パルスベルク城塞攻略戦(1)

 翌日になっても、司令部からの指示らしい指示はなかった。レーゲンスブルクを確保したまま、別命あるまで待機。それが何を意味しているかは、市街に駐留している三個中隊の面々は、嫌というほど理解していた。


 市庁舎の一室で、ソロヴィヨフはデスクに敷かれた紙地図を見下ろしていた。普段使っている官給品の天幕の中よりよほど暖かい環境での仕事は、わずかな眠気を彼に喚起させた。秘蔵の珈琲を淹れるため椅子を立ち上がったところ、ノックの音が室内に響いた。来室者はトカチェンコ准尉であった。入室を許可すると、トカチェンコは巨体を無理くり押し込むようにドアを通り抜け、ソロヴィヨフの前へ立った。


「丁度いい。珈琲を淹れるところだったんだ」


 応接用のソファにトカチェンコを座らせると、ソロヴィヨフは二人分のカップをソファの前に置かれたテーブルに置いた。恐縮するトカチェンコを尻目に、ソロヴィヨフは先ほど眺めていた地図を携え、彼の対面にあるソファに腰を下ろした。


「パルスベルク周辺の配備状況は、女伯から供与された情報と相違なかった。間違いないな」


 珈琲に口をつけたトカチェンコは、明快に応えた。


「今年に入ってから新たに建造されたトーチカや塹壕に至るまで。夜間から明け方にかけての目視確認になりますが、女伯の情報は、すべて正規の軍事機密と同等に考えてよいかと愚考いたします」


 隊内の誰も欠けることなく帰還できたのがその証左だと、トカチェンコは付け加えた。


「准尉はどう思う。あの女、信用できると思うか」


 先日マニロフに投げかけられた問いを、知らずのうちにソロヴィヨフは准尉に向けていた。


「状況から察するに、我々に進軍させたい何がしかの理由があるのではないかと」


「進軍させたい、か。だがどっちにしろ、女伯本人の命運はさほど明るくないと思うが」


「そこまでは判断いたしかねますな。本当にわが身可愛さで情報を売り払っただけなのか、それとも別の意図があるのか。しかし、彼女が王侯の忠臣であることだけは除外できましょう」


「狂言を使ってこちらを騙す意図があるなら、真実の情報を流すはずがないわけだ」


「外患誘致が目的なのだとしたら、我々以外の他国とのコネクションを持ち合わせたスパイである可能性も考えられます」


「それも一応は考慮している、だからこそ地下に軟禁してるんだ」


 言い終わってから、ソロヴィヨフは据わりの悪さをおぼえた。あの女がスパイであるという可能性は、先日から何度も考えていた。情報流通を遮断し、孤立させることに努めた。


 だが、奴はソロヴィヨフの上司の名を知っていたではないか。大隊指揮官の名を、得意げにひけらかしていたではないか。講じた手段があまりに役に立っているように思えず、ソロヴィヨフは雲をつかむような気分を拭えずにいた。


「どんな魔術を使ったんだかわからんが、薄気味の悪いことには違いない」


「どのような人格であれ、女伯は貴族です。敵国の高級将校について、ある程度の見識があってもおかしくはないと存じますが」


 そう言うトカチェンコも、喉に引っかかるものを抱えているらしかった。


「その見識も、俺たちとの戦いじゃさして役には立たなかったらしい」


「……あるいは、貴族同士の抗争に紐づいているという可能性も考えられます」


 パルスベルク候との個人的な私怨が、ヘレネにあるのではないか。しかしこの考えが行き着く先もまた、外患誘致をもくろむスパイ説の亜種には変わりない。トカチェンコもそれに気づいたようで、彼はすぐに発言の内容を顧みたようだった。結局のところ、藁をも掴みたいマニロフ少佐隷下の三個中隊が、藁をえり好みできる立場にあるはずがないという点だけが浮き彫りとなったかたちになる。そうなれば、次は垂れ下がった藁を誰がつかむかという問題が浮上する。


「この藁は、俺たちの隊が掴まねばと考えている」


 ソロヴィヨフが打ち明けると、トカチェンコは低くこれにうなずいた。


 カップを片付け、テーブルにあらためて地図を広げる。


「二個小隊でレーゲンスブルクから北上し、カルミュンツを経由してナーブ川を渡河。その後は進路を西にとり、パルスベルク城下へと進入。城塞内に極秘裏に潜入し、これを占拠する」


 カルミュンツはレーゲンスブルクの規模を小さくしたような、河川に沿って築かれたささやかな地方都市である。トカチェンコは目を白黒させながら、ソロヴィヨフの指先が示す城塞を見やった。八千人を擁する鉄壁のパルスベルクへ攻め込むのに、この士官はわずか二個小隊の戦力で作戦を敢行するというのだ。どちらかといえば堅実な、悪くいえば武勲に無欲だった上官の突飛な発言に、トカチェンコは表情を困惑させた。


「二個小隊、ですと?」


「聞き間違いじゃないぞ」


「少尉殿は、本当にそれが可能だとお考えなのですか?」


「帝国兵八千人をまとめて二個小隊で相手取るわけじゃない」


 トカチェンコは地図に目を落として言った。


「ナーブ川西部、パルスベルク城塞の近辺にはホーエンフェルス駐屯地があります。ここに配備されているであろう戦力に目がいかない少尉殿ではないと存じますが」


 トカチェンコの正論に唇を噛みつつ、ソロヴィヨフはもう一枚の地図を取り出した。朱色のインクで多くの書き込みが施されたものだ。


「ヘレネ伯からの情報をすべて盛り込んだ現在の配備状況だ。無論これは彼女が帝国軍の指揮系統にいた当時のものだから、一部はすでに変更が施されている可能性がある」


 ソロヴィヨフはあらためてホーエンフェルス駐屯地の位置を指で示す。周囲に点在する軍集団の数は確かに多いが、それでもやはり死角というものは存在するらしい。地図にはすでに山林を利用した移動ルートが記されていた。


「総移動距離は五十キロ超。移動手段は馬。カルミュンツで乗り換え、速度を落とさず一気にパルスベルク方面への距離を詰める。途中、城塞へ向かう道筋を避け東側へと回る。その先にあるのが、当面の拠点となる施設だ」


 ソロヴィヨフが地図で示したのは、今にも霞んで消えそうな規模の修道院であった。パルスベルクの聳える山の麓、切り立った崖下に、そのルプブルク修道院は位置しているのだという。


「行軍は小隊単位で行い、敵布陣の状況に応じての一時散開も想定している。あくまで合流地点がここというわけだ」


 頬骨を手で押さえながら、唸るようにトカチェンコは答えた。ソロヴィヨフとて、夜間、それも未開地にも等しい異国の原野や山林の移動に伴うリスクは承知している。馬を失ってしまえば、遭難しかねない環境ともいえるのである。夜行性の飛竜や猛獣に襲撃されでもしたら、二個小隊などひとたまりもない。


「野生の飛竜ならいざ知らず、閣竜の縄張りについての情報が欲しいところですな」


 行軍で特に警戒すべきは、トカチェンコの言う閣竜会議に名を連ねる古き竜のテリトリーの境界線である。閣竜とは野生の竜種と異なり、人類をはるかに凌駕した智慧とチカラを有し、一個体に国家と同程度の権利と発言力が認められている竜である。人類が群れとして大地の霊長の座を射止めたのであれば、こちらは個としての霊長だといえよう。当然ながら、ソロヴィヨフたちが携行する火器程度では、彼らの羽毛や鱗には傷一つつけられはしない。


 閣竜会議とは、そうした雄健なる竜たちと諸国家間における無益な衝突を避けるために批准されている条約群の総称にして俗称である。仮に彼らの領地を侵犯すれば、閣竜とモスクワ本国の外交問題にもなりかねない。しかし長寿な竜と人類の時間間隔の差か、批准内容を定期的に再確認するための制度は未だ確立されておらず、代替わりを繰り返す人類が、設定された国境線を失念してしまうケースは多々あり、逆もまた然りであった。


 ここ二百年で急激に領地を増やしていった帝国が、併合した土地内の閣竜領地をどれだけ把握しているかは未知数である。運が悪ければ、ヘレネすら掴んでいない閣竜領土に足を踏み入れてしまいかねない。大半の閣竜は人間社会に関心を示していないらしい、というのは幸いではあるが、そんな通俗的な迷信は、懸念を払拭するにはあまりに頼りなさすぎた。


「これまで死人をほとんど出さなかった方の提案とは、いささか思えませんな」


「だが、このままレーゲンスブルクで立ち尽くしていたら、全員が死ぬ」


 各人がうすうす抱いていたであろう不安をはっきりと言葉に出され、トカチェンコは目つきをやや鋭くした。


「資料を渡すから、ホーエンフェルス突破についてを詰めておいてほしい。城塞攻略に関する具体的な作戦は、当日の合流地点で共有する」


 仔細は丸投げで、重要なことは現地で教えるなどという無茶ぶりであるが、トカチェンコは即答してみせた。


「了解いたしました」


「パルスベルクを落とさない限り、俺たちに生きる途はない。別に俺はやけくそでこんな作戦をやろうってんじゃない、それだけは分かってくれ」


 半ば自分に言い聞かせるように、ソロヴィヨフは呟いた。


「なんにせよ、悪の枢軸を打倒してくださる勇者様とやらは、モスクワにはいないようですな」


「都合のいいお助け神は、ベルリンにだっていないだろうさ」


「帝国の言い分で、帝国に住まう猿人以外の人間は、神や勇者様の庇護には与れないと聞きましてね。全能にして最善なる勇者は、自らと志を同じくした臣民のみを助くると」


「それだって、坊さんたちがただ騒いでるだけの客寄せ文句に過ぎない。全能にして最善なら、人種の格差なんか設けるはずないだろ? ただの貴族の遊び道具だよ、神も魔王も勇者様も」


 イデオロギーを込めないよう、ソロヴィヨフは言った。それが、肌の色と人種の異なる眼前の部下が望んだ回答だったかは、そのときのソロヴィヨフにはわかりかねた。


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