空白の砂漠
赤木フランカ(旧・赤木律夫)
空白の砂漠
青い空から、鉄の隼が舞い降りる。F-16C「ファイティングファルコン」――世界で最も多く運用されている戦闘機だ。
三木香(カオル)はニコンのカメラを空に向け、シャッターを押す。まずは一枚、満足のいく写真が撮れた。大金をはたいて砂漠のど真ん中の基地に来ただけの甲斐はある。だが、三木の関心は戦闘機よりも、そのコクピットに収まる男に向けられていた。
たった今着陸したF-16が、エプロンまでタキシングする。三木は広報士官の制止を振り切って機体に駆け寄り、コクピットから降りてきた男に声をかける。
「よう。子安香(コウ)ってのはあんたのことかい?」
三木に呼ばれて、男はこちらに顔を向けてくる。彼の目からは驚きも喜びも感じられない。人形のように虚ろな目だった。
「誰だ、あんたは? マスコミの人間か?」
同じ日本人と話しているのに、その男――香は英語で尋ねてきた。その事実だけで、三木は香が今まで取材してきたどの被写体とも違うことが解った。
「三木香――フリーのカメラマンさ。取りたいものがあれば、地獄の底だろうと行ってシャッターを切る男だよ。今回は、あんたの顔を取りに来たんだ」
「俺を?」
その一瞬だけ、香は目の色を変える。どうやら、彼もこちらに興味を抱いたようだ。三木は釣り竿が揺れた時のような興奮を覚える。
「中東に展開するアメリカ軍の外国人部隊に、日本人がいるって噂を聴いてね……会って話を聴いてみたいと思ったんだ」
三木の話を聴いて、香の目が再び人形のような目に変わる。三木は彼の目の色の変化から、拒絶を感じとる。香は三木に何か訊かれたくないらしい。それでも、三木は質問することを止めたりしなかった。
「聴かせてくれよ……日本から遠く離れた砂漠で、あんたは何のために戦ってるんだ?」
香は答えない。相変わらず人形のように冷たい顔をこちらに向けている。三木は質問を変える。
「じゃぁ、あんたは空を飛ぶとき、何を考えている?」
しばしの沈黙の後、香は空を見上げて答える。
「何も考えない……空白だ」
香の答えに、三木は反論する。
「どうしてだ? 日本が恋しいとは思わないのか? 日本の景色や、向こうにいる恋人のことは考えないのか?」
「考えたことは無い。考えていては殺される」
なるほど、これが子安香か……三木はカメラを握る手に汗が滲むのを感じる。
今まで、世界の果てのような場所で暮らす日本人を何人も取材してきた。日本社会からはじき出された者、自ら進んで海を超えた者……どれだけ異国での生活に染まっても、皆必ず日本への郷愁のような感情を抱いていた。しかし、香はそんなことは考えず、無心で飛ぶと言う。この男は予想以上に面白い。
「あんたもいつか解るよ。いい写真を撮るんだな……」
そう言い残し、香はその場を後にした。
去っていく香の背中に、三木はカメラを向ける。「カオル」と「コウ」……同じ字を書くのに、読み方が違うだけで随分と違う人生を歩むらしい。この男と一緒に飛んで、その無心の状態を体験したいものだ。そう思って、三木はシャッターを切った。
*
香と飛びたい……その願いは、案外早く実現した。飛行隊の隊長は最初から三木を戦闘機に乗せるつもりだったらしく、同じ日本人ということで香がパイロットに選ばれた。
三木がこの基地に来てから三日後、香と一緒に複座型のF-16Dに乗り込む。
「あんた、戦闘機に乗れたのか?」
前席から香が話しかけてくる。
「言っただろ? 俺は撮りたいものがあれば地獄の底へだって行くって? 自衛隊を取材するために、脱出と耐G訓練はとっくに受けてるよ」
「すごい執念だな。尊敬するよ」
「そりゃどうも」
会話を追え、香は前に向き直る。諸々のチェックを済ませた後、滑走路へタキシング。
「加速する。Gに気を付けろ」
その言葉に三木が「心配するな」と返す前に、香はスロットルレバーを倒す。F-16が猛然と滑走を始める。強烈なGが三木の身体をシートに押し付け、首から下げたカメラが腹に食い込む。「もう少し手加減しろ」と文句を言いたかったが、声が出せるようになったのは水平飛行に移行してからだった。
「素人相手に無茶しやがるなぁ……」
「地獄の底まで写真を撮りに行くんじゃなかったのか?」
「ああ、そんなことも言ったな……撮ってやるさ」
三木はカメラを構え、キャノピーの外を見る。援護位置で一定の距離を保って飛ぶ僚機や、眼下に見える古代の遺跡をファインダーに収め、二・三回シャッターを切る。しかし、まだまだ三木は物足りない。戦闘機が後ろから追いかけてくれれば、スリリングな写真がとれるのだが……
そんなことを思っていた時、唐突に警告音が響く。
「どうした?」
「管制塔からの通信だ。少し静かにしていろ」
香は三木の存在を置き去りにして管制塔と通信する。
「こちら、子安香。管制塔、何があった?」
〈敵、四機が接近中。直ちに基地へ引き返せ〉
「迎撃機は?」
〈離陸まであと三分かかる〉
「ダメだ、それじゃ間に合わない。こちらで相手をする」
〈何を言っている⁉ 民間人を乗せているんだぞ?〉
「大丈夫だ。砂漠に置き去りにするつもりはない」
管制塔はまだ何か言っているようだったが、香は取り合うことなく無線を切る。そして、彼はこちらを振り向く。
「どうやら、あんたにもっといい写真を撮らせてやれそうだ」
酸素マスクで隠れているが、三木には確かにその向こうの唇が歪むのが見えた。目の前で蛇が鎌首をもたげ、今にも自分を一飲みにしようとしているようだ。
「おいおい! あんた正気か? 俺を乗せたまま空戦をするだって⁉ 冗談じゃないッ!」
三木は「早く基地に戻ろう」と促すが、香は利く耳を持たない。
「ああ、冗談じゃない。行くぞ!」
急加速。離陸時のGも凄まじかったが、今度のはそれとは比べ物にならない。ペシャンコになりそうだ……
「この野郎……あとで訴えてやるッ!」
なんとか声を絞り出し、悪態をつく。自分と同じGを感じているはずなのに、香は笑って返す。
「生きていればな……安心しろ、無事日本に返してやる」
「もうすでに無事じゃねぇんだよッ!」
キャノピーの外の青空が傾き、蜃気楼が揺れる砂漠と入れ替わる。三木を乗せたF-16は背面飛行からの急降下。三木には見えないが、香は敵機を発見し、それを追っているのだろう。
いつもより五倍は重く感じられるカメラを持ちあげ、望遠レンズで香の視線の先を見る。ファインダーにはデルタ翼の単発軽戦闘機の姿が映る。
「ぐっ……敵はミラージュ2000か……」
「詳しいじゃないか?」
「フランスに行った時に撮ったんだよ……すごい機動性だった。カメラで追うのが大変だったよ……気を付けろよ?」
「低速に持ち込めばF-16に分がある」
香はさらに旋回半径を縮める。カメラを持つ腕はもう限界に近い。それなのに、香は息を乱すことなく会話をしている。むしろ、地上にいた時よりも気さくになっているくらいだ。この男は地上と空とで別人のようだ。
「FOX2ッ!」
その声が聴こえ、三木は咄嗟に主翼にカメラを向ける。翼下のパイロンに吊るされたランチャーから、ミサイル――たしか「サイドワインダー」という名前だった――が発射される。その瞬間を逃さず、シャッターを切る。これだ……こういう写真が撮りたかったんだ! 三木の心臓が高鳴る。
カメラを前に戻し、再びミラージュをファインダーに捉える。相手は既にミサイルによってエンジンを破壊されていた。襲いかかるGに耐えながらシャッターを切る度に、地上には無い、空の戦いの写真がカメラのフォルダに保存されていく。
再び警告音。香が振り返り、三木もそちらを見る。もう一機のミラージュが後ろに取り付き、ミサイルを発射した。ミサイルはF-16よりはるかに速いスピードでこちらに向かってくる。
「ミサイルだッ! 逃げ切れない!」
「絶好のシャッターチャンスだぞ?」
ミサイルが迫っているというのに、香は楽しそうだ。クソったれ……こうなったら意地でも写真を撮り続けてやる! 三木はミサイルの方にカメラを向ける。
ミサイルは望遠レンズを使わなくても目視できる距離に近付いていた。目玉のようなシーカーにピントを合わせて一枚。おそらく、こんな写真を撮ったカメラマンは自分が初めてだろう。もしいたとしても、次の瞬間にはカメラもろとも木っ端微塵だ。
しかし、三木はそうはならなかった。ミサイルが着弾する直前、三木が乗ったF-16の下を、別の機体が通り過ぎる。ミサイルを撃った機体とは別のミラージュだ。その距離は、垂直尾翼がこちらの機体の腹に擦りそうな程近かった。
ミサイルはF-16のエンジンとミラージュのエンジンを誤認し、敵機に突っ込んでいく。味方のミサイルにやられたミラージュの写真がフォルダに追加される。
これで香は二機を撃墜したことになる。ちょうどそのころ、基地から上がった迎撃機が戦域に到着したことと、形勢不利を悟って敵機が撤退したことが無線から何となくわかった。
「敵機の撤退を確認……」
香のその言葉を聴いて、三木は一気に脱力する。全く、とんだ災難だった。だが、その分誰にも撮れないような写真が撮れた。今日はそれで良しとしよう……そう思い、三木はシートにもたれかかった。
*
「何か考えることはできたか?」
基地に帰る途中、香がこちらに尋ねてきた。
「どういうことだ?」
「俺が敵機と戦っている間、あんたは日本のことを考えたか? 戦う意味とか、愛する家族とか?」
三木はフッと鼻で笑う。三日前、同じ質問を香に投げかけた。彼はそれを覚えていたのだ。
「いや、何も考えなかったな……写真を撮ることで頭が一杯で、空白だったよ……」
「俺も同じだ。敵を倒すことばかり考えて、故郷を思うことなんてできなかった」
「無心で空を飛ぶ……あんたの言ったことがよく解ったぜ……」
マスクを外し、三木はニカッと笑って見せる。香もマスクを外して笑顔を返す。彼に会ってから、やっとその笑顔を見ることができた。ぜひとも一枚撮りたかったが、香は照れくさそうにマスクを付け直し、前を向いてしまった。
三木はため息を一つつき、カメラのフォルダの確認を始める。どの写真を見ても、先ほどの空戦の時に感じた興奮を思い出させる。手振れさえも、その激しさに説得力を与えている。まったく、俺は稀代の写真家になれるかもな……三木が自画自賛していると、前から聴き慣れた言語が聞こえてきた。
「ありがとう……」
「え……? 今、何て?」
三木は思わず訊き返す。香は「Thanks」ではなく「ありがとう」と言ったのだ。
「ありがとう、三木さん。久しぶりに日本語で話せて嬉しいよ」
「日本のことは考えないんじゃなかったのか?」
香はクスクスと笑う。
「俺だって、たまには考えるさ……」
彼はこちらに顔を向けない。しかし、後頭部からは爽やかな郷愁が感じられる気がした。
そんな後頭部にカメラを向け、一枚。結局、香の写真は後姿しか撮れなかった。
――終――
空白の砂漠 赤木フランカ(旧・赤木律夫) @writerakagi
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