捕虜尋問(3)

 経済の低迷期に建設されたレーゲンスブルク新市庁舎の外壁は、体の芯まで凍えさせる真冬の隙間風を遮断するには、いささか荷が勝ちすぎていた。凍えるような一室で、頼りなげなオイルランプの明かりだけが、デスクに向かうソロヴィヨフの姿を照らし出す。


 翡翠の万年筆のペン先が、質の良くない官給品の用紙へ筆記体を刻みつけていく。普段使いの羽ペンを先日の戦闘で紛失してしまったため、やむを得ずソロヴィヨフは私物の万年筆を使っていた。高価なものだけに、お守り代わりに取っておきたかったのだが、マニロフ少佐に小言の口実を与えるのも憚られた。悩んだ結果、送り主である銃後の妹たちに頭を下げながら、こうしてどれだけの人間を殺して、または殺されたかの報告書を記している次第であった。


 ソロヴィヨフの家族は、エカテリンブルク近郊の小さな町で暮らしている。老いてなお頑健な母親と、もうじき少女と呼ばれる時期を終えるであろう二人の妹の三人である。父は中隊を指揮する軍人だったが、抗モスクワのパルチザンの手にかかって死んだということだけが、彼の上官を名乗る男より伝えられたのみであった。


 ソロヴィヨフは決して積極的な気性の少年ではなかったし、壮健さに恵まれた同年代の級友ほど声高に愛国心を叫べるような器の持ち主でもなかった。ただ、幼い自分たちを遺して死んだ父親が就いていた公務とはいかなるものなのか、少なからずの興味があった。


 父は異国で殺された。それはどこで? 殺人者はどんな言葉を口にして、どんな風貌で、どんな衣服をまとった蛮族なんだろう? 茫洋とした好奇心がのっそりとした歩みで向かった先は、語学や文学といった、戦争とは無縁のものであった。


 戦地から送られてくる手紙は、幼いソロヴィヨフの想像の翼を育む一助となった。レトリックに富んでいるわけでもなく、また悪文でもない、要点だけが記された簡素な父からの文に、その妻はさして関心を持つことはなかった。夫の出征が長引く間、勤務先のパブで出会った公務員の男と、既に関係を持っていたからだ。愛想を尽かしたわけではない、ただあまりに離別の時間が長すぎたゆえの、女の心変わりであった。


 だが、戦地には返信の手紙が届けられ続けた。妻を騙ったソロヴィヨフが、父に宛てた文をこっそり送っていたからだ。知らぬ間に妻帯者としての立場を失った男への憐れみが動機、というわけでもなかった。単純に、父との文通が楽しかったからだと、ソロヴィヨフは思っていた。同じ公務員でありながら、役所でいかさま帳簿に判を押すだけの母の愛人は、さして彼の好奇心に刺激を与えてはくれなかった。少年の妄想にありがちな、英雄的な脚色が多分に施された父の姿は、冒険小説の主役さながらに憧憬をもたらしてくれたものであった。実際には、大勢いる下士官の一人としてこき使われて死んだという事実を知ろうと、その時に感じた確かな高揚感は、色褪せることはなかった。


 なんの因果か、ソロヴィヨフはこうして汚泥と血にまみれながら、冷たい凍土や石畳の上でのたうち回っている。母や妹たちから強い要望があったわけはない、むしろ母からは、前夫と同じ轍を踏むなと再三にわたって念を押された。また、父を殺した顔も知らないパルチザンに特段の恨みがあるわけでもない。


 それならなぜ、自分は故郷からはるばるペテルブルクまで旅立ち、士官学校の門をくぐってしまったのだろうか。


 昔から読み書きは得意だった。習熟度はともかく、三ヶ国語を独学で学んでいるといった点を評価されたのは、確かに嬉しかった。そもそも戦死者遺児ということもあり、学費の一切は免除される。給料をもらいながら勉強でき、三度の食事の面倒まで見てくれるとあれば、そう悪くないのではないかと、ソロヴィヨフ少年は思った。それに女子供を扶養に抱えて単身軍人になるなんて、まるで自分が輝かしい義務や使命を負わされているように思えてくるではないか。


 しかし喧嘩が強かったわけでもないし、人を殴るのも、殴られるのもどちらかといえば嫌いである。見栄を張って軍人としての一歩を踏み出したはいいが、白兵戦の成績は芳しくはなかった。カリキュラム内で落伍こそしなかったものの、歴戦の下士官からすれば、自分のような青びょうたんの腰抜けに率いられるのは、さぞ不本意なことだろう。厚かましい道を選んでおきながら、頭のどこかで嫌われることを恐れるのは、幼いころからの癖のようなものであった。


 ともあれ、戦争はすでに始まってしまったのだ。不満であれ何であれ、彼らには自分の指示で死んだり殺したりしてもらわねばならないのだ。


 万年筆の先端から滲むインクの匂いを嗅ぐたびに、ソロヴィヨフはそんな益体もない考えに見舞われる。妹たちに宛てた便りには、今夜もまた手をつけられそうにない。しかしながら、父の遺した家族たちこそが、帝国軍と戦うにあたっての、今のところ一番の理由なのだ。


 書面にピリオドと署名を記すと、ドア越しに声がかけられた。副官のトカチェンコ准尉だった。


「マニロフ少佐がお呼びです」


 ちくしょう、面倒くせえなあ。今さっき会いたくないと浮かべた矢先の出来事に、ソロヴィヨフは頭を抱えた。万年筆を胸ポケットに突っ込み、彼は渋々ながら部屋を出た。


 執務室は、薪ストーブが焚かれていて比較的暖かかった。


 つるりとした禿頭を撫でつけながら、デスクに座るマニロフ少佐は、ソロヴィヨフの作成した文書に目を走らせた。その内容は、ヘレネ・ヴィッテルスバッハ伯への尋問内容の報告書である。


「キズモノには、しとらんだろうな」


「はあ」


「冗談だよ、君。確かに、先日の捕虜が見目麗しい女性とは聞いているがね。いくら私だって、そこまで手が早いわけでもないよ。それとも君、まさかそういった下世話な意味でとらえてはないだろうね」


「いえ、そんなことは」


 やはり、ソロヴィヨフは彼が苦手であった。サロンやクラブでの受けをよくするための冗談が好きなのは結構だが、たびたび口にする肝心のジョークがつまらないのである。端的にいえば、笑いどころがわからないのだ。三か国語に精通するソロヴィヨフは、彼に連れまわされて、本国のバーや娼館で異国の女たち相手に同時通訳をさせられたものであった。実直な部下を無難に演じながら、ソロヴィヨフはこの時間が過ぎ去るのをただ待った。


「そちらに記しました通り、先に尋問を担当していたジルキン中尉が、やむを得ず実力で彼女を制圧したという事実はあります。しかし、それは任務における常識の範疇から逸しない行動であったと判断いたしました」


「あの短気なニワトリ頭に非はないと?」


「いわゆる人道的誠実さに欠ける、といいましょうか。ヴィッテルスバッハ伯側から、そうした不適切な言動があったのは事実です。結果として、先のような諍いを生んでしまったわけで」


「しかしだね」


 マニロフは報告書に記された一文に目を凝らして唸った。


「仮にも地方領主だろう? こんなバカげた妄言を、本当に彼女が吐き散らしていたと?」


 死にたくない。同胞や領民の生命と財産はどうなったって構わんので、命だけは助けてほしい。ソロヴィヨフは一言一句間違えることなく、女騎士の命乞いを報告書に書き連ねていた。  


 上流階級の風上にも置けぬ、貴族の屑。聞きしに勝る貴族社会の腐敗ぶりの一角と言ってしまえば簡単だが、あの女をそうやすやすと銃殺に処してやれない理由は、また別にあった。


「城塞戦力の布陣や、パルスベルク侯本人の指揮傾向についても、かなり熟知しているようです。また、他の管区の現状に関してもかなりの情報を有していると豪語しています」


「事実なら、な」


 そこに疑いを持つのは、ソロヴィヨフも同じであった。


 現在ソロヴィヨフたちが拠点としているレーゲンスブルクは、モスクワ連合領から緩衝国家シロンスクを横断し、親モスクワ気風の根強いプラハを越えた先で突き当たる帝国の都市である。東部の丘陵には新古典主義の粋を凝らしたヴァルハラ神殿、都市中心部には荘厳な大聖堂がそびえている。中世期より水運で栄えた交易の要衝であると同時に、モスクワ軍にとっては帝国攻略の橋頭保として攻略の対象に数えられていた。


 結果として、ソロヴィヨフらが属するパタノフ大隊の迅速な攻勢により、レーゲンスブルクは陥落した。それも、驚くほど円滑に。


 多少の抵抗はあったものの、こちらの損害は軽微といっていいほどのものだった。


 迎撃に出た駐留軍の士気は低く、また練度や装備の面からみても脅威らしい脅威にはなりえなかった。ろくに整備もされていない前時代的な前装銃を担がされ、不発や暴発の恐怖に見舞われながら、彼らは最新鋭のライフルで武装したモスクワ軍にたやすく粉砕されていった。その後の戦闘らしい戦闘は、指揮官不在のまま恐慌に陥った下士官たちによる散発的な抵抗くらいのものだった。めぼしい士官や貴族たちは、早々のうちに近隣の城塞へと遁走していったらしい。ドナウにまたがる水の都レーゲンスブルクは、これ以上なくシンプルに捨て石とされたのである。


 そして哀れな兵たちが籠城地と定めたそここそが、目下モスクワ軍の北上を阻むパルスベルク城塞であった。その武骨で巨大な威容は山麗の尾根に沿って築かれており、城壁の全長は六キロ弱にも及ぶ。有事には八千の兵を収容し、西方を除く三方向に対処可能な帝国南部の高壁であった。


 当然大隊にはパルスベルクの攻略が命じられているわけだが、そうやすやすと目的を達成できるものなら、そこらの野良猪にだって出来てしまうだろう。


 現状パタノフ大隊が直面している問題として、後詰の部隊がレーゲンスブルクへと到達するまでのタイムラグが発生してしまっていることが挙げられる。大隊を指揮するパタノフ大佐の意向によって突出した前線は、補給線を水飴のように歪に伸ばしきってしまっていた。兵站を司る輜重兵たちの「阿呆に食わせる缶詰はないぞ」という冷ややかな罵倒が頭をよぎる中、ソロヴィヨフをはじめとする前線の将兵たちは、黙々と凍土を行軍させられ続けていたわけだ。


 そこで現れたのが、例のヘレネ・フォン・ヴィッテルスバッハ伯爵なる女騎士である。


「君からみて、彼女はどんな人間だと思うね」


 わが身可愛さで、保身を第一にしか考えられないゲス。現在の印象は、それ以外に覆りようがなかった。無辜なる弱者の血を啜る、上流階級のステレオタイプ。庶民の嫉妬と偏見でできた色眼鏡を通してなお余りあるほどの下劣さを、誇りこそすれ恥じもしない糞女クソアマ


「率直に申し上げますと、信用に値しない存在かと」


「だろうな。私だってそう思う」


 二人の会話には、いずれにも「平時ならば」という枕詞が隠れていた。


 ヴィッテルスバッハ伯のもたらした情報のすべてが真実だとすれば、大隊の大きな益にもつながる。パルスベルク陥落はおろか、首都たるベルリン決戦に際しての後顧の憂いでもあるミュンヘンの敵軍集団すらも相手取ることができるだろう。戦略的判断は司令部の指示を仰ぐ必要があろうが、死ぬはずの部下が一人でも減ることを考えれば、これほど助かるものは他にない。素直に呑み込めないのは、女伯本人の人間性の下劣さもあるが、反面あの女伯が忠臣である可能性が捨てきれないからだった。さっきの振る舞いが狂言であるなら、彼女の語るパルスベルクの脇腹には、これでもかと言わんばかりの戦力が配されているはずである。


「美人局に一杯食わされて破滅した無能な将とは、呼ばれたくないものだ」


 かといって、希望のよすがをふいにするようなことだけは避けたい、というのも双方の本音であった。


「齢はいくつといったかな」


「確か、十七だと」


「……なおさら、おめおめ騙されるわけにもいかなくなったな」


「私とジルキン中尉の隊から出した斥候が、情報の裏取りを行っています。地形に関しては現地民による案内を交えさせ、アンブッシュに警戒するよう指示しております」


 なんにせよ、パタノフ大隊が重大な岐路に直面していることは間違いない。女伯の情報がペテンならば、ソロヴィヨフらはパルスベルクの兵に返り討ちに遭う。そしてこのまま手をこまねいていれば、ミュンヘンからの戦力が大隊の本隊とかち合ってしまう。最悪なのは、西に位置する大都市ニュルンベルクとミュンヘンの軍がパルスベルク周辺で合流してしまうことだ。こうなれば、せっかく確保したレーゲンスブルクを手放して、おめおめと退却しなければならなくなる。当然、敵はこちらのまくった尻を追撃してこないはずもなく、大隊はふりだしに戻るどころか、要らぬ出血まで強いられてしまうのだ。


「わかった。判明次第、報告を頼む」


 この状況が理解できていないほど、マニロフ少佐は愚かではないらしかった。その事実を垣間見ることができて、ソロヴィヨフは少々安心した。

実のところ、ソロヴィヨフはマニロフ少佐の甲斐性についてを訝しんでいたところがあった。突出した前線の最先端で中間管理職をやらされる少佐の気苦労は、わからないでもない。しかし実際に殺し合いをやらされる部下にしてみたら、いま大隊指揮官に文句を垂れられるのは、少佐のほかにいないのである。このままパルスベルクに突撃しろ、といった無謀な指令が一下されたら、果たしてこの禿頭の男は、われわれ兵士を擁護してくれるだろうか。ソロヴィヨフは、窄んだ胃がキリキリ痛むのを感じていた。


「引き続き、ヴィッテルスバッハ伯への尋問は任せる。下がっていい」


 額から噴き出る汗を手のひらで拭いながら、マニロフ少佐はソロヴィヨフに退室を命じた。


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