32.5話【小説】息づく桜花







 電球が青い光を灯し、闇の中で白い桜が浮かび上がる。

 いつか見た夜桜の景色。それを今、舞台上に見ている。姿はただの女性なはずだけど……人と桜がだぶって見えるのは初めてだ。

 劇が開始してまだ一分も経っていないと思う。女性はセリフを吐いていない。私を含む数人が感嘆のため息を吐いただけだ。周りの顔など見ないし、見る余裕もないけれど、きっと口を開けたままのお人形になっている。かくいう私もそうだが。

 それから一、二分経ったが、女性は動かない。青いスポットライトが照らす舞台のへそに、根をはるような正座のままだ。体は全くぶれない。女性が呼吸をしているのかさえ、分からない。肌が逆立っていく。

 何よりも恐ろしいのが目だった。

 黒目だけが揺れ動いている。風になびく花のように、不規則に、不安定に。自発的な動きには感じられない。その頼りなさが、散り際の花びらと重なる。女性の視線は斜め上にあった。その格好は、空に縋る花そのものだ。夜空を塗り替える太陽を待つ花の目だ。私は今にも泣き出しそうだった。

 涙が落ちるか落ちないかの瀬戸際、一気に照明が明るく塗り替わっていく。その先は、眩しすぎて覚えていない。



○●○●○


 ふらりと鼻に舞い込む桜花の香りを、彼女はとうとう拝むことなく春を終えた。まだ四月の下旬ではあるが、桜の終わりが春の終わりと決まっている。彼女の中では。

 彼女は昨日まで気胸を患って入院していた。その間に春休みは終わり、桜は散り、所属するサークル――演劇部は臨時の公演が決まり、彼女はあらゆるものから置いてきぼりをくらっていた。

 生き生きと緑が待ち構える並木道を、彼女は力なく歩いている。生まれはじめた新緑の息吹をふき飛ばすように、ときどきため息を吐きながら。

 季節の移ろいを目に染みるぐらい浴びた彼女は、コンタクトを忘れたことを幸運とさえ思った。

 葉桜なんかぼやけるぐらいで丁度いい。

「今日は裸眼でも問題なかったかも」

 独り言にはなり切れなかった。隣を歩く演劇部の後輩、篠原がそれに反応したからだ。

「……分かってましたけど。やっぱり興味ないんですね、先輩」

 篠原はそう言うと目を伏せた。

場違いなほど暖かい風が二人の隙間を通り抜ける。

「シノは新緑が好きなん?」

 二人、ハッとした。篠原は話題を勘違いしたこと、そして、自分自身のとあるこだわりに気が付いた。しかし篠原は何かに気付いても言葉にする性分ではなかった。意志の強そうな瞳とは裏腹に怖がりで、きっかけがなければ本音も伝えられない。現に篠原は、隣の彼女に対して尊敬に加え、年の壁をすり抜けた友情を自覚しているにも関わらず、一番言いたいことは胸の中で腐らせていた。そんな自分を嫌っている。

 一方、彼女は注意していた西の方のなまりが出てしまったことに気付いた。篠原はきれいな標準語を話すので、なまりが気になってしまうが、他の人との会話ではまるで気にしていない。無意識だが、彼女は篠原に対してだけは緊張感と尊敬を併せ持ち、会話していた。

「間違えました」

 とだけ、篠原は答えた。

「え、何を?」

 相変わらず西のなまりだった。

 篠原は朝の東の空を睨んだ。


 それから気まずさがのしかかった二人は、めいめい脳内会話を繰り広げ歩いていた。

 いつものことだが、彼女は舞台上の篠原のことばかり考えている。初めて篠原の演技を見た日のこと、演技中の威圧感あふれる目つき、真っ直ぐな針が通っているかのような背筋、よく通る低い声……どれも繰り返し思い出す。思い出してイメージしていく。篠原が最も輝くための劇を。それを脚本として造形するのが使命とさえ、彼女は思っている。

 しかし、今日の公演では篠原は役者としては出ない。篠原は脚本・演出をすることになっている。入院中、見舞いついでに部員の武田からそれを知らされた彼女は、ひどくショックを受けた。

「シノの演技見れんの……」

「脚本の才能もあると思うけどな。たまにはいいじゃん」

 と、武田に唾を飛ばされながら宥められて彼女は呆れかえった。唾をぬぐった指を不快そうに見つめる。

「役者としては天才よ。あの子に脚本とか何考えとん?」

「いや、やるって言い出したのは篠原さんだし……」


 控え室に向かおうとする篠原に、「シノ、なんで」と彼女は言いかけたが、続けた言葉は「さっき間違えましたって言った意味、教えてくれん……ないの?」

 彼女の無理した標準語は、そこらの留学生よりもぎこちない。

「教えてほしいなんて言いました?」

「ゆった」

 彼女が続けたかったのは、なぜ役者をやらないのか、ということだった。

 彼女は僅かながら感じ取っていた。篠原の脚本への、もしくは別の何かに対する強い覚悟を。その威圧が彼女をすんでの所で堰き止めて、篠原へ踏み込むことを許さなかった。篠原が毒をまとっている気さえした。

 そういえば桜には毒があったんだっけ。彼女は篠原の名前が、「さくら」だったことを思い出した。

 篠原が控え室に消えていくと、入れ替わるように武田が近づいてきた。彼のふにゃふにゃ手を振る仕草を彼女は嫌っている。武田の大雑把な性格がにじみ出ている気がしてならない。

「退院おめでとう」

「どうもー」

「お前、相変わらずおれにだけ冷たいよな」

「あんたがシノを差し置いて役者なんてやってるから」

 またその話かよ、とヘラヘラ笑う。彼女は嫌味のつもりで言ったが、武田はほぼ全ての事象を好意的に捉える性分であった。それは彼女も十分理解しているが、良く思っていない。

「あんたって何もわかってない」

「何を?」

「シノの才能とか、色々」

 お次はクックッ、と堪えるように笑う。武田は面白くて仕方がない時、左の耳たぶを揉む。今もそうして、千切れそうなくらい揉んでいる。彼女はどうして武田がこんなにも笑うのか、全くもって理解が出来なかった。彼女の表情は、怒りの念にとらわれはじめていた。

「今更だけど、なんで臨時で公演やるって決めたん? 私に相談もせずに」

「いや、急な話だったからさ。常連のクジラおじさん、いるだろ? クジラさんの頼みだよ。久々観たいって」

 じゃあ仕方ないか、と顔をゆるめる。

 クジラさんとは、よく彼女たちの演劇を観に来る図体がバカでかい人で、部内で密かにそう呼んでいる。彼女が付けたあだ名だ。去年の秋頃から欠かさず来てくれている。

「ま、クジラさん細かく感想とか送ってくれるし、良い機会やね」

「そういや、パンフレット渡しに来たんだった」

 忙しくバッグを漁って取り出したのは、変な方向に線が入りまくったぐしゃぐしゃの紙。彼女は眉間にしわを寄せて受け取る。

「なんだその顔。この紙そっくりじゃん」

「誰のせいよ」

「あー、そろそろ準備あるから、行くわ」

 走り去っていくだらしない背中を、彼女は憎らし気に見つめる。

 ほんと、何も分かってない。

 未だに篠原が脚本になったことを、彼女は納得していない。ある種、武田は八つ当たりされていた。


 ぐしゃぐしゃのパンフレットを握りしめて、彼女は会場へ足を踏み入れた。そこは夜のような静けさが蔓延していて、照明が街灯を思わせた。開演前のこの空気感を彼女は好いていた。

 目いっぱいに呼吸をしてみる。薬っぽい病室のにおいとも、青臭い葉桜のにおいとも違う妙に懐かしいにおい。彼女はようやく自分の居場所に戻ってきた気がした。

彼女は会場を一瞥したが、クジラさんは見つからない。

 観たいと言っていたはずなのに。

 扉側の席に腰かけて改めて見回すと、彼女と同年代くらいの人ばかりであった。

 部員の誰かの友達だろうか。いや、新入部員かもしれない。もしかしたら座っている人の多くがそうかも。

 彼女は入院していた為、一年生が分からない。座っている彼らは、めいめい彼女に視線を投げつけたりしている。少々落ち着きがない。

 彼女は視線が向けられるたび、僅かな高揚感が心に生まれていた。彼女はその高揚を明確に感じ取れておらず、感覚を言葉や気持ちに出来ずに、ただ違和感を覚えるだけだった。それゆえ彼女もまた、彼らと同様に落ち着きがない。

 パンフレットを広げて眺めた。大きな文字で『夜桜鑑賞会』とタイトルが書かれたそれは、少し変だった。パンフレットには劇に携わった全員の名前が書かれているのだが、表には出演する役者四人と、照明スタッフの一部。裏に、残りの照明スタッフ、受付スタッフ、脚本・演出の名前。キャッチコピーもここに書かれている。

『夜の桜を前に、五人は何を思う――』

問題はなぜ照明スタッフを表裏にわたって書いたのか。そこが分からなかった。文字を小さくするなりして、何もかも全部表に書けばよかったのに。彼女は何度も首をひねる。

 ぼやけた視界でステージを眺めやっていると、突然の暗転で視界から全てが消えた。かと思うと、すぐさま足元が青く光りはじめる。上からは、ピンクの光が降り注いでいた。

 上手から武田が出てきた。

やけに緊張感をまとっている。いつもより表情が硬い。

「申し訳ありません。ただいま脚本の篠原が不在ということで、開演時間を少し遅らせます」

 申し訳ありません、と再度謝り腰を曲げる。観客がわざとらしくざわつきはじめた。

彼女は状況に困惑するばかりだった。申し訳ありません。申し訳ありません。武田の言葉が脳内を駆け巡る。

 何が申し訳ないのだろう。

 彼女は気がかりだった。パンフレットを見た限りでは、役者にシノの名前はなかった。つまり、脚本なんて居なくても劇は回る。開演を遅らせる必要がない。探す必要がどこにあるだろうか。

 実はシノも役者だったとか。そうだといいけど。

 そのうち、武田以外の役者もぞろぞろと舞台に出てきて、四人で何かを話している。四人とも張り詰めた表情をしていたが、ふと武田が左耳をいじったのを、彼女は見逃さなかった。

 武田、まさか楽しんでる? シノが行方不明のこの状況を。

 次第に観客たちから、冷ややかな声が生まれはじめていた。

「篠原さんって、そんなことする人なんだー」

「せっかくの休日なのに」

「こんな小さな公演だし、やる気出ないんじゃない?」

 これら話し声は、みんな彼女の耳にすべり込んできて、彼女を突き刺した。彼女は、篠原を悪く言われるのだけは許せなかった。苦いものが喉奥からせり上がってくる。

彼女はふと妄想に浸る。

 もし、突然舞台に立って言い返してやったら。

「あの子がいないのは必ず理由があるはずだし、他に予定があるなら帰ればいいし、どんな公演でも全力で演技をするのが篠原さくらだ。今に見てろ、見つけ出してやる」

 きっと、楽しい。

 彼女がこの時感じた楽しさは、人に反論を述べる楽しさではなかったが、彼女は気付かない。ただ、この時感じた高揚で彼女の頭は冴えはじめていた。

「な、お前さ、篠原さんの行きそうな場所とか、分かる?」

 武田は振り返って彼女に尋ねる。

「今、考えてる」

「今日、一緒に来たんだろ? 何か変なこと言ってたりした?」

「さあ」

 彼女は周りをなめ回すように観察する。隅から隅までこびりつく「ぎこちなさ」がうざったい。照明、観客、役者。目の前に違和感がゴロゴロ転がっている。全部解き明かしたい。気分は探偵役だった。

 問題は篠原が消えたことだが、彼女は外堀から埋めていくことを選んだ。真相に繋がるか定かではないにしろ、この公演はおかしすぎる、と彼女は感じていた。

脚本がいないだけで騒ぐこともないし、役者四人が舞台に出て話しているのも疑問。照明スタッフは突っ立って浮かない顔をしている。裏方の誰かが探し回っているのだろうか。

 彼女は肌に感じた違和感を思い切って投げつけてみた。

「武田、なんで照明わざわざ付けてるん? 青とピンク。普通に電気を付ければいいのに」

「あー、壊れてるんじゃね?」

 嘘だと気付いていたが、彼女は問い詰めることはなかった。武田は何かを知っていて、しかし口を割るつもりはないだろう、と彼女は確信していた。

 足元に青。頭上にピンク。

 ――照明は「夜桜」の色。

 これは「ぎこちなさ」とは違うのだが、彼女は廊下側の席だったため分かることがあった。彼女が入室してから廊下を歩く音は聞こえていない、ということだ。近くには受付のスタッフもいるため、篠原の目撃情報がないというのが不思議でならない。控え室から出るには廊下を通る以外ない。

 彼女は手元のパンフレットの存在を思い出す。それは「ぎこちなさ」を形成する一部だった。名前もキャッチコピーも含め全て表だけでまとめられる文量である。

 ……にも関わらず、裏を使っている。

 彼女は紙を何度も裏返す。同時に頭も回るような気がして。

 なぜ照明スタッフを表と裏にわたり書いたのだろうか。

 ――また照明か。彼女はうなり、天井を仰いだ。桜色の光が彼女を染め上げんとばかりに降り注いでいる。

相変わらず、「ぎこちなさ」は鳴り止まない。

「石井センパイの演技早く見たい」

「アタシは三角センパイ推し」

「つーか、はよ戻ってこいよな篠原とかいう人」

「わたし探してくる」

 作り物のような会話だと、彼女は思った。口調も度々変わるし、棒読みだし、彼ら、一体どうしたっていうんだろ。

 ……シノはどこだろう。どこへ行ったんだろう。

 彼女は役者としての篠原を知っていても、それ以外の篠原さくらを深くは知らない。少し歯がゆくて、初めて全て理解したいと心から思った。彼女は脚本家としての篠原を探しはじめる。パンフレットをまた見つめる。やろうとしている演劇は何だろう? こんな紙切れ一枚で分かろうとする。

 もう一度キャッチコピーを読み返す。

『夜の桜を前にして、五人は何を思う――』

 言葉が巡る。

 彼女は一度耳に、あるいは目にした言葉や仕草を心中で繰り返す癖があった。それが群を抜いた記憶力、想像力の源なのだが、当然のごとく無意識なのが彼女という人間である。

 だが、彼女に限る話でもない。天性のものはどれも無意識が動かす。意識した才能はもろい。無意識は鋭く、無邪気なもので、ダレカをころすこともあるくらい危険なものだ。彼女は今からあたたまった頭脳でひらめく。篠原の居場所も理解する。そして、猛威をふるい続けた無意識に彼女は気付くことになる。

 彼女の新たな幕が上がる。

 ――分かった。

 椅子をうるさく鳴らし立ち上がる。室内の視線を一気に受け取った彼女は、強烈な高揚感を覚える。

「シノの居場所、分かった」

 彼女は演技をしていた頃の自分を思い出す。

 言葉を待つ観客の視線。視線に抱えた期待、恐怖、動揺……に突き刺される舞台上の緊張感。照明の熱。心臓の鼓動。どれも彼女は愛おしく思っていた。

 彼女は、久しぶりにその高揚感を味わっている。

 パンフレットを掲げた彼女は、「これ作ったの誰?」と、武田に視線をやる。

「篠原さんが作った」

「演出も担当してるもんね。随分凝った演出だった」

 と、はにかむ彼女。

「なんで表と裏にスタッフの名前を分けたのか。それは、舞台裏にいるスタッフか、今この場にいるスタッフか、じゃない?」

 コキュン、と誰かの喉が鳴る。

「つまり裏に書かれているシノは舞台裏にいる」

 武田が呆れた顔で「それ、ただの当てつけじゃないの? 確かに表に書かれたスタッフが今、周りの照明担当してるけど」

 彼女は桜色の光を見つめている。

「聞いてる? おれの話」

「じゃあ、聞こうかな、原くんに」

 原は、青色の照明近くに立っているスタッフだ。

「なに?」

「緊急事態のはずなのに、どうして電気じゃなくて演出用の照明を付けてるの?」

「それは……」

「夜桜みたいな色、だよね。ピンクと青。私、一年前くらいに桜みたいな女の子の役、やってたの思い出した」

 誰かが息を吞む。

 彼女は見渡す。やっぱりクジラさんはいない。いるわけがない。観客、観客、観客。妙にぎこちない観客。喋り方も何もかも、偽物のすがた。

 誰かが息をひそめる。

「ここにいる観客、みんな『サクラ』なんでしょう?」

 みんな固まる。サクラも、役者も、スタッフも。彼女はお構いなしに続ける。

「サクラ、つまり偽物の客。劇のタイトル『夜桜鑑賞会』、そういうことねって分かった。ピンクと青の照明は、夜ザクラの強調。そういう演出」

 誰かが息を吸う。

「それからキャッチコピー。夜のサクラを前に五人は何を思う――。舞台にいる役者は四人。みんな探している。あと一人足りないから」

 誰かが息を吐く。

 彼女はパンフレットを裏にして掲げる。

「舞台裏にいるシノが五人目、だよね」

 ……お前、すげーな。武田の声が彼女には遠く聞こえる。


 ――下手から篠原が出てきた。瞳に相変わらず覚悟の色を携えて。


 篠原と彼女を、交互に見つめることしか出来ない武田、とその他一同。

「おめでとうございます」

 開口一番、篠原はそれだけ言った。少しの間、沈黙が流れる。

 あまりに淡々とした祝福に彼女は拍子抜けしたが、らしさだと思えばすぐに納得できた。

「退院祝い……だった? 今年桜が見れんかった私にサクラを見せてくるとは、恐れ入りました」

 彼女はなまりを含んだ優しい声に戻る。戻る、というのも、彼女は推理中はっきりと演技をしていた。探偵役になりきっていた。なまりなんか、一切消えていた。しかし、篠原は彼女の魔法を解かしてしまう。彼女は篠原を認めすぎている。

 篠原の才能に魅了された彼女は、役者としての彼女をあっさり捨てた。それに葛藤も後悔もなかった。

 篠原はそれが残念でたまらなかった。

 彼女に憧れていたから。

「先輩、さすがですね。でも、一つだけ推理ミスがあります」

「え、どこ?」

「キャッチコピーにある五人目は、先輩のことです」

 彼女は絶句した。あたたまりきった頭脳ですら、言葉の意味を理解できない。思考がまるで追いつかない。

「先輩、思い出しませんか? 一年前の公演。桜のように儚い女の子、の役。桜の木の生まれ変わり、みたいな設定でしたよね」

 脳は逆回転をはじめる。ふるえる。自分だけに注がれる視線の数々、演技中の喜び、命をもう一つ貰ったようなあの感覚。そして、今日。探偵役として視線を浴び続けた今日――。

 同じだ。

 眠らせていた感情が飛び起きる。

それを明確に、彼女は自覚した。

 彼女がそんな感情を巡らせている一方、篠原も言葉を続けていた。どう憧れたのか、どう思っていたのか、肩を震わせて訴えている。篠原は感情をむき出しにするのが大の苦手だ。苦しそうに言葉を絞り出している。

 篠原にも気付いていないことがある。篠原が演劇を続けているのは、彼女への憧れだけが原動力ではない、ということ。基本的に大人しいスタンスの彼女が感情を吐き出せるのは、舞台を通して、キャラクターを通してだけだった。喜びも、悲しみも、情熱も、みんな。

「……とにかく、私は先輩に憧れて入部したんです。私に遠慮して脚本だけに情熱を注がないでください――

――また先輩の演技が見たいです」

 という篠原の言葉は、彼女の中でかけがえのないものとして残り続ける。あの日、彼女の演技を見た篠原と同じように。

「私は、先輩に役者の楽しさを思い出してほしくて、無理を言ってみなさんに協力してもらいました。だから、五人目は先輩です」

 ついに、篠原は感情を絞りきる。

「さくらを前に何を思いますか」

 桜を前に一年前の記憶を呼び起こさせ、サクラを前に演技の楽しさを思い出させ、篠原さくらはもう答えを待つだけだった。

 一方、彼女は巡らせていた感情を受け止め、冷静になりつつあった。

 つまるところ、猛威をふるっていた彼女の無意識とは、彼女の才能だった。

 彼女は初めて自身の才能に触れる。

 今までは演技を褒められても、イマイチ実感が湧いてこなかった彼女。ただ純粋に演技を楽しむだけで、評価など特に求めもしなかった。だが、評価するのは好きだった。そっち側の人間だと、自分を決めつけていた。彼女にはあらゆるものの自覚が欠けている。欠けて鋭くとがった自覚が傷つけたものに、彼女はようやく気が付いた。

「ごめん、シノ。気が付かなくて」

 何言ってるんだ、と武田。

「篠原さんにこれだけ褒められて羨ましいやつ。ありがとうだろ、フツー」

「そうだね。久しぶりに演じられて、楽しかった。私、気付くの遅すぎるんだけど、こんなに演技が好きなこと、知らんくて」

 大きな深呼吸をはさむ。興奮で途切れ途切れの言葉を立て直すように。

「最高の退院祝いだった。みんなありがとう。また役者やらせてもらっても、いいかな?」

 みんなこたえる。とびきりの笑みで。裏方、受付のスタッフもいつの間にか舞台に出てきている。

 そういえば、とさくらが言う。

「先輩、私の脚本には全然興味ないんですね。裸眼で来たって言われて、実はショックでした」

「や、ごめん、でもあれは違くて……」

「いーや、深層心理が表れてるね」

 と横やりを入れる武田。うるさい、と叩く彼女。吹き出す何人かのサクラ――もとい新入生。

「おれ、言ったじゃん。脚本の才能もあるって。そうそう思いつかないよな、こんな脚本」

「先輩、次、私が書いてもいいですか? 裸眼の件のショックで気付いたんですけど、なんか、脚本にこだわりというか、愛着湧きはじめていて。もちろん先輩も私も出演させる方向で」

 彼女は満面の笑みで頷く。

 新入生たちは緊張の糸が切れ、しきりに文句を言い始める。サクラだとばれやすいような演技なんて無茶だ、とか、先輩もやってくださいよ、とか、好き放題言い出す。彼らも感じ取っていた。この演劇部、これから面白くなる。なんとなく、そんな期待を寄せていた。

 彼ら、それぞれに何かが息づくのを、無意識だけが感じ取っている。

「シノ、プロットある? ちょっと参考にしたい」

「裏の控え室にあります」

 上手に消えていったさくらの背中。

 春の残り香。

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