リーツェンブルク宮潜入(1)
かつて帝国と鎬を削りあっていたガリアの誇る
情報が制限される敵地において、ここまで縦横無尽に警戒の目をすり抜けて、急所を一刺しにして回る芸当は、窮地に立たされつつある帝国軍にとっては災厄に他ならない。
しかしどれだけ警戒を厳にしたところで、鼠一匹がようやく潜り込めるような隙間に至るまでを完全にカバーすることなど不可能である。予兆らしい予兆を感じさせないままに暗殺者は現れ、指揮権を有する中枢の人間の命を瞬く間に刈り取っていく。あまりに現実味の欠けた、同時にきわめて合理的なその敵の存在を、前線の貴族たちは何より恐れたのだった。しかし、フタを開けてみればどうということはない。不可視の死神の仕業でも、天にまします唯一神による神罰によるものでもない。非現実的な超常現象は、どこにも発生していないのだ。
すべては愛国心のカケラも持ち合わせない、ヘレネ・フォン・ヴィッテルスバッハ伯爵と、その隷下の騎士団の所業である。レーゲンスブルク防衛のため粉骨砕身し、部隊潰滅の憂目に遭いながらも、生き恥を忍んで捕虜となり下がった。帝国存続のため命をつなぎ留め、日々の凌辱を耐えながらなんとか見つけ出した一瞬の間隙を縫い、モスクワの拘束を脱した。
こうした茶番劇の筋書きというのは、ロマンチシズムに陶酔しがちな貴族将校相手には、これ以上なく有効な作用を示す甘い麻酔である。ただでさえヘレネは顔がいい。エルフの守銭奴どもが経営する娼館のヘルヴェチア人女性であろうとも、彼女以上に見目麗しい女はいないだろう。あわよくば彼女との一夜を期待してだろうか。兵たちは名誉欲と性欲との狭間で理性をぷわぷわ揺蕩わせ、男所帯の臨戦態勢に舞い降りた天女に、それはもう恭しく敬礼を捧げてしまうのだ。ヘレネ率いる騎士団に懐に入られてしまえば、神経の隅々にまで麻酔が完璧に浸透したも同然である。一両日中には指揮官は持ち得る限りの情報を搾り取られ、返礼とばかりに喉元へ銃剣を突き刺されて絶命するのだ。
いつかどこかで失敗するだろう、神話に出てくる悪女じゃあるまいし。どこかでぶち殺されてくれれば、いっそ気が楽になる。ひねくれながらもそうした楽観的な考えを、ソロヴィヨフは常に頭の片隅に抱いていた。人道的には悪逆非道きわまりない行いに外ならず、戦後にこれらの事実が明るみになってしまえば、マニロフ中佐はおろか、あの女の行為を看過していたソロヴィヨフすら戦犯の一人と判断されるだろう。何度かこの懸念をヘレネ本人に打ち明けてはいたが、「バレてもねえことでいちいちうるせぇ童貞野郎だ」とのたまうばかりであった。
現状ソロヴィヨフは、ヘレネと共犯の関係にある。ヘレネは捕虜らしからぬ心身の自由を謳歌し、ソロヴィヨフは彼女からもたらされる有益な情報をもとに作戦を立案、決行することで戦果を得、軍内での信頼を勝ち取ってきている。相互にメリットのある関係ではあるが、これを長続きさせたいと願うほど、ソロヴィヨフの神経は図太いものではなかった。
また、ヘレネは筋金入りの
ソロヴィヨフの副官を勤めるトカチェンコ准尉などは
ともあれヘレネが驚異的な幸運と、類まれなる美貌だけでモスクワ軍を帝都へと招き入れつつあるのは、否定しがたい事実であった。
しかしながら、突如として彼らの進軍は、予測不可能な天災で阻まれた。か弱き人類のおこないに与することなどあるはずもない、大地の霊長の最筆頭たる閣竜たちのもたらした、未曽有の暴風雨によって。
その唸りは地鳴りを起こし、その咆哮は地底に煮えたぎるマグマの憤激を招来する。大自然の営みを只事かのように手繰り、感情の匙加減の如何によって人間の都市、ひいては国家のひとつふたつを容易く消し飛ばす能力を持ち合わせる、まさしく天威の顕現である。不定期な気まぐれで人間をいじめ尽くすためだけに天より遣わされたであろう、そんな神にも等しい竜たちは、時折こうして自らの権能を示すべく、地上を蹂躙せしめるのである。城を砕く風を呼び、山を崩す雨を呼び、村々を焼く雷鳴を轟かせ、とにかく彼らは暴れ狂う。
彼らが物言わぬ大災害と異なるのは、少なくとも最低限の礼や便宜を図ってくれる点である。閣竜会議なる黴の生えた太古の議定書によって交わされた、当時の人類と閣竜による条約群。そのうちのひとつに、ドラッヘンフェルス条約なるものが存在する。今よりおよそ三百年前、同名を冠する帝国領のとある都市にて締結された、閣竜の持つ権能の制約に関する取り決めである。形骸化したといっていいような他の条項と比較すれば真新しい国家間合意であり、本条約をもって初めて閣竜たちは、地上に大規模な破壊や損害をもたらしかねない自らの権能の行使について、事前通告を行う義務を認めたのである。
産業革命によってより多くの富、より多くの領土を求めて増長する人類は、もはやそれ自体が閣竜の一個体として、彼らの横に居並ぶに相応しい存在になりかけていた。閣竜の羽ばたきによって灯火を失い、暗闇の中で怯えながら路頭に迷う時代は、終わりを告げたのだ。今や人類はその科学をもって、閣竜を仕留めこれを討ち果たすことも、よもや不可能ではなくなった。ガスが、爆薬が、金属が、そして知恵と勇気が、彼らにそれを可能とさせたのだ。もっとも、人的・物的損害を可能な限り度外視すればの話ではあるが。
人類の活動領域とその発展によって生じた異文化間の衝突をきっかけに、帝国と拝火による大ダルマチア戦争は勃発したが、それと同じくして、もはや閣竜との本格的な対立は避けられえぬものと考えられていた。こうした国家間の緊張と閣竜への対応によって当事者たちに求められたのが、相互不可侵と永続的な和平の希求を旨とする平和的問題解決策だった。それこそがドラッヘンフェルス条約の意義であり、閣竜会議の本懐とするところであった。
いかに気高く強大な閣竜とて、生き物である。一個体の生命体である。ライフサイクルの間隔には大きな開きはあれど、何かを食べて代謝をおこない排泄し、血を遺すために他の個体と交わって繁殖する。暇をあかせば関心のある何事かを求めて旅に出るし、時には人類の記した書物に関心を持つことだってある。むろん、魅力的な竜を巡って他者と争うことだってする。この時の荒れ様が、人類との戦争なんぞ比較にならないほどにひどい。命が惜しいとはいうものの、彼らがその愛を満天下に示すときほど、地上に住まうあらゆる生命が、要らぬ迷惑を被る時季などほかにない。ドラッヘンフェルス条約はヒトと閣竜との間に明確な和平努力を課したが、この条約の最たる機能は、閣竜同士の紛争に基づく通告義務にある。
閣竜は、己の有する権能の強大さを認めたうえで、なおかつ自身の利益追求や急迫不正の侵害に基づいてその能力を行使せざるを得ないと判断した場合、その蓋然性や権能行使にかかる正当な事由を、あらかじめ条約批准国の認可を得た代理人を通して、国際的に公表しなければならない。
すなわち、好き勝手に嵐や噴火を巻き起こして大陸を荒らすな、ということである。
折しも帝国はその首都ベルリンを、モスクワ軍の攻勢に際して無防備に曝け出しているも同然であった。
そんな中、幸か不幸か、偶然にも閣竜同士による紛争が勃発したのだ。東西の大国による戦乱などどこ吹く風、北方はバルト海を越えてきた二頭の閣竜は、あろうことか帝国北部へと上陸。地上から五千メートルの上空にて、黒雲と雷鳴を纏い雌雄を決すべく、戦いを繰り広げているというのだ。スカンディナヴィア政府を通して発表された双方の代理人の声明によれば、紛争の目的は『一身上の都合』とのことだったが、これが痴情の縺れによるものであることは、第三者たる人類の目からしても明らかだった。何しろ竜による野心に任せた領地侵犯に端を発する紛争の事例など、ドラッヘンフェルス条約の制定から数百年、ありはしなかったからだ。基本的に閣竜は、痴情が縺れでもしなければ争わないのである。
騒乱の渦中にある一人は、スカンディナヴィアはガルフピッゲン山脈の一部を領地とするハーラルド・ウルリック・スヴェトラック・オップラン・ガルフピッゲン・ヨトゥンハイム卿。
もう一人は、ガルフピッゲンを更に北上したイナリ湖に住まうエリエル・ミッカ・タピオ・パルタッコ・ウコンキヴィ卿である。
どちらも年若い閣竜としてスカンディナヴィアでは敬い半分、たびたび衝突しては季節外れの吹雪や雪崩を起こすため、頭痛の種として扱われてきた存在だが、決闘の舞台を帝国に移して互いに衝突するのは、初めての事例であった。
どちらも条約を反故にするほどの卑劣漢ではないにしても、人類にとってはいずれにせよ迷惑極まりない。死闘もとい私闘の末、ヨトゥンハイム卿が勝とうがウコンキヴィ卿が勝とうが、知ったことではないのである。どちらが意中の竜に想いを伝えられるかなど、ロンドンのブックメーカーくらいしか関心は持たないだろう。できることなら刺し違えて勝手に両方くたばってくれとでも願っているのが、真っ当な大陸人の考え方だと言えよう。
相互に不可侵を結んではいるものの、本音では依然として互いを同等の理性ある存在だとは認識していないのが、実際のところであった。
ソロヴィヨフたちは、ライプツィヒのアパートメントで缶詰めになっていた。窓の外では、並木道のシナノキが猛烈な風雨にあてられ、ざわざわと弓なりにしなっている。ここ数日、ずっとこのありさまだ。首都ベルリンへの進撃の出鼻をくじかれ、彼らは望まぬ足踏みを強いられていた。阿呆閣竜どもがケンカに飽きて北の巣穴に帰ってくれるまで、なにしろやることがない。士官も兵卒も、仲良く揃って暇であった。
湿気た日々が続く中、ソロヴィヨフは執務室として使われている一室に呼び出された。
「特殊部隊……ですか」
「そうだ。君にはその、実動指揮を勤めてもらいたい」
特殊作戦実験中隊。マニロフ中佐いわく、モスクワ本国の情報部門が再三にわたって試験的に編成を提案していたという部隊計画らしい。平時には遊撃戦力として大隊指揮官の隷下にあり、特命発令時には、情報庁から引き継いだプランに基づき独自権限で特殊作戦を遂行することが可能な集団、とのことであった。
「だいぶパタノフ大佐に阿った集団のようですが」
「私はあの男をあまり好かんのだよ、だからこそだ。君だってそうだろ、レーゲンスブルクじゃ危うく彼に殺されかけたんだからな。今だって上官は上官だ、顔を立ててやらずにヘソを曲げられたら、我々が困ることになる」
加えて軍司令部とて、外様も同然の情報庁にあれこれ腹を探られることをよしとしないはずである。妥当な落としどころだとは思うがね、マニロフ中佐はそう言葉をしめた。
「それで、特殊な作戦というのは?」
「みなまで言わずともわかるだろ。あの女伯のやってきたことを、そのまま続けてもらうだけだ。女伯の情報をもとに、要人の拘束や誘拐、破壊工作といった高度な戦略的作戦を遂行する。君や女伯以上に相応しい手合いは、他にいないだろう」
「は、はあ」
「形式的な枠組みをつくるだけだ。女伯主導の作戦をこのまま続けて、我々の独断専行と認識されたら何かと問題になる。そうなる前に、以前からの情報庁の要望にタダ乗りさせてもらったというわけだ。司令部の墨付きというハクがあれば、女伯に首輪をつけたも同然だからな」
「では、部隊設立は中佐の方からお話を切り出されたので?」
「まあ、そんなところだな」
マニロフ中佐の禿頭に、玉のような冷や汗が浮き出ていた。「そんなところ」ではないことは手に取るように分かった。ヘレネに何かしらの弱味を握られているであろうことは明白だ。
「初仕事を成功させて功績を作れば、部隊指揮官として大尉待遇のポストが君には与えられる。情報庁の官僚や、パタノフ大佐からの言質もとってきた。反故にはされんだろう」
「また出世ですか」
喜びの反面、後ろめたさの質量が責任と名誉に比例して肥大していくようだった。
「期待されているうちが花だぞ、中尉。君も私も、ここが正念場なのだ」
「ああ、ええと。断るつもりはもちろんないですよ。身に余る光栄です、あはは、やったぜ。でも、念のため確認しておきたいんですがね。もし、もしもこれを辞退するとするならば」
「君は私を見捨てるのか?」
自棄になった人間特有の濁った両目で、マニロフは吐き捨てた。埋め合わせの愛想笑いを顔に張り付け、ソロヴィヨフは指示書の束を受け取って足早に部屋から退散した。窓に吹きかかる大きな雨粒が、ガラスを破らんばかりに大きな音を立てていた。
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