リーツェンブルク宮潜入(6)
その日、モスクワ軍によるベルリン攻撃は、再開されなかった。彼らが皇帝の居城を前にして静観の構えを見せたのは、ラジオと新聞で大々的に伝えられた、ある報道のせいだった。
今まさに帝国の息の根を止めようとするモスクワに対し、ブリタニアを筆頭に結成された諸国連盟が、突如として宣戦布告を叩きつけたのである。西欧社会への武力による進出を阻止するため、といった題目を掲げた三国連盟は、モスクワ軍の所業を手厳しく非難した。今の今までモスクワによる帝国の蹂躙を座視し続けたにもかかわらず、である。加えて彼らはリベラル派の知識階級に阿った非猿人種の解放というモスクワの二番煎じも甚だしい大義名分を喧伝し、参戦への正当性を殊更に強調した。この対立は、大陸社会の正義と秩序を再定義するための聖戦なのだと。
モスクワとてザイリンゼル三世政権の打倒という題目を首から提げている以上、必要以上にこれが単なる侵略だと謗られるような戦い方はしていない、はずであった。
差別のはびこる封建主義を解体するための解放戦争なのだと、外交官や各国の弁務官は口が酸っぱくなるほどこれを高らかに叫んでいた。
だが、今回ばかりは相手が悪かった。この論法は、この相手にだけは通じない。
ガリアに続いて諸国家連盟への合流を表明した最後の一国とは、フリュギア首長国連邦であった。長きにわたって空白だった首長の座に、一人の高貴なる血を引く少女が就いたことで、この地上にかつて存在した肩書が復古したのである。
その名は、【魔王】。
古来より拝火を信仰する民族の長として知られ、升天教神話には勇者と戦い、のちに手を取り合って和解したと伝えられる存在。大ダルマチア戦争では、その末裔が非猿人種を統べる最盛期の帝国と戦い、力及ばず敗れ去ったと伝えられていたが、未だにその血統が存続していたという事実は、大陸社会を大きく震撼させた。
神話に知られる魔王エレシュキガルの名を襲名した王族の少女は、これより刃を交えることとなるモスクワのみならず、全世界に向けて主張を発表した。広場で、壇上で、政庁舎のバルコニーで勇ましく一席をぶつ双角の少女アミル・カルカヴァンの姿は、実用化間もない報道写真によって、克明に伝えられていった。最新の活版技術の普及により、一躍彼女は大陸を席巻する時の人と相成ったのだ。
帝国圏における被差別人種、その代表が物理的拘束と精神的支配から逃れ、御自ら非猿人種の自由と平等、博愛と大義を説いてみせる光景は、旧体制に抗う時代の寵児に相応しい物語性を有していた。専制主義が朽ちゆき、民主主義の黎明を迎えんとする大陸の非猿人種たちにとって、これほどまでに克己心と希望、そして共感を掻き立てるものはなかった。
生きとし生けるものすべてが隣人を愛し、相互に慈しみをもって生を営むことこそが、旧き神と勇者から教えられた叡智に他ならない。しかし帝国は、自らを神の、そして勇者の代行者を称し、多くの弱者の生き血を啜って栄華を誇るに至った。
愛も慈しみもなく、ただ恐怖と絶望のみが広き大地を穢した。それが果たして、人が生きるべき楽園と言えるだろうか。この世の地獄をエデンと称する諧謔は、否定されるべきなのだ。
我々はすべての人々が信ずる神々を、勇者と隣人を愛している。
我々は、【勇ましきもの】を騙るすべての悪徳と残酷さを憎んでいる。
ゆえにこそ我々は、ふたたび
自らを真の勇者と謳う憎むべき真なる敵を大陸から打ち払うべく、我らは今一度爪牙をみがき、荒野へと、森林へと、山々へと躍り出よう。
我らは【魔王軍】。
魔王エレシュキガルの名のもとに、悪しき驕りを排さんがために。
少なくともこの主張は、モスクワの外交官の口先だけでたやすく御しきれるものではなかった。モスクワが帝国に対して突きつけたチェックメイトは、ひとりの少女の一声によって、いとも簡単に覆されてしまったのである。
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