205 神降ろし

 燃え盛る燎原のさなかで、あの人がわたしの名を呼んでいる。


 かの神剣で葦原あしはらを薙ぎ、燧石ひうちいしで迎え火を起こし、敵の軍勢を退けた。


 にもかかわらず、あの人は、ああ、なんて悲しそうな声で私の名を呼ぶのだろう。


 英雄でもなく、皇子でもなく、ただの男ですらなく。


 あの人の呼び声は、まるで母に見捨てられた幼子の泣き声のようだった。


 この人は、いつも火に巻かれ、身体のうちにはそれ以上の猛火を抱えていらっしゃる。


 過日あの人は、敬愛する父にして天皇すめらみことであるあの御方から、兄をよく諭せと命ぜられた。


 あの人の兄は、父が妻として迎えるはずだった姉妹を父を欺いて我が物としてから、父と顔を合わせることを厭うようになった。


 あの御方は妻を息子に奪われたことを、最初はもちろん怒ったが、やがてお許しになる気持ちになられた。


 あの御方があの人に「よく諭せ」と命ぜられたのは、自分の息子の罪を見なかったこととし、関係を修復したいとおぼせられてのことだった。


 だが、父から重大な任務を与えられたあの人は、その命令を曲解した。


 あの人は、その胸のうちに宿せる猛火に従い、実の兄を「よく諭す」ことにした。


 かわやに立った兄を待ち構えて捕らえると、その手足を身体から引っこ抜いて殺し、こもにくるんで棄ててしまう。


 父をたばかったった兄を誅することで、あの御方にお褒めいただけると思ったのだ。


「あの時からだ。父上が俺のことを遠ざけるようになったのは」


 私と共寝をする臥所の中で、あの人は語った。


「俺の中には荒れすさんでまぬほむらがある。俺にも御しがたいそれが、おまえを焼いてしまわないか心配だ」


 恐ろしくも聞こえる言葉だったが、その言葉には私への切なる心配のみが籠もっていた。


 ――東征。


 あの御方に課された難行を、あの人は矢傷を負いながらも切り抜けた。

 援軍すらあてにできない、無謀そのものの遙かなる征路。

 血なまぐさい殺戮と謀略とに彩られた仁義なき覇道。

 まつろわぬ神を言向ことむける、とのみ史書に記されたそれは、まぎれもない地獄行じごくこうだった。

 

 あの人は、戦場の火にあぶられながらも平気だった。

 あの人にとっては、おのれの内側を焼く猛火の方が耐え難かった。


 あの人は、私のつややかな銀髪を、いとおしげに撫でながらいつもつぶやく。


「失いたくない、俺だけのたちばな。どうか、俺の焔に巻かれないでくれ」


 橘は当時、柑橘類一般を指す言葉だった。

 当時における橘は、異国の香りのする霊験豊かなる神の果実だった。


 私の名に橘が含まれているのは偶然でもなければ比喩でもない。


 私は事実、遠く南の海を越えてやってきた異国の人間だったのだ。


 私が携えてきた甜橙オレンジの苗はこの地には根付かなかったけれど、異類の身である私のことを、あの人はおもしろがって受け入れてくれた。


 だからこそ。

 あの荒れすさぶ走水はしりみずの海に、私は身を投げることを厭わなかった。

 我が身を犠牲にすることで渡りの神の怒りを鎮める――

 自分にそんな献身的な面があったとは驚きだ。


 東征が成功すればいい、と私は思った。

 あの人の心に荒れ狂う焔の一片でも、あの御方に食らわせてさしあげればよろしいのだ。

 あの御方の尊大ぶった態度が怯えに染まり、その手足があの人の節くれだった腕で引き抜かれ、玉体が薦に包まれて、薄汚い沼にでも投げ捨てられる――

 そんな不敬そのものの妄想を抱きながら、私は渡りの神への人柱となった。


 荒れ狂う海は、私にはさほどおそろしくは思えなかった。


 あの人の心を焦がす焔に比べて、どうだというのか。

 無邪気にも父の歓心を買いたいと思い、喜び勇んで兄を殺したあの人。

 女装して蛮族の首領のもとに忍び入り、尻から剣を刺し貫いて殺したあの人。

 そうした血生臭い剥き出しの暴力をあっけらかんとふるいながら、身を焦がすような情熱で私を求め、愛したあの人。


 私は、木剋土、土剋水の五行に従い、植物――木気もくきで編み上げた敷物を、荒波の上の島――土気どきへと変える。

 その島の土気によって、波という名の水気すいき」に抗う。

 唐土もろこしで身につけた当時最先端の五行を天竺てんじく古来の呪術に継ぎぎした、私独自の強力な呪術だ。


 だが、所詮は人の為せるわざ。

 いくら私が当時有数の呪術師だったとしても、神の起こした荒波に抗えたのはほんの数秒のことだった。


 荒れる波の上に幾重にも広げた敷物が、あっというまにもみくちゃになっていく。

 私が何年もかけて髪を織り込み呪力を練り込んだ敷物が、圧倒的な水気すいきによって蹂躙される。

 土剋水の相性など、神と人の圧倒的な呪力の差の前には微々たるものだ。


 そのさまを見て、私は気づく。


 ああ、私はもみくちゃにされたかったのだ。


 私はようやくにして、私の心の奥底に宿る欲望の正体に気がついた。


 あの人を受け入れたのは、あの人の炎に焼かれたかったから。


 あの人の怒りに触れ、四肢をもがれ、薦に巻かれ、無造作に放り捨てられることこそ、私の望みだったのだ。


 だが、すべては遅きに失した。


 私はあの人の炎ではなく、冷たい走水の海に呑まれて死ぬ。


 焼け死ぬのではなく、溺れ死ぬ。


 しかし、宿願叶わず、非業の死を遂げるのも悪くない。


 あの人は、きっと私の死を嘆いてくれる。

 その嘆きは、あの人の焔をさらに強くする。

 私がこの身を犠牲にしてあの人を生かした以上、あの人は東征をなんとしても成し遂げる。


 ああ、すがすがしい。

 今日は荒天なれど、私の心は快晴だ。


 あの人は英雄となり、天皇すめらみこととなる。

 あの人の猛り狂う焔は、万人の仰ぐ太陽となる。


 そして、その太陽は、折に触れて嘆くのだ――


 「吾が妻よあづまはや」、と。


 海水を吸って重くなった敷物に手足を取られ、私は海の底へと沈んでいく。


 降りしきる雨、高い波のはるか彼方に、濡れそぼったあの人の姿が見えた。 

 船のへりにしがみつき、私の名を呼んでいる。


「オトタチバナよ――俺だけの橘よ! おおおおお!」









 水底の暗さは、いつの間にか俺のまぶたの裏側の暗さへと変わっていた。


 俺はゆっくりと目を開く。


 そうだ。俺は「神降ろし」を使って……


 降臨した神は「オトタチバナヒメ」だった。


 ヤマトタケルの東征として知られる一連の物語の中、走水はしりみず(今の浦賀水道)を船で渡ろうとしたヤマトタケル一行は、渡りの神によって大時化おおしけに見舞われる。

 窮地に陥ったヤマトタケルを救ったのは、妻であるオトタチバナヒメの自己犠牲だ。

 オトタチバナヒメは海の上に敷物を幾重にも積み重ねるとその上に飛び乗り、渡りの神への生贄となった。


 俺の脳裏に玲瓏たる女性の声が割り込んでくる。



わたしの臥所の近くでかような騒ぎを起こされてはたまらぬ。わが背のきしつるぎを握りつる者よ。この愚劣極まる狂言芝居に、わが力もて、幕を引け』



 ……ということらしい。


 「わが背のきしつるぎ」っていうのは、以前世界の穴に向かって投げ込んだアレのことだな。

 神話においては東征に向かうヤマトタケルが叔母から授かり、窮地をその剣によって救われている。


 ……まあ、最後はミヤズヒメの元に剣を残して素手で神退治に出かけるという舐めプをかまし、それが命取りになって死んでるんだけどな。


「そう言われても、力の使い方がわからない」


 俺はいつのまにか手のひらにあったみずみずしいオレンジを弄びながら聞き返す。


『かつては夫のために我が身を犠牲にした。そのことに悔いはなかった。いや、心より満足しておった。吾が背が天皇すめらみことになれなんだことは口惜しいが、そこまでは言っても詮無きこと』


「じゃあなんだよ」


『しかし、神としての自我を持った今はこうも思う。生きて吾が背とともにいられるのであれば、そのほうがむろんよかったであろうと』


「そりゃまあ、そうだろうな」


 さっき見せられた幻視では、愛する夫のために犠牲になることに後ろ暗い満足を覚えるとともに、愛する妻を失うことでヤマトタケルが引くに引けなくなり、何が何でも東征を成し遂げねばと思い詰めるはずだ、みたいな考えをしてたみたいだけどな。

 人の心に消えないトラウマを植え付けることで自分を忘却できなくするのは一種の呪いみたいなもんだろう。

 今では故意ではなかったとわかってるが、高校の時(この世界の)紗雪が俺にやったのと同じことだ。


 と、そこで、女神は声音をいきなり変えて、


『まあぶっちゃけ、私に呪術師としてもっとちゃんとした力が備わっていたら、渡りの神なんかに負けなかったと思うのよ』


「そりゃまたぶっちゃけたな」


『やれ婦徳のかがみだなんだと持ち上げられがちだけど、そんなもののために死んだんじゃないから。狂うほどの熱情に突き動かされながら破滅への道を突き進む旦那様かっけーってなもんで求婚をオッケーしたわけなの』


「なんでだんだん砕けた口調になるんだよ」


『表に出てくるのなんてほぼ二千年ぶりなんだもの。言葉を今の時代に……チューニング?してるのよ』


「なるほどな」


 チューニングしてその口調なら、もともとこういう性格の女性だったんだろう。

 神話のイメージだと夫のために自らを犠牲にした物静かながらこうと決めたら譲らない古風な女性って感じだったんだが。


 オトタチバナヒメが海外出身という要素は神話にはなかったはずなので、神話とのイメージが違うのは当然かもな。

 もっとも、彼女が異国人であったことが、神話の元となった歴史的な事実なのか、それとも単なる後付けのイメージなのかはわからない。

 なんなら、ソシャゲなんかに跋扈してる神話や歴史上の人物の擬人化文化が、現代人の意識に作用して、そんな「裏設定」を新たに付与したって可能性もある。

 つくづく、なんでもありの狂った現代だよな。


『ともあれ、私があんたに与えた力は単純よ。荒ぶる水面みなもを鎮める力――波を強制的になぎへと変える神通力じんつうりき


「波……?」


『ダンジョンのっていうの? そのポータルは表面にさざなみが走ってるわね?』


「まさか……それを止められるっていうのか!?」


『ダンジョンという異空間との境界はもともと不安定なものよ。その不安定さを、波という形で周期的なサイクルに変えることで、ポータルという境界を動的に安定させているのね。逆に言えば……』


「ポータルの『波』を止めてしまえば、ポータルそのものが機能不全に陥る……いや、消滅する?」


『そのとーり! さあ、ぱぱっとやっちゃいなさい。ダーリンならこのくらい、素手むなででも瞬殺しゅんころなんだから』


「神話の英雄と比べてくれるなよ」


 簡単に言ってくれるオトタチバナヒメに苦笑しながら、俺は手にしたオレンジに齧りつく。

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