パルスベルク城塞攻略戦(2)

 ヘレネが提唱するパルスベルク攻略作戦に必要な人材は、最低でも二個小隊が必要とのことであった。行軍する際に目立ちすぎず、有事には柔軟な対応が可能な規模だとして、これだけは確保するように、彼女は念を押していた。


 言うまでもなく、本作戦はマニロフ少佐やパタノフ大佐の意向を無視した独断専行である。最悪、捕虜の甘言に躍らされて部隊を勝手に動かした愚かな士官という汚名が歴史に残りかねない。だが、パタノフ大佐の失策によってレーゲンスブルクに突出してしまった時点で、ソロヴィヨフの命運はすでに尽きていたのかもしれない。見えざる死神の刃が刻一刻と喉笛に迫るのを実感しながらも、ソロヴィヨフはヘレネの差し出した手を握り返すことに決めたのだ。


 さしあたって必要な人材を確保すべく、ソロヴィヨフはジルキン中尉のもとへと訪れていた。昔馴染みという縁を頼っての訪問だったが、綱渡り感の否めない交渉になるであろうことは予想の範疇にあった。交渉が決裂すれば、上官に不審を抱いている他の士官に話を持ち込むほかないのだが、これを口実に密告でもされればそれでおしまいだ。なるべく手間はかけたくなかったし、何より安全を期すため、作戦は努めて極秘のものとして扱いたかった。


「それは何か? あの糞女クソアマの持ってきた手土産で、あわよくば勲章のひとつでも掠め取ってやろうって腹か?」


 ひと気のない庁舎裏で、ソロヴィヨフは一連の考えを打ち明けた。


 持ち込んだ作戦案がヘレネ由来のものであると看破するや否や、ジルキンの機嫌は冬季に叩き起こされた羆のように悪くなった。もとより帝国貴族への悪感情のみを戦闘の原動力に据えていたような男である、こうした反発は当然と言えた。


「上に文句の一つも言えねえハゲに一泡吹かせてやろうって魂胆は嫌いじゃねえがな。俺があのお貴族様の手駒にならなきゃなんねえ理屈がどこにあるんだ?」


「状況を考えてくれ。君の言う通り少佐が役に立たないとして、ここで立ち竦んでいたら八方ふさがりになるのは目に見えてるだろう。三個中隊全員がなぶり殺しにされるんだぞ」


「あのハゲのことは嫌いだがなソロヴィヨフ。命惜しさに仲間を売っぱらってヘラヘラ笑ってられるゴミ女よりかは、はるかにマシな人間だと思うぜ。なあおい、国語の先生さんよ。俺の言ってること、そんなに間違ってるかね?」


「奴の持ち込んできた情報は正しかった。命がけでそれを調べてきた部下の働きを疑うのか」


「だが合流地点とやらに到着してからの手筈は白紙もいいところだ。肝心なところはあの女の裁量に丸投げか? 寒さで頭やられたか?」


 奥歯を噛み締めながら、ソロヴィヨフは猛犬めいた反論を耐え忍んだ。


「城塞内に通じる極秘の抜け穴があるらしい」


「抜け穴だあ?」


 我ながら都合が良すぎてバカバカしく思えてくるような回答だった。だが、他に気の利いた答えは持ち合わせていない。今はただヘレネの言った通りのことを口にするしかなかった。現地民からの証言より、古い修道院があるという裏付けはとれている。だが、胡散臭い抜け穴とやらに関してだけは、立証不可能な存在と言わざるをえなかった。


「ここまで情報を開示しておいて、修道院近辺に戦力を割いているとも考えにくいだろう。奴が俺を謀ろうとしているとして、この作戦で始末できるのは最大でも二個小隊、少佐相当官の命と同等に吊り合うものとは到底思えない」


「だからあの女のことを信じてやりたくなった、ってか?」


 眉間に皺を寄せ、ジルキンは上からソロヴィヨフに凄んだ。


「お前のことは嫌いじゃなかったんだがな。さっさと背広組に転向するかと思いきや、しっかり前線まで出て神経削ってるからな。それがよりによって、女に誑かされてそのざまか」


「何が言いたいんだ」


「ペテンにかけられるなって言ったよなあ少尉。実のところよう、お前が提案したあの女の情報の裏付けに関したって、俺は反対だったんだ。お前は心が少しでも痛まなかったか? 部下をロクに休ませてもやれねえうちから、今度は伏兵や地雷原に怯えながら斥候してこいってよ」


「か、感情論だ。結果的に有意義な情報が手に入った、今度はそれをどう有効活用するかだけを考えるべきだろう」


「なら俺や俺の部下どもは、あの女のペテンにまかれて死んだとき、誰を憎んでくたばりゃいい? ハゲの少佐か? 阿呆の大隊指揮官か? アバズレか? それとも、お前か?」


 半ば激昂しながら、ジルキンは怒鳴った。やがて徐々に語気を落ち着かせながら、宥めるように彼は言葉を次いだ。


「お前には、少し失望した。あの女に酌量の余地なんてねえ、なのにお前ときたら、そんな腑抜けたことをぬかしやがる。仮にお前があの女の首を持ってきて、正面から城塞を攻め落としてやりてえとでも言えば、俺はきっと二つ返事で案を呑んだだろうに」


「……」


「だが、俺とて部下の命は惜しい。むざむざ挟撃されて全滅なんてのはごめんだ。中にはお前やアバズレの案を支持する奴だっているかもしれねえ。それでも、俺はお前とヘレネとかいうゲス女に加担して独断専行をはたらく気は起きねえ。申し訳ねえが、こりゃ俺の感情の問題だな。お前の考えに乗ってやるには、もう一つばかりの誠意が欲しい」


 ソロヴィヨフのそばに歩み寄ったジルキンは、彼の胸ポケットに挿さっていたペンを取り上げた。豊かな翠が鮮やかな翡翠の万年筆は、いつの間にかジルキンの武骨な手に握られていた。


「お前っ!」


「他人様の命を使ってギャンブルやろうってんだ。まさか嫌とは言わねえよな」


 至極正しい、理には適っている。反論のしようがない。理屈としても穴だらけな空論をぶち上げて、他人の感情を逆なでしているのは、他でもないソロヴィヨフなのだ。だが、不意打ちで奪われた品が品である。ソロヴィヨフは頭に血が上るのを実感しながら、ジルキンをにらみつけた。


「勝負どころの判別ができねぇほど、お前は阿呆でもねえよな?」


 腕っぷしで敵うはずねえだろ? お前オリコーさんだもんな。戦友として最低限の信頼と親愛を抱いていたのは、果たしてソロヴィヨフだけだったのだろうか。互いに確かめ合ったこともない関係だったが、明確に彼から格下の存在として見下されたことを理解したソロヴィヨフは、言いようもない無力感に苛まれていた。今の自分は、目の前の男から万年筆一つ取り返すこともできない、哀れな痩せぎすの語学者くずれだ。


「なに、俺に日記をしたためる趣味はない。生きてモスクワに帰れたら、きれいなまんまで返してやる。その前に、お前があの女とおっ死んでなけりゃあな」


「なんだと?」


「わかんねえか? 妙な真似したら殺すって言ってんだよ。お前も、あの女も」


 そう言って、ジルキンは去っていった。彼の足音が聞こえなくなったころ、ようやくソロヴィヨフは己のしでかした過ちの重篤さに感づいた。ジルキンは昔馴染みであれ、味方では決してなかったことに。そして、周囲を出し抜こうとした魂胆もまた見抜かれ、逆に独断専行を企てた弱味を握られてしまったことに。

 

 出立は午後十一時と定めた、その三時間前。薄暗がりの階段を下っていき、ソロヴィヨフは再びヘレネのもとへと訪れていた。二個小隊の人材は確保できたという報告と、それを指揮する士官に関する問題についてを共有するためだ。


「お前の万年筆なんぞ知ったことか。どうせ安物ひけらかしてイキってただけだろうが」


 両足をテーブルに乗せて、精一杯ふんぞり返ったヘレネが吐き捨てた。


「ま、人手が手に入ったなら構うものか。馬の支度ができ次第、ここを出て修道院を目指す。それでいいな、中尉殿」


 ヘレネの言い間違いを逐一正す気にはなれなかった。改めてこの女は、いま自分の置かれた状況をはっきりと理解しているのだろうか。


「浮かない顔だな。貧乏ヅラが一層惨めに見えるぞ」


「お前はどうしてそこまでヘラヘラしていられるんだ?」


「ヘラヘラ、とは?」


「なんでお前は、どこを向いても不誠実でいられるのかって聞いてるんだ」


「あたしは生まれてこの方、不誠実だった瞬間など一秒たりとも存在しないぞ。あたしはあたしに対して非常に誠実で忠実だからだ。お前ら半端者の人間の屑とは違う」


「大半の人間はお前みたいな異常な考えは持ってない」


「そう、その通り。多くの異常な凡愚どもは、暇さえあれば何かを恐れてビクビク怯えているな。やれ上司が怖い、やれ同僚が面倒、やれ人間関係が煩わしい、やれ家族が鬱陶しい。理解に苦しむ。恐れて困り散らかすのは、その問題の当事者になってからでも構わんじゃないか。どこの誰に尻尾を握られているなどを考えて生きるのは、人生の無駄だ」


「アバズレめ」


「あんだとドヘタレ」


 ヘレネは透き通るような氷を思わせる碧眼で、ぎろりとソロヴィヨフを射抜いた。


「さっきから聞いてりゃゴニョゴニョゴニョゴニョしゃらくせぇこと並べたてやがってよぉ。そんなに万年筆が惜しけりゃ今すぐにでもその阿呆のとこまで押しかけてブチ殺しでもしてこいや。できねぇのか? する気がねぇのか? ブチ殺す度胸すらねぇのか? タマ無しのヘナチン野郎がお利巧な文筆家気取って日和やがってよ。腰のソレはおもちゃか? モスクワはいつからヒヨコ豆が飛び出す銃を兵隊に支給するようになったんだ? 末端の士官がこれだと佐官の椅子には昆虫が居座ってそうな組織だな。え? ゴキブリ連合軍がよ!」


 機銃のごとくにソロヴィヨフを罵るヘレネの口は止まらない。


「あー万年筆おー万年筆、大事な大事な万年筆取られちゃったぁ。悔しいから不機嫌になっちゃう、プンプン。じゃねンだよタコが。テメェの機嫌くらいテメェでとれねぇのか。テメェが今一番頭で考えなきゃいけねえのは何だ? あたしを無傷でパルスベルクに送り届けることだ。そんなに難しいことか? イチから細かくかみ砕いて話してやらんと理解できんのか? 赤ちゃんかテメェは!」


「お前なんかには一生わからんだろうよ、平民の気持ちなんてのは」


「わかってたまるかボウフラが! テメェらみてぇな肉にたかる小虫が人間気取っていっちょまえにモノ言ってんじゃねぇよ。二本足で立って歩くのがやっとな人間予備軍の分際で、あたしに意見できるほど上等なイキモンでもねぇだろうが。テメェの機嫌くらいテメェで取れや」


 長々した罵りをいったん区切ると、ヘレネは鼻を鳴らして口調を変えた。


「よく考えろよ。あの城塞を落としゃあどうなる? 独断専行なんてのは武勲の前じゃ屁みてぇなもんだ。小役人のマニロフが、パルスベルク攻略の立役者を軍法会議にかけるなんてことはできねえだろうしな。失態続きのパタノフにとっちゃ恩人にもなりうる。いいことずくめだ。何が不安なんだ?」


「みんながみんなお前みたいな楽天家にはなれないだけだ」


「ふん。ま、お前らボケナスがどんな悲惨な心持ちで人生を浪費にしようが、あたしにゃ関係ねえや」


 逢うたびに言葉が口汚くなっていくヘレネの口ぶりは、もはや場末のごろつきとそう変わらなかった。

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