エアフルト会食(4)
会食を終えてレストランを出ると、ヘレネはさっさと自室へと戻っていってしまった。タダ食いバカ女がエレベーターに乗り込むのを見送ってから、ソロヴィヨフはラウラから声をかけられた。その隣には、先ほどのフリュギア人の女性士官も一緒だった。
「お時間をいただけませんか? ソロヴィヨフ中尉」
奇跡を起こした英雄と、少しばかり話がしたいというのである。ちょうど午後いっぱいは非番だったので、ソロヴィヨフはマニロフ中佐に一声をかけてから、ラウラの誘いに招かれることにした。ホテルのエントランスを抜け、エアフルトの市街へと出た。日差しは強いが、頭上には白んだ煙のような雲が一面に浮かんでおり、青空を覆い隠していた。数々の教会の尖塔の合間から見えるはずの山々も、心なしかぼやけて見える。
「急速な重工業化の弊害でしょう。こうした光景は、大陸のあちこちの街でみられます」
町でひときわ大きな橋の真ん中で、ラウラはソロヴィヨフに語った。欄干に手を置き、流れる水面に目を落とす。水は淀んでいて、暗い濁りが水底を隠してしまっていた。流れもさほど早くなく、重油が溝たっぷりに詰まっているかのようにも見える。
「エアフルトは帝国の中央における、物流の要所とされていた町と聞いています。主要都市どうしを河川で結ぶ、教会と大学の町」
少女に倣ってソロヴィヨフも欄干から身を乗り出してみる。鼻を突くドブ臭さで顔を殴りつけられ、思わず咳き込んでしまった。
「上流から何が流れてきてるんだ。とんでもないな」
「クロムにシアン、鉛に水銀。それに加えて、生活排水流入によるバクテリアの異常繁殖。帝国の河川のほとんどは、ご覧の通りのドブ川になり果てている」
ソロヴィヨフの疑問に、女性士官が答えた。
「かつては
ジュゼッピーナ・ルッツァ少佐と紹介された彼女は、落ち着いた口調の中に、確かな憤りを孕ませていた。
帝国の自国中心主義の礎となるのは、猿人を一等市民と据えたうえでの、二等国民への弾圧である。二本の腕、二本の脚、肺で呼吸し陸で生活する。そうした模範的な一等市民の定型を用意したうえで優位性を打ち出し、そこに当て嵌まらぬ者を劣悪人種としたのである。
漆黒の強膜に浮かぶ金の瞳が、ソロヴィヨフを見た。
「水で生きる者はまず鰓が爛れ、皮膚が焼けて、体の内と外を蝕まれながら死んでいく。そうして生まれた地を追い出された。
「少佐も私も、志を同じくする仲間です。人種や肉体的形質を理由にした差別など、たとえ皇帝であっても許されるはずはありません。この地上に、魔物などという人間はいないのです」
帝国は、およそ人間が住まう場所ではない。それがラウラとルッツァ少佐の結論である。卑しくも帝国は升天教の教義を曲解し、あまつさえこれを正しき規範だとして広く教え伝えてしまった。少なくとも、勇者伝承は虐げられるべき魔物という存在を説いてなどいない。彼は【叡智の教義】を携え、魔王とともに和解の途へ至っただけなのだから。
「お題目だけは大層だとお思いですね?」
「いや、そんなことは」
悪戯っぽく笑う少女は年相応だが、義勇軍の理念に基づいて人々の権利回復に努める代表の一人と考えると、非凡なものを持ち合わせていることは、間違いなさそうだった。エメラルドの瞳を爛々と燃やして理想を語る彼女の姿は、確かに人を引き付けるチカラがある。ルッツァ少佐がその一人なのかもしれないし、いつか自分がその一人になるのかもしれない。
「ご立派だと思います。皮肉でもなんでもなく、本心から」
彼女の語る内容は正論だ。帝国ほど苛烈な人種差別が横行しているわけではない、モスクワの人間であるソロヴィヨフには、彼女の正論は何より輝かしく思えた。理想論であろうとも、不思議と彼女の言動に悪い印象は抱かなかった。モスクワの政策が彼女たちの眼鏡にかなうかどうかはわからないが、個人としては、その考えを応援したいと思ったのである。
「私には、みなさんと違って他人に自慢できるような主義や主張なんかないんです。生活のために戦っていますし、パルスベルクの一件だって命惜しさ、給料欲しさにやっただけのことなんです。私なんかと違って、生きていくこと以上に何か理由があって戦えるのは、素晴らしいことだと思います」
特にそれが、人助けだったりするのであれば。最後に小声でソロヴィヨフはそう言った。
人道的にきわめて正しい彼女たちにとって、果たして自分はどう思われているのだろう。生きるためとはいえ、あのヘレネ・フォン・ヴィッテルスバッハの口車に乗り、およそ清廉潔白とはいいがたい手練手管の数々で今に至っている。これが白日の下にさらされた場合、どうなる? 甘く柔らかなフリルに包まれた玉体で、少女は自分のことを烈しく糾弾するのであろうか。
「中尉のお考えも、間違いではないでしょう? 人が人らしく生きていく以上に大切なことなんて、きっと手の指で数えるくらいしかありませんよ。どうかこれからも、生きることに真摯であってください」
買いかぶりすぎだ。この少女を前にすると、どうしても据わりが悪い気がしてきてしまう。後ろめたい事実があるというのも原因の一つだろうが、さらにもっと根源的な罪悪感のようなものが湧き上がってくるようだった。手掛けている人道的背徳を見透かされ、言葉なき戒めを宣告されている、そんな感覚だった。
「秩序の中で、自由に、気ままに、時には権利を行使して、生を謳歌していくことこそが。人間が人間である証明なんです。かつての神も勇者も、魔王にそう願ったに違いありません。あるいは、魔王すらも」
「勇者が?」
「ええ。それはもちろん、互いが同じ人間であることの素晴らしさを伝えるため」
「帝国の言い分とはえらい違いだ」
「シンプルにみんな仲良くしましょうよ、ってことです」
少女はかみ砕いた解釈をソロヴィヨフに伝えると、再び汚泥の沈殿する川の水面へと向き直った。赤毛の先端を弄びながら、瞳をソロヴィヨフへと向けた。
「中尉は勇者を信じますか?」
「信じる?」
「実在すると思いますか? 勇者は」
「どうでしょうね」
勇者信仰というものは知っている。士官学校でも教養の一環として升天教のことは教えられたし、帝国国教が論ずる神学解釈も多少はかじっている。聖典が虚実入り混じった創作であることに疑いを持つことはないし、実在が確実視されている登場人物も数多くいることも知っていた。勇者や魔王のモデルとなった人間はおそらく確実にいたのであろうが、少女の主張は、ソロヴィヨフの想定とは少々ずれたところにあるらしかった。
「私は信じてるんです。勇者のことも、魔王のことも」
聖なる剣をその手に抱き、かつて勇者は旅立った。神の御業の模倣を互いに叩きつけ合う神代の決戦を魔王とともに演じ、その名を歴史と教義に深く刻んだ、異能の救世主。
「もちろん、聖剣とやらのことも」
馬鹿げた非現実的な後世の創作。古今東西の文筆家が、無用な背びれ尾びれを付けていった結果生みだされた、荒唐無稽にして竜頭蛇尾甚だしい創作神話群。勇者の聖剣など、伝承に派手な外連味を加えるためのいち要素に過ぎない。そうとわかっていながら、彼女の言葉には、まるでそれが現実に存在するかのような重みがあった。先ほどソロヴィヨフが出まかせに吐き散らした少女への世辞の空虚さを何億倍したところで及ばない、それほどまでの奇妙なリアリティがあった。
この二人をイカレたオカルティストと決めつけるには、ソロヴィヨフはロマンチストすぎたのだ。ブルクゼーレの浅慮な若者を政権の勇者信仰で呼び込み私兵とする、新興宗教の常套手段が念頭になかったわけではない。権力者の欺瞞に満ちた支配に見切りをつけ、個々人が市民として、崇高な理念のもとに立ち上がることこそが愛国の神髄にほかならない。そんなおべんちゃらで社会経験に乏しい若年層を鉄砲玉にする。よからぬ反政府勢力の十八番だ。
それを鵜呑みにして、この場で少女の言い分を骨身に刻み、平身低頭するほどソロヴィヨフは幼くはないのだ。それでも去り際に後を引くものを感じるのは、かつては文筆家を志望するほどの、生来の夢想家気質によるものに違いなかった。
「少佐は信じる? 原初の勇者のお話」
ソロヴィヨフと別れた後で、少女は彼の背中を見ながら言った。
「どうでしょうね」
「あの中尉と似たようなこと言うなあ」
「大人になると答えを濁すのが得意に……いえ、好きになるものなのです。信じていたものに転ばされると情けないし、カッコ悪いですからね。予防線というわけです」
「いいから少佐。あなたはどっち?」
試すような態度で、少女はルッツァ少佐に問いかけた。聖剣の実在性。これを認めれば、科学が席巻しつつある地上で、再現性に著しく欠けたオカルトにすぎない魔法や魔術、ひいては神の存在すらも肯定することになりかねない。首を縦に振れば、お伽噺を本気で鵜呑みにすることを主張するのと同じである。にもかかわらず、ルッツァはこの問いに首肯してみせた。
「信じております。でなければ、会食に情婦を連れてくるあんな男となんか会ったりしません」
「そんなこと言ったら、悪いよ」
嫌悪感をむき出しにしながら、ルッツァは先ほどの三大欲求がドレスを着て歩いているようなブロンドのアバズレを思い出して罵った。ソロヴィヨフ中尉の同伴でやってきたのであろう、あの厚化粧で妙ちきりんな女のことだ。
「勇者の血脈は、今なお息づいている」
勇者とはすなわち、人の世に奇跡の息吹をもたらす【勇ましきもの】。
持たざる者に戦勝と豊穣をもたらし、その人の身ならざる威光と大いなる稜威をもって大地を瀰漫する。その血が王家の傍流かどうかは問題ではない。また、たとえその英傑が血脈を遺そうと、異能が正しく芽吹くかを決めるのは、神のみぞ知ることである。時の王が、そして大衆が勇者を望もうと望むまいと、勇者の誕生はきわめてアトランダムな偶然性に左右される。以上は、大陸で信奉される勇者信仰の教義にも記されていることだ。
ゆえに彼女たちは、神業とも呼ぶべき功績を収めた人々のもとを訪れ、面識を築いてきた。すべては、今を生きる勇者の末裔に出逢うため。教義に基づき、ふたたび勇者と魔王が手を取り合うことを望んで、少女たちは大陸じゅうを駆けずり回っていた。世迷を重ねる神秘主義者という誹りを、陰でどれだけ受けたとしても。ルッツァとて、そこに関して嘘や言い訳を重ねるつもりはなかった。
「何にでも縋る。そのつもりでここにいるのです。あなただってそうでしょう。そうやって、ふりふりの少女の恰好までして」
「似合わない?」
「帝国でなら誰より似合うのでは?」
「なら、いいじゃない。少佐もボクが『どっちでもないこと』、知ってるでしょう?」
幼いながら、少女は自嘲混じりの諧謔でルッツァに応じた。
「ラウラ・フォン・ベルギエンはこういう人間だと、喧伝できさえすればいいんだ。こんな格好の勇者、いるとは思わないでしょう?」
両の手で赤毛の髪束を握って、思いつく限りのぶりっ子仕草をしてみせる少女。
「彼女を助け出せないのであれば、ボクは勇者に産まれた意味がない。それに……」
少女、否、勇者ラウラが持論を口にして、間もなくのことだった。
「魔王といっしょに生きていくのが、最近の勇者の流行りだからね」
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