。
ゆえにアミルは、そうしたひどく狡猾な打算の上で、幼いラウラの手を握り返したのだ。
猿人と魔物を隔てるものなど、感じたことがなかった。
少なくとも、自分とヴィルヘルミーナとの間には。
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