リーツェンブルク宮潜入(4)
さながら月は猛禽の眼光のごとく大地を見下ろし、ソロヴィヨフたちを照らしていた。隠密性を高めるという名目で与えられた装備は、一様に黒を基調に纏め上げられている。一見すると警察官めいた服装に身を包んでいるが、人相を隠すための口布が、いかにもな怪しさを醸し出している。法秩序の番人然とした恰好でありながら、これだけで日銭に困ったコソ泥といった感がにじみ出ているのでダサい、とはヘレネの言ではあるが、この不審な風体にはソロヴィヨフも戸惑いを隠せなかった。ただ、野戦装備をそのまま持ち出して市街を闊歩するわけにはいかない。見つけてくれと言わんばかりのなりでいるより、夜闇に乗じることのできる可能性を信じたほうが、幾分かましであろう。
周辺各地に警戒要員を配備し、ソロヴィヨフらは少数精鋭で宮殿の敷地内へと足を踏み入れた。夜半にも関わらず、歩哨の数はそう多くはなかった。ヘレネ経由で圧倒的有利な立場にあるモスクワ側にとって、彼らの死角をつくことはさほど難しいことではない。ソロヴィヨフらは問題なく、バロックとロココの合いの子めいた城館内へと侵入した。
旧城内は不気味なほどに無防備で、殺したはずの自分の足音が、心臓の鼓動とともにはっきりと聞こえてくるほどであった。両手で自動拳銃を構えて歩を進めるソロヴィヨフの前には、同じく武装したエリーゼとトカチェンコの姿がある。そしてその背後には二人の援護をつとめるテクラと、遠足気分で豆菓子を食いながらついてくるヘレネがいた。
「皇族のガキがぐずったとき、誰がそれをあやしてやれる。あたししかいないだろうが」
そうした自信満々の啖呵で、腐っても貴族であるヘレネの同行が決められた。というより、この女は半ば無理やりついてきた。エリーゼやテクラは止めに入ったものの、こうと定めたヘレネが考えを曲げることなどまずない。楽しい物見遊山がつまらない横槍で中断されるなど、彼女にとっては許しがたいことなのであろう。皇族に顔が知れているということを鑑みれば、認められる点もないこともないが、内心ソロヴィヨフは不安が粟立つのを感じていた。
ヘレネ・ヴィッテルスバッハという女は、騎士という武人でありながら、およそ戦士や軍人として秀でたところがない。よく言えば天衣無縫、一般的な感覚でいえば、傍若無人にして昂首闊歩甚だしいわがままクソ女である。
女性にしては長身で体格がよく、並の男以上の膂力や腕力はあるものの、基本的には他人の言うことを聞かない暴君である。もしくは聞いていても屁理屈をこねまわし、ふざけた詭弁で話をうやむやにしてしまう。乗馬はできるが部隊行進ができず、銃の腕は人並み以下。発砲すれば弾丸が銃口の九〇度真横に着弾するほどに、射撃に関して適性がない。人をおちょくり小馬鹿にすることに関しては天才的な采配を発揮する反面、しかしその場の快楽のためであれば、五分間先の損得すら川に放り投げてしまうほどの刹那的放蕩家である。
頭の回転自体は異常なほどに早い、致命的なまでの阿呆。断崖絶壁の対岸に金塊がうず高く積まれていれば、そこに張られた一本のピアノ線の上だって全力疾走してきそうな女。というのが、ソロヴィヨフのヘレネ観であった。
「中尉、あれを」
上階へつながる階段を目指して板張りの廊下を歩いていると、トカチェンコ准尉が小声で話しかけてきた。傍らに備えつかれた窓を指で示すと、窓を覆っていたレースのカーテンを少しだけ開いた。窓の外には、閑静な深夜の庭園と散策路が広がっている。方角からして、窓からは敷地の東側が覗けた。周囲を藍色の帳が宮殿敷地を覆っているのは侵入時と変わりないが、ある一角だけは煌々と暖色の灯りが輝いていた。
「パビリオン館ですわね。絵画や陶器を展示するための施設です」
エリーゼがレースの隙間から覗く小さな不夜城を解説した。
「ここまで衛兵の一人すら見かけておりません。あそこが詰め所として機能しているのでしょうか」
「皇族を放って別棟に詰めているとは考えにくいな。ここまで護衛が手薄なのも解せないが」
「案外、全部ほったらかして酒でもかっ食らってんじゃねえの」
暢気な声でヘレネが茶々を入れた。小言の一つでも言ってやろうとソロヴィヨフが振り向くと、彼女の手には、五分目ほど中身が残されたままのウイスキーの瓶が握られていた。
「またお前はそんなもの持ち込んで」
「あたしのじゃねえよ。あそこにあった」
ヘレネは、最寄りの半開きのドアを顎で指示した。もしや堂々と部屋に入り込んでくすねたのか? 誰にも見つからずに? おそるおそるソロヴィヨフはトカチェンコを伴い、部屋の中を覗き込む。誰もいない。使用人に割り当てられているのだろう、縦に長い一室である。小さなテーブルの上に置かれたオイルランプの小さな光だけが、個室内を照らしていた。テーブルの横には二段ベッド。シーツの上には侍従の装束のほか、衛兵のものらしきジャケットが無造作に放り投げられ、周りにはカラになった酒瓶や煙草、そして避妊具の空箱が散らばっていた。
「仮にも皇族のいる宮殿で、堂々と酒だ女だに溺れる兵隊がいるんじゃあ、この国ももう終わりだなあ」
ウイスキーをがぶりとあおって、ヘレネはここにいたはずの衛兵たちをヘラヘラ嘲った。
極限の緊張からの拍子抜けを味わったのは、今回が初めてではない。パルスベルク陥落以降、半ばソロヴィヨフらの間で定石となったヘレネのハッタリペテン戦術で勝利を迎えると、毎回こうした脱力感に包まれる。先ほどのヘレネの予想は正しかったらしく、二階に上がったところで、帝国兵の護衛の目が光っているなどということはなかった。皇女なんぞ知ったことか、攫うならさっさと攫っていけとでも主張しているようなザルぶりである。
しかし人望があろうがなかろうが、モスクワにとって敵国の寵姫とあれば、喉から手が出るほどの存在である。勝ち目のない戦争に国民を巻き込み、国土を蹂躙した皇帝家の血に連なる罪人として、第四皇女の存在は都合が良かった。彼女を旗頭に臨時政府をモスクワ主導で樹立させ、改めてザイリンゼル三世とその取り巻きの貴族どもを糾弾し弾劾するというのが、本国のお偉方の考えであった。戦後の帝国社会を牛耳っていくには、彼女は傀儡としてこれ以上ない逸材なのである。
また、戦争の正当性を諸国家に向け高らかに顕示するという目的もあった。第四皇女ヴィルヘルミーナとは、人間の形をした大義名分である。亡びゆく大国の忘れ形見である皇女の境遇の悲劇性は、唯一無二のアピールポイントになるだろう。
先日目を通した邸内の見取図に従い、ソロヴィヨフらは皇女の寝室を目指す。白布のドレープやロココ調の金細工で彩られた大広間の壁面を横目に、最奥の部屋へと歩を進めていく。寝室へ続く廊下を歩く中で、先頭を歩くエリーゼとトカチェンコが突如足を止めた。
「扉が開いています」
「なんだって?」
再度、緊張の糸が強く張り詰めた。寝室へ続くドアは施錠すらされておらず、先ほどの使用人の部屋と同様に、だらしなく半開きになっていた。
「どういうことでしょう」
「単純な閉め忘れ、とは考えたくありませんわね」
「誘拐犯の先客でもいるっていうのか?」
エリーゼとトカチェンコが推測を立てる。ソロヴィヨフもまた、自分たちと同じく皇女の身柄を拉致しようとやってきた、剣呑な闖入者の存在を考えていた。先を越されて皇女を奪われでもしていたら、無駄足どころの騒ぎではない。しかし、室内を確かめないままで踵を返すわけにもいかない。鉢合わせて交戦するリスクもやむなしである。ソロヴィヨフはトカチェンコに目で合図し、共にドアへと向かった。意を決してドアを開けると、すかさずトカチェンコが先陣を切って室内に銃口を差し向けた。
皇女の寝室とされる部屋。白い月明りの中、薄桃色の壁紙は、さながら雲に包まれてまどろむ夢の中を思わせた。それ以外の調度品はひどく質素で、部屋の奥に据え置かれたベッドのほか、室内には布を被ったイーゼルくらいのものしかない。開け放たれたバルコニーの窓から差し込む月光は、ソロヴィヨフたちが予想だにしていなかった光景を照らし出していた。
天蓋付きのベッドの真横には、二人の人影があった。いずれも線の細い女性か子供。フード付きの黒の外套に身を包んでいて、容貌をうかがい知ることはできない。ひとりはベッド横にひざまずき、華奢な少女をその両腕に抱いていた。肌の色や頭部の巻き角からして、少女はフリュギア系の人間らしかった。
「迎えに来たよ、魔王」
その一人はやがてフードを外し、頭部を露出した。ソロヴィヨフには見覚えのある、灼熱を思わせる深紅の頭髪が、束になって零れ落ちた。赤毛の隙間から垣間見えるその顔かたちは、ソロヴィヨフの記憶にしっかりと刻まれていたものだった。
(ラウラ・フォン・ベルギエン!)
ロリィタワンピースを身に纏い、ふわふわと妖精のように石畳を駆ける少女の姿が、ソロヴィヨフの脳裏に浮かぶ。真っ赤な赤毛が頭の左右で揺れるさまは、さながら愛らしい小型犬のようであったことを連想する。フリルとリボンで飾られたマシュマロの擬人化めいたラウラが、それではなぜこの場所に、そんな姿でいるのか。
果たしてあれは本当にラウラ本人だろうか。否、あの端正な顔立ちを忘れるはずがない。だとすると、あとの二人は誰だ? ブルクゼーレ義勇軍の人間だろうか? 何の目的で?
水中の気泡のごとくに浮かび上がる疑問の数々は、それぞれがばらばらに独立しているように見え、およそ連続性を見出すことはできそうになかった。そして、これらの不可解な問題の数々は、ソロヴィヨフの思考から迅速な判断力を削ぐのに充分であった。
黒ローブの一人が腕をこちらへ差し出した。手にしているのは、樫の木の杖のようだった。紅く煌めく宝石めいたものが埋め込まれた先端を、さながら銃口のごとくに突きつける。
薄暗がりの室内を、月光とは異なる深紅の稲妻が奔った。瞬間的に点火された酸素が弾ける破裂音が響き渡ると同時に、聞きなれた自動拳銃の銃声が遅れて聞こえた。その直後、耐えがたい苦痛を孕んだ呻きとともに、トカチェンコの巨体がソロヴィヨフへと倒れ込んできた。生暖かい大出血が周囲にしぶき飛び散る。彼の右肩から胸部にかけてが、大きく抉られるように穿たれていた。疵跡は焼け焦げていて、炭化した箇所のそこここから真っ赤に焼ける断面が垣間見えた。
杖の先端から高速で放たれた赤い閃光が爆ぜ、傍に立つトカチェンコの肩を『灼いた』。
銃でもなく剣でもない、おかしな魔法めいた方法で。
その事実を嘔吐感とともになんとか嚥下すると、ソロヴィヨフは銃口をくだんの黒ローブに向けた。二発を発砲。当たらない。正確には、当たっていたはずというのが正しい。黒ローブの頭部を的確に貫くはずだった弾頭は、不可視の壁に阻まれたかのように運動エネルギーを突如として喪失し、床へと転がった。
次なる攻撃を加えてくるとでもいうのか、再び黒ローブの手にする杖の先端が赤い光を帯び始める。しかし再度の閃光が放たれることはなかった。仲間が手でこれを制したからだ。一連の行為を目の当たりにしていたラウラらしき人物は、こちらへ一瞥をくれてから、杖を持ったもう一人を伴って、開け放たれた大窓からバルコニーへと出た。
(背を向けた? この状況で?)
混乱しながら歯噛みするソロヴィヨフが次なる発砲に至るより早く、背後のエリーゼがその背を蹴倒した。したたか顔面を床に強打し、かえって頭が冷えたような気がした。
「落ち着いてくださいまし」
ソロヴィヨフに代わって、牽制の目的で室内に銃を向けるエリーゼ。しかし、彼女には発砲するつもりはなさそうだった。
「皇女殿下の御前で、これ以上むやみに発砲するわけにはいきませんでしょう」
そう正論を吐き捨てるエリーゼではあるが、その声色からは普段と異なり、奇妙な魔術を見せつけられたことに起因するであろう震えが感じられた。
そのとき、片膝をつくソロヴィヨフやエリーゼを押しのけて室内へと強引に押し入る人影があった。ヘレネである。
「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね死ね死ねえっ!」
先の、路傍の石を見やるような、赤毛の少女の一瞥。これがヘレネの逆鱗に触れたのだ。片手でまっすぐ銃を構え、やたらめったらに引き金を引き続ける。奇妙な魔術を行使しての威嚇に成功し、それに甘んじての逃走を図ろうとした二人も、ヘレネのこの行為には度肝を抜かれたのだろうか。狂犬が無秩序に喚くような銃声に追い立てられ、彼らはその場から駆け出した。
放たれた弾丸は、室内の人間を誰一人傷つけることはなかったが、無遠慮に響き渡る幾度もの発砲音は、面々の鼓膜を丹念につんざいていった。
「お姉さま、おやめになって、お姉さま」
「皇女殿下の御前です、ヘレネ様」
「お前らなんで撃たない! あいつら絶対あたしたちのことナメくさってやがったぞ! なあにがカッコつけて魔法、バァンだ! ザケやがって、何なんだあいつらは!」
テクラがヘレネに銃を下げさせるころには、弾倉内の弾薬はカラになっていた。
あたりに吹き上がった硝煙が消え、一同が再び室内に目を向けると、黒ローブの二人組は姿を消していた。豪奢なベッドには、周囲の弾痕に怯えきった第四皇女だけが取り残されていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます