10.四重帝国の兵隊として働くのだ

 スローモーションでも見ているかのように、少尉の下半身がゆっくりと倒れていく。

「おー、これは珍しい」

「大尉!」

 いつの間にか、ラスティの目の前にひょろりとした長身の女が立っていた。

 年齢はよくわからない。二十代にも三十代にも思える。

 野戦服の上から薄汚れた白衣を羽織り、癖のある長い黒髪を無造作に束ねていた。

 そばかすが目立つ化粧気のない地味な顔立ちで、眼鏡の奥には元の色がなんだったのかわからない、黒く濁った瞳がある。

「ぼさっとしてるなよ、ハーディ軍曹。君まで死んじゃうぞ」

 その声が聞こえると同時に、ラスティの視界が反転した。

「?」

 足を払われ、地面に倒されたのだ。

「まったく驚きだな」

「うあ……」

 そのまま軍靴の底で踏みつけられ、身動きができなくなる。

 ラスティの背中に出現していた半透明の黒い四枚羽は、いつの間にか消え失せていた。

「少年、君が使ったのはマギア・クラフトだ。エレメンタルは四種族の混血が進んだせいで、天然もののマギア・クラフトを使えるやつは珍しい。属性ごとに体系化された軍用のマギア・クラフトを、訓練してどうにか使えるようなポンコツばかりだからな」

 突然に現れた女は、そう言って子供っぽく笑った。

 決して美人ではないのに、不思議な魅力がある奇妙な女だった。

 彼女は眼鏡の奥にある自分の黒く濁った瞳を指さし、それからラスティの瞳を指さす。

 いまは赤いルーベルの瞳だが、先ほどまでは黒く濁っていた。

「ましてや、ボクのお仲間ときた。君の名前はなんという?」

「お前こそ、お前たちこそ、なんなんだ……」

 ラスティは肺から空気を絞り出し、消え入りそうな声で言った。

「おっと、確かにそうだな。ボクはエアリエル・バスカーヴィル。四重帝国の兵隊で、階級は大尉だ。元々はマギア・クラフトの研究者さ。いまは魔術師の部隊を率いているが、そんなに偉くはない。君がいま殺したコックス少尉と、そこいらに転がっている死体はボクの部下だ」

「どうして……! こんなことをするんだ……こんな……」

「さて、どう言ったものかな」

 バスカーヴィルと名乗った女は、少しばかり思案する素振りをした。

「こんなことをするつもりはなかったと言っても、起きてしまったことだし、もうどうしようもないことだ。だからボクは、くだらない言い訳も謝罪もするつもりはない。理不尽な悲劇なんてものは、戦場ではどこにだってあるものだ。残念ながらね」

 ラスティを踏みつけていた足が、ゆっくりと離される。

 バスカーヴィルは身をかがめ、こちらの顔をのぞき込んできた。

 もう抵抗する気は起きなかった。

 一見すると医者にも学者にも見えるこの女は、底知れない。

 眼鏡の奥の濁った黒い瞳に、吸い込まれそうになる。

「君は、君の大切な人たちを守ろうとした。それは正しいことだ。だが、君の大切な人たちを殺したコックス少尉にだって、彼を大切に思っていた人はいたかもしれない。それをどう思う? 君は謝罪するか?」

「それは……」

「聞いておいてなんだが、ボクだってわからん。世の中は矛盾だらけだし、正しいことは人の数だけある。気にするな」

 バスカーヴィルは眼鏡を押しあげて、くぐもった笑いをもらした。

「だが、才能を、力をもっている者は――少なくともそれを、自分が正しいと思うことに使えるようにならなければならん。君が感情に任せて暴走させているマギア・クラフトもそうだ。きちんと制御して、君が正しいと思うことに使えるようになれ。それが才能をもっている者の責任というものだ」

 ラスティはその言葉の意味がわからなかった。

 だが、軍曹がなにかを察したように声を出す。

「大尉、なにを考えておられるのです」

「参謀本部のくだらない人事を受け入れることに、少しうんざりしてきたのさ」

「それはごもっともですが」

 軍曹はM字に薄くなった額を撫でた。

 転がっている第四分隊の死体を見やって肩をすくめる。

「コックス少尉はどうしようもないクズ野郎でしたし、彼の部下たちも大差ない。こんな連中を、士官学校や魔術師教育学校の成績だけで我々に押しつけてくるとは」

「この戦争も長い。人材は有限だし、ましてや優秀なやつほど早く死ぬものだ」

 バスカーヴィルは芝居がかった仕草で立ちあがった。

「どう思う、軍曹? 君の意見も聞こう。ボクはこの少年の才能を買うが、正直言って手に余るかもしれない。ここで始末しておいたほうが、面倒が起きないということもある」

「自分ならこんな不安材料を部隊に抱えるのは遠慮したいですな」

「なら、始末するかい? ボクは下士官からの信頼残高を、つまらないことで減らしたくはないからね」

 軍曹はルーベル特有の赤い瞳でこちらを見ていた。

 彼がなにを考えているのか、ラスティにはわからなかった。

 数瞬だけ思案して、軍曹は息を吐いた。

「いえ。エレメンタルの同胞を、ましてや子供を殺すのは後味が悪すぎます。自分にも息子がいます」

「ふむ。では、コックス少尉たちの戦死はどう報告する?」

「彼らは自業自得かと。戦死扱いではなく、本作戦において敵前逃亡したため、処理したことでよろしいかと」

「いいだろう。決まりだ」

 バスカーヴィルは、そっと右手を伸ばした。

「ボクと取引をしないか、少年」

「……」

 目の前に差し出された手を、ラスティは取ることなく身を起こす。

 所在なさげに右手を引っ込めて、バスカーヴィルは続けた。

「君の力をボクに貸してくれないか。ボクの部隊で魔術師としての訓練を受け、四重帝国の兵隊として働くのだ」

「……僕が?」

「そうだ。ふっふっ、意味がわからないという顔をしているな。この村に、こんなことをしたボクたちの部隊に君が入る道理がないか?」

 そのとおりだった。

 だから、ラスティは彼を睨み返して沈黙した。

「取引だと言っただろう。君はみんな死んでしまったと言ったが、ボクがざっと見て回ったところそうではない。生きている者もいる。放っておけば死ぬだろうが」

「え……?」

「孤児院の子供たちも、少なくとも彼女はまだ息がある」

 バスカーヴィルは、視線を血溜まりに沈んでいる女の子にやった。

「リリィ……!」

 ラスティは彼女の名前を口にした。

 その痛々しい姿を改めて目にすると、いまにも泣き出しそうな気持ちになる。

「君の力をボクに貸してくれるなら、まだ生きている人たちは可能な限り助けよう。ボクは大して偉くはないと言ったが、色々とわがままが許されている」

 バスカーヴィルは軽い口調だった。

 にわかには信じられず、ラスティは沈黙した。

 血に塗れる少女と、バスカーヴィルの漆黒の瞳を交互に見やる。

「これは善意なんかではなく取引だ。だから信用できる。君の才能への対価を、ボクは払おう」

「……リリィを」

 息をのみ、ラスティは言葉を絞り出した。

 村の人たちもそうだが、なによりも彼女を。

 家族同然に育ってきた子供たちは、いまや彼女一人だけになってしまった。

 その彼女が、いま、目の前で、死にかけている。

「彼女の怪我が治ったら、不自由なく幸せに暮らせるように、してほしい」

「よしよし。条件を提示するのはいいことだ。取引とはそういうものだからな」

 バスカーヴィルは嬉々としてうなずいた。

 指を鳴らし、歌うように続ける。

「怪我が治ったあとの彼女の暮らしは、ボクが保証しよう。帝都にいったことは?」

「……ないよ」

「政治と学問と歴史の街だ。芸術は少し心もとないし、物価は高いが。治安もいいし、なにより豊かだ。彼女はいま何歳になる?」

「十歳」

「なら、全寮制の学校に通えるようにして、然るべき教育を与え、成人するまではボクが責任をもとう。もちろん、彼女の前に現れることはしない。十分な教養を身に着け、自立した大人になるのだ。そうしたら、幸せは彼女自身が見つけるだろう。どうだ?」

 少なくとも、魅力的な話だった。

 怪しい貴族や金持ちの養子にするなどという、くだらない提案をしてこない。

 それだけでも、この女はましな大人に思える。

 孤児院にいた子供たちを買っていった、善意の大人たちに比べれば。

 ラスティは唇を噛み、再度、リリィを見た。

 軍曹と呼ばれていた大男が、応急処置を行っていた。

 彼女は助かるかもしれない。

 拳を握り、視線をバスカーヴィルへと戻す。

 そして、ゆっくりとうなずいた。

「決まりだ」

 バスカーヴィルは両手を叩き合わせ、子供のように無邪気に笑った。

「君は、君の才能を正しいと思うことに使った。これで助かった村人たちや、あの女の子は、それを知ることはないだろうが。いい仕事というのはそういうものだ」

「いい仕事……?」

「そう、世の中、表に出て評価されている者がいい仕事をしているわけではない。裏方だよ。本当にいい仕事をしているのは、誰も知らない裏方なんだ」

「大尉、子供にそんな話をしても仕方ないでしょう」

「おっと、確かにそうだ」

 リリィを抱えた軍曹の言葉に、バスカーヴィルはわざとらしく肩をすくめた。

「もう一度聞こう。君の名前はなんという?」

「……ラスティ……フレシェット」

「そうか、ラスティ。今日から君はボクの部下だが、取引をしたのだから、ボクのことは好きなように呼ぶといい。大尉でも、エアリエルでも、バスカーヴィルでも。けれど、ボクは年長者だから最低限の敬意は払うように」

「…………」

「ボクは君の才能を、きちんと使えるようにしてやろう。そして君は、その力を、そうだな――」

 彼女はそこまで言ってから、一拍だけ言葉をとめた。

 思案する素振りは、どこか芝居じみている。

「――あの女の子が成人するまでは、ボクのために使うんだ。それからあとは、自分が正しいと思うことに使えばいい。他人の正義や評価を気にしてもはじまらん」

「……わかったよ」

 ラスティ・フレシェットはこのとき十歳だった。

 彼は彼女との約束を守り、四重帝国の魔術師になった。

 二年で分隊を任されるようになり、多くの戦場で力を使った。〈バスカーヴィルの魔犬〉と呼ばれ、数えきれないほどのエレメンタルの同胞たちを助け、数えきれないほどの連邦の兵士たちを殺した。

 そして、さらに二年で終戦を知った。

 一命を取りとめた女の子は、帝都の学校に通っていた。

 いまは彼が新しく取引した、ガルーの女が援助している。

 誰に知られることもなく。

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