32話 ゾーン
町屋良平のしきを読みながら、三人称と一人称の混ざり合った文体に挑戦してみたら、案外スルスルと筆は進む。元々書いてた2000字程度の駄文を削除して、三人称ベースの新作小説を書いていく。
恩田陸なんかもそうだけど、三人称ベースの小説でも、ところどころ一人称になっている。ぼくは大事なことを忘れていた!自由でいいんだ。自分が面白いと思うものを自由に書き殴って、それで読者も楽しんでもらえたら本望なのだ。それに、この書き方は意外なまでに違和感が生じない。文体が馴染んでいく。
ミステリーは状況が分かりやすくないと、読者がとっつきにくい。今回選んだ文体は結構特殊なので、読者を置いてきぼりにしない程度に、かつ楽しく、軽やかに書き進める。もちろん文を理論的に分析しながら手直しはするけれど、どんどん筆を動かす手はスピードを上げて、2000字を越えたあたりから加速していく。
加速した手が止まったら、ふぅと一息ついた後に、すぐに印刷する。小説を紙にして、誤字チェックと文章の違和感のなさをチェック。大体筆が止まるのが長くても500字程度なので、一々の見直しをする必要があるが、それでも構わない。
町屋良平を参考にした文体と、日常ミステリーの融合に、久々に小説が楽しい!という感情を思い起こさせていた。
それに書き慣れ始めていた。
今まで書いた『ずぶ濡れの理由』『エターナルビューティ』で学んだ、解決への持っていき方、伏線のちりばめ方、そういうミステリーに関するノウハウは十分に理解していて、足りないピースはただ文章を書く楽しさだけだったんだ!と弾む。
疲れも眠気も忘れた脳が、キーボードを打つ手を止めない。
ぼくはずっと書けなかった。
『ブルー』で自信を失って、純文学を書くことを諦めて、他大学の子にエターナルビューティが届いていて、春が来て、プロットは大まかに書けた。それでも小説は書けなくて、1年生の才能に触れて、それでも書けなくて、ゼミで教えながらぼくも学ぶ、それでも書けなくて、町屋良平に出会って、新たな文体に挑戦して、今、ぼくは本当に楽しいんだ!
楽しいながらも、やっぱり上手く書けないのだけれど、自己批評するなら◎をあげられる文章なんかほとんどないのだけれど、それでも書く楽しさが全てを凌駕する。
この小説が1年生や誰かにバイブルになることはないと分かっていても、バイブルになりたいという気持ちは捨てたくない。一番じゃなくても、いい小説を書いていたい。いい小説を書くことで、誰かのいい小説を引き出して、才能に嫉妬していたい。
ぼくは面白い小説を渇望し続けるゾンビのように、呪われたようにキーボードを叩いていただろう。
小説のクライマックス、推理パートに入って、情緒が溢れて、もう覚えていないくらいに夢中に書き殴って、頭にイメージする場面がくっきりと浮かんで、溢れて止まらないのを、すくい上げるように言葉にのせて、小説になっていく。
ーーーーーーーーー
彼女の新たな幕が上がる。
――分かった。
椅子をうるさく鳴らし立ち上がる。室内の視線を一気に受け取った彼女は、強烈な高揚感を覚える。
「シノの居場所、分かった」
彼女は演技をしていた頃の自分を思い出す。
言葉を待つ観客の視線。視線に抱えた期待、恐怖、動揺……に突き刺される舞台上の緊張感。照明の熱。心臓の鼓動。どれも彼女は愛おしく思っていた。
彼女は、久しぶりにその高揚感を味わっている。
パンフレットを掲げた彼女は、「これ作ったの誰?」と、武田に視線をやる。
「篠原さんが作った」
「演出も担当してるもんね。随分凝った演出だった」
と、はにかむ彼女。
「なんで表と裏にスタッフの名前を分けたのか。それは、舞台裏にいるスタッフか、今この場にいるスタッフか、じゃない?」
コキュン、と誰かの喉が鳴る。
「つまり裏に書かれているシノは舞台裏にいる」
武田が呆れた顔で「それ、ただの当てつけじゃないの? 確かに表に書かれたスタッフが今、周りの照明担当してるけど」
彼女は桜色の光を見つめている。
「聞いてる? おれの話」
「じゃあ、聞こうかな、原くんに」
原は、青色の照明近くに立っているスタッフだ。
「なに?」
「緊急事態のはずなのに、どうして電気じゃなくて演出用の照明を付けてるの?」
「それは……」
「夜桜みたいな色、だよね。ピンクと青。私、一年前くらいに桜みたいな女の子の役、やってたの思い出した」
誰かが息を吞む。
彼女は見渡す。やっぱりクジラさんはいない。いるわけがない。観客、観客、観客。妙にぎこちない観客。喋り方も何もかも、偽物のすがた。
誰かが息をひそめる。
「ここにいる観客、みんな『サクラ』なんでしょう?」
みんな固まる。サクラも、役者も、スタッフも。彼女はお構いなしに続ける。
「サクラ、つまり偽物の客。劇のタイトル『夜桜鑑賞会』、そういうことねって分かった。ピンクと青の照明は、夜ザクラの強調。そういう演出」
誰かが息を吸う。
「それからキャッチコピー。夜のサクラを前に五人は何を思う――。舞台にいる役者は四人。みんな探している。あと一人足りないから」
誰かが息を吐く。
彼女はパンフレットを裏にして掲げる。
「舞台裏にいるシノが五人目、だよね」
……お前、すげーな。武田の声が彼女には遠く聞こえる。
ーーーーーーー
プハッと声が漏れそうだった。深海に潜って、一気に水上に顔を出した時のような感覚。いや、もはや命の萌芽を体験したのではないかと思った。ここまでを書き切って、しばらく放心していた。
間違いなく、いい小説を書けた気がする。
何かが宿ったように筆が止まらなくて、まだ興奮がおさまらない。落ち着くついでに誤字チェックをしようと思ったが、なんとなく野暮な気すらした。文章がどんなに拙くても、ここは直さずにこのまま批評に出すことを決めた。
あとは、真の解決に向けて、気持ちをぶつけ合うだけだ。
もう一回気持ちを入れ直して、あと2000字。数時間後には、久しぶりの批評が待っている。
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