リーツェンブルク宮潜入(5)

 マカール・トカチェンコ准尉の右腕と引き換えに、モスクワ軍はヴィルヘルミーナ・フォン・ヴァイマル・アイゼナハ皇女の身柄を押さえることに成功した。任務を終えたソロヴィヨフ隊が郊外に位置するグルーネヴァルトの前哨指揮所に帰還したときには、ベルリンはモスクワ軍の大攻勢にさらされていた。北はハンブルク、東はコットブス、南はライプツィヒからと、三方から包囲された帝国軍は、文字通りの無駄な抵抗を試しては、なすすべなく叩き潰されていった。


 夜を徹しての進軍と各個撃破が続き、風前の灯火と化しつつあるベルリンに、やがて朝日が立ち上った。砂上の楼閣に今なお居座るザイリンゼル三世の胸中がいかなるものか、それを想像できうる人間は、この戦争の渦中にはいなかった。


 トカチェンコ准尉は、指揮所に隣接する野戦病院へと搬送された。部隊を受け持っていたソロヴィヨフは、任官して以来の付き合いである副官の負傷に対し、内心やはり穏やかではなかった。此度の戦争における詰めの一手ともいえる作戦を完遂させたとはいえ、晴れ晴れしい気持ちにはなれなかった。しかし、彼の頭痛の種となっている原因はそれだけに留まらない。


「ラウラ・フォン・ベルギエンと遭遇した、か」


 早朝、指揮所の天幕の一角で、ソロヴィヨフはマニロフ中佐と相対していた。


「にわかには信じられんな」


「私も同じ感想です。しかし、あの顔かたちは確かに彼女本人に間違いありません」


「それで、遭遇間もなく彼女の連れが准尉の右腕を……切断、君たちの追求を受けることなく逃亡と。これをそのまま脚色もなしに上へ報告したら、戦争神経症シェルショックを疑われるな」


「ですが現に連中は、我々の理解の範疇外にある方法で攻撃を仕掛けてきました。まるで、あれはまるで……」


「まるで魔法のようだった、と中尉は仰いたいようですわね」


 言い淀むソロヴィヨフの努力を遮るように、ヘレネとエリーゼが天幕内へとやってきた。


「我々もこの目で見ました。黒ずくめのひとりが、杖を振るって炎を放ったのを」


「だが、それがブルクゼーレ義勇軍による行動かどうかは判断しがたい。君たちとしても、その問題に行き当たるだろう?」


 マニロフの指摘は正しい。仮にあれがラウラ本人だったとして、どうやってそれを本人に問い詰める?


 腕を失ったトカチェンコ准尉という生き証人がいたとして、ブルクゼーレ側にシラを切られたらおしまいだ。杖から発した魔法の炎で攻撃されただなんて、御伽話の住人以外の誰がそんな与太を信じてくれるというのか。第一、昨夜の作戦は公表の予定のない極秘裏の活動である。いたずらに藪をつつけばブルクゼーレやそのケツ持ちのガリアのみならず、モスクワ本国からも要らぬ反感を買う可能性すらあった。


 幸いだったのは、ソロヴィヨフたちが身元を極力隠せるような装備で作戦に従事していたことであった。さらにブルクゼーレの場合、あの場においては立場的にソロヴィヨフ隊と同じ不埒な闖入者であろうことは論を待つまでもなく、あちらからモスクワ側の今回の行いについて言及してくることはないだろう。


「だが、連中を差し置いて、第四皇女の身柄を確保できたことは紛れもない事実だ。みな、本当によくやってくれた」


「好きなだけボーナス弾んでくれて、よろしくてよ」


 宮殿を散策しながら、拾ったウイスキーを飲み歩く以外のことをしなかった無能が言った。


「皇女殿下は、いまどちらへ?」


「ポツダムのホテルでお休みになられている。残念ながら皇女救出に関しては、表向きは背広組と官僚の手柄になりそうだな。手間をかけさせられたぶん、役に立ってもらいたいものだ」


「そうですか……」


「何か、まだ気になることでも?」


 沈痛な面持ちをなおも崩さないままのソロヴィヨフの代弁をするように、余所行きの顔つきのヘレネが応じた。


「彼らが皇女の代わりに連れていった人間のことです」


「例の、フリュギア人の少女のことか」


「当初こそ黒フードどもも皇女を狙って宮殿に入ってきたのかと思いましたが、攫っていったのはその魔物の少女だけ。状況からして皇女は諦めたのかもしれませんが。あれ以上魔法だ銃だで戦闘を長引かせれば、いくら士気が下がっている衛兵とて、様子を見に来ないとも限りません。時間に追われてたのは、我々と同じだったはずです」


「修道騎士団でも、リーツェンブルク宮殿について情報を洗いなおしました。最近拘束した上級貴族からの証言とも再度照らし合わせましたが、やはり昨日の時点で宮殿内に居住していた要人らしい要人は、ヴィルヘルミーナ皇女ただ一人だけでした」


 単なる使用人を拉致するためだけに、わざわざモスクワと帝国が雌雄を決する激戦地になりつつある市街へとやってくるだろうか。しかし現状ヘレネたちが持ち得る情報だけでは、黒衣の三人が連れ去ったフリュギア人少女の正体について、何一つわからなかった。


 不愉快さで眉間に皺をよせ、推測を重ねるヘレネを見て、マニロフが唸った。

「そんなに気にかかることかね?」


 マニロフがヘレネから何らかの弱味を握られていることは確かである。禿頭の傀儡が次なる無茶ぶりに怯えながら様子を伺うも、意外なことに、ヘレネは何を命じることもなかった。


「頭のイカれた魔法使い……《魔法野郎》が攫っていったのは、貴族すら知らない宮殿の人間、しかも魔物です。魔物を攫った場合のメリットと言えば、なんでしょう?」


「親フリュギア思想の根強い国家に媚びを売れます。汎スカンディナヴィアなどは、難民受け入れにも前向きな姿勢を示しておりますし、何より拝火教徒に寛容です」


「そう考えれば、あの子供は黒ずくめがわざわざ我々と同じような危険を冒して売るに値するような魔物ということになる」


 エリーゼを交えながら、ヘレネは口頭で思案をつづけた。


「つまり……その、やっぱりあの子はフリュギア側の重役ってことになるのか?」


「推察の上の空論にすぎませんが」


 ソロヴィヨフの問いに、エリーゼは多分な含みを持たせた言葉でぼそりと応えた。

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