リーツェンブルク宮潜入(3)
二百年前に時の皇帝妃の離宮として建設されたリーツェンブルク宮殿には、第四皇女と彼女の侍従たち、そして護衛として配備されている近衛騎兵師団、その警備部の一握りが滞在しているばかりであった。
来るべきモスクワとの決戦に備え、軍勢力の主力の大半は皇帝が在するベルリン宮ないしは都市外延部に展開されており、その守りはお世辞にも堅牢とは言い難いものであった。
齢十三のヴィルヘルミーナ・フォン・ヴァイマル・アイゼナハ皇女は、名実ともに今の宮殿の主である。贅の限りを尽くされた豪壮なる各部の内装は、虚栄心の化身とも称された前王の意向によるものに他ならない。どちらかといえば内向的な性格の彼女は、当時の外洋貿易の隆盛と、皇帝家の経済的潤沢さを誇示するかのような装いの居城をあまり好かなかった。
ベルリン宮のそれと比較すれば小規模な庭園のあずま屋でのひと時を、平時の彼女は好んだ。だが、視界にちらつく東西に広大な宮殿の外観は、閑静な自然との触れ合いを愛する彼女の平静をしばしば害した。開戦以来、日課である敷地内の散歩の中止を余儀なくされたこともあり、息の詰まるような思いで皇女は日々を過ごしていた。特に昨今、帝国が季節外れの大嵐に見舞われていたこともあり、屋内での生活を強いられる彼女の抱く閉塞感は増すばかりであった。
「兵たちは、陛下がすでに他国へ亡命しているのではと、噂しているの」
黄昏の西日がさしこむ宮殿の一室で、皇女はイーゼルの向こうのベッドに横たわる裸の少女に向かって呟いた。モデルの頭髪の流れを再現する絵筆の動きは画一的で、そこにはどことなく投げやりな雰囲気すら漂っている。皇女の意識は絵画ではなく、あくまで少女との意思疎通にのみ注力されていた。
陽の光が当たる裸婦モデルの少女の素肌は藍色がかっていて、肩先まで下がる髪は、深く暗い紺碧色。両側頭部から雄々しく伸びる黒曜の巻角は、華奢な体躯とは対照的である。いずれも、フリュギア系猿人のポピュラーな身体的形質であった。小柄な体つきは肉付きに欠け、膨らみかけの乳房の下で、うっすらと肋骨の影が浮いている。皇女と並べば彼女は妹分にも見えかねないが、年齢的には皇女より四つほど年上であった。
「あくまで噂にすぎません。お心を穏やかにお持ちくださいませ」
「パルスベルクが落ちてから、そんな話ばかり聞こえてくる」
「気負われすぎでございます、殿下」
「侍女の耳を介すれば、衛兵のぼやきだって、大演説とさして変わらないわ」
「本当にお父上が……陛下が、ミーナ様をベルリンに置いてお逃げになると?」
アーモンド色の髪をかき上げて、皇女は答えた。
「嫌でもわかってしまうの。陛下から軽んじられていることは」
「そんなことはございません。子を顧みぬ父親など、どこにいるでしょう」
一瞬鼻白んだような表情をしてから、皇女はその仕草がひどく彼女を傷つけたのではないかと感づいて、思わず視線を伏せた。
「ごめんなさい。気遣ってくれてるのよね。あなただって不安でしょうに」
かすかに抱いた黒い疑心が、皇女の心持を自己嫌悪で重く沈ませた。
少女はヴィルヘルミーナと同じく、貴き血筋を引く王族のひとりである。むろん皇帝家の傍流にある家系の人間ではない。少女は人質として母国を離れ、このリーツェンブルク宮殿へとやってきた。人生の大半を軟禁も同然の環境で過ごした彼女は、やはり自身を引き渡した祖国の為政者たちを恨みがましく思っているのではないか。そんな勘繰りが、皇女に先ほどの態度をとらせたのである。
「今日はもう、よろしいのですか」
筆が止まって久しい皇女に、少女がやさしくそう言った。ヴィルヘルミーナが首を縦に振ると、少女は傍らのガウンを裸体の上から羽織った。
「一番つらいのは、あなたの方よね。こんなところに連れてこられて、悪趣味な宮殿に閉じ込められて、挙句の果てには勝てる見込みのない戦争が始まって」
「ここで不自由に思ったことなどありません」
「嘘よ。嘘だわ」
少女は困ったような表情を浮かべて、ヴィルヘルミーナの次なる言葉を待った。
「嘘だって言ってほしいの。たった一言だけ、こんな生活ウンザリだって」
そうすれば自分は安心できる。自分と同じ感情を共有する幼馴染ほど、心の安寧をもたらしてくれるものなどない。貴き父母から軽んじられるこの身の上を理解してくれる友人に、ヴィルヘルミーナは飢えていた。少女が自分の抱いている感情と酷似した鬱屈を有している、そんな証明を、ヴィルヘルミーナは確かめ合いたかったのである。
「私は、ミーナ様に嘘などつきません」
「この国が嫌いでしょう? あなたが私たちを好きになる理由なんてないもの」
「私が、フリュギアの人間だからですか?」
皇女が口にした偏見に、少女の表情が曇った。これまでの付き合いの中では、口にされてこなかったであろう言葉の一つである。それはすなわち、ヴィルヘルミーナの中で育まれてきた差別感情の、初めての発露ともいえた。
「いえ、私の浅ましい振る舞いが、ミーナ様にそう思わせてしまったのでしょう」
貶めるつもりなど欠片もなかったはずが、無意識な偏見が意図せず飛び出したことで、皇女は瞳を潤ませながら繕いの言葉を探し始める羽目になった。しかし唇を動かした分だけ、焼けつくような自己嫌悪が積み重なっていくばかりだった。
「そういうことを言っているんじゃないの、私は」
不敬にもヴィルヘルミーナの言葉を遮るように、少女は皇女の目の前に歩み寄り、その場でひざまずいた。
「帝国の人々を恨んだことなどありません。恨むことができるほど、私は大勢の人と触れ合ったことがないのです。ですから、ミーナ様の仰るようなつらい思いというのを、少しばかり理解しかねているのです。しかしミーナ様がそうした苦しみを抱えておられるのであれば……」
ヴィルヘルミーナの白い手指を手に取って、少女は軽い口づけをした。
「できうる限り解決のお手伝いをしたく存じております。帝国にもフリュギアにも関わりの薄い私ではありますが、こんな私でも、ミーナ様がおつらい思いをされていることだけは、見過ごしてはおけないのです」
そう言って、少女はヴィルヘルミーナの尊顔を見上げた。真冬の夜空を思わせる漆黒の強膜には、黄金色の満月のような瞳が輝いていた。
「ああ、アミル……アミル!」
ヴィルヘルミーナは、眼下の幼馴染がひときわいとおしくなり、彼女に力いっぱい抱き着いた。少女の青い首に腕を回し、離れたくないと言わんばかりに、絨毯敷きの床へと押し倒す。
「ミーナ様、お戯れを……」
「お願いよアミル、もっと、もっと自分を大切にしてちょうだい。私のことなんていいの、もっと自分のことだけを考えて」
「そういうわけには……参りません」
「誰に吹き込まれたのかは知らないけど、今のあなたは普通じゃないわ」
これも彼女に施された、英才教育とやらの賜物なのだろうか。修好を結んだ各国から寄せ集めた王侯貴族の子弟に対し、教育の過程で思想矯正を施すというのは、帝国に限った慣習ではない。外交や植民地運営に関して都合よく事を運ぶため、幼い身の王族を人質をとる行為が人道的誤謬とされるには、未だ大陸社会は若すぎるのだろう。
「いいえ、ミーナ様。これは間違いなく、私の意思です」
ヴィルヘルミーナの背を穏やかに撫ぜ、アミルと呼ばれた少女は語った。
「私は確かに、誰かを恨んだり、憎んだりはしていません。それはほかの誰かに特段の思い入れを持っていないのと同じです。さっきも言ったように、私はミーナ様のような豊かな価値観を持ち合わせていないのです。何を愛して、何を憎むかの判断は、きっとできません」
「やっぱりわかってない、わかってないわアミル。宮殿の外に一歩でも出れば、きっとあなたは殺される。ひどい言葉で罵られて、辱めを受けて、最後にはあの疫病が蔓延するゲットーに放り込まれる。帝国というのは、そうして自分以外の誰かを貶めて成り立っているの」
「いずれは、その実情を変えていかねばなりませんね」
「無理よ、そんなの。近衛の衛兵だって、肌の青いあなたをよくは思っていないはず。この国はね、アミル。あなたの思っているほど賢くもないし、輝かしいものでもないの」
宮殿内に蔓延する厭戦気風と、諦念がもたらす濃厚な臭気をかぎ取れないほど、ヴィルヘルミーナは父親や他の姉妹のように愚鈍ではなかった。きっと、この戦争で帝国は敗れる。しかし、敗れたところで、拝火人を取り巻く環境が劇的に変化するようには思えない。弾圧する側の頭がすげ変わるだけだ。近日中にモスクワ軍がベルリンを制圧し、ガリアやブリタニアが国土を切り分けても、ゲットーだけは腐臭を放つ収容所として、これからも機能し続けるのであろう。
「ミーナ様も、フリュギアの人間は……魔物はそうあるべきだとお考えなのですか?」
「私は……」
「違うと仰るのであれば、なおさらご自分の生まれた国を卑下されるのはおやめください。ミーナ様は、帝国という巨木を支える幹たりえるひとり。どの枝葉を選び、どの末節を切り捨てていくか。それは、帝国を愛してこそ為せることではありませんか」
国は破れようが、そこに残った山河には、為政者として殉じた者たちの意思は遺る。それが、広く世界を知らないアミルが普遍だと信じる考えであり、ヴィルヘルミーナへと向けられた激励でもあった。
「それでも私は、帝国がきらいよ。貴族も父上も、みんなきらい」
「滅多なことをおっしゃらないで、ミーナ様」
「ゾフィー姉さまも、フリーデリケ姉さまも、みんな私を置いて逃げちゃった。ベルリンにはもう、私の家族は陛下しかいない。ううん、とっくにどこか遠くに行ってしまったのかも」
ゾフィーとフリーデリケは、ともにヴィルヘルミーナの姉である。それぞれ第一皇女、第三皇女という肩書をもって帝都に生まれた少女たちであったが、一ヶ月前に隣国ガリアの王党派の伝手を頼って亡命を図った。しかし前宰相クリゾルトを信奉する西部諸領の貴族が息のかかった方面軍に捕縛され、身柄を幽閉されるという末路に陥っていた。モスクワ軍の先鋒を目前にして、未だヴィルヘルミーナがベルリンに留まり続けているのは、もはや皇族といえど、帝国領内は安全な地域とは言い難いものに変貌しつつあるからだといえる。
「私の家族は、もうアミルしかいないの。だから、あなただけはどこにもいかないで」
真夜中の海原のようなアミルの髪に顔をうずめ、ヴィルヘルミーナは彼女の耳元で懇願した。
「ずっと一緒にいて頂戴、お願いよ」
「ミーナ様」
どこにも逃げ場なんてない。帝国軍もモスクワ軍も、皇帝の実子である自分を好意的に迎え入れるはずがない。人々の諦念は、確かにヴィルヘルミーナの心に根深く伝染していた。
アミルはヴィルヘルミーナを抱き起し、彼女の顔を見やった。
「たとえ離れ離れになっても、きっとお迎えに参上いたします。ミーナ様が健やかでおられるような……いいえ。皆が手を取り合って生きられるような、そんな場所を築いて、あなたをお待ちいたします。ですから、どうかそんなお顔をなさらないで」
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