84 頼りない背中・後編

 その目は――異質でした。


 私に向かって、その……性的な目を向ける男性はいます。

 エルフの血を引く私は、知らずのうちに放つ霊気のせいで、異性の目を惹いてしまいやすいのです。


 このことは、異性の視線の意味を知るようになった最近の私には、とてもおそろしいことに思えます。

 自分では気づかないあいだに、見知らぬ男性から品定めをされ、なんとかして「手に入れ」られないかと策謀を巡らされる――こんなにおそろしいことはありません。

 まるで、肉食獣の跋扈するサバンナに着の身着のまま放り出されたような怖さを感じます。


 以前は自意識過剰かとも思ったのですが、実際に危ないところを悠人さんに救われています。

 それからは、たとえ自意識過剰だったとしても、自分の身は自分で守らなくてはと思うようになりました。


 しかし、目の前の残酷そうな美青年が私に向ける目には、性的な色合いがまるでありません。


 私のことを女性と見ていない――いえ、人間とすら見ていません。

 まるで、心のない物を見るかのような目なのです。

 それでいて、その瞳の奥には粘つくような憎悪の炎がくすぶっています。


 心から憎む人間モノをどう利用し、どう使い潰してやろうか……

 この男性は、私のことを物としての利用価値で測ろうとしているのです。

 同時に、私のことを物として扱うことで、私が人であることを真っ向から否定したいのです。


 人を人とも思わない傲慢と、人と思っていないはずの相手を憎まずにはいられない妄執と。

 ヘドロのように濁った感情の渦に、私の息が詰まります。


「――下がるのだ、ほのかさん!」


 追いついてきた住職さんが、私の肩をつかんで私を下がらせ、前に出ます。


「フン、ゴミが。炎の精霊よ、そのゴミを焼き尽くせ」


「ぬっ!? ぐあああああっ!?」


 住職さんの身体を、いきなり炎が包みます。


「住職さん!」


「このっ、『レジストファイア』!」


 住職さんが耐火の防御魔法でその炎を消しました。

 ですが、完全に防げたわけではなかったのでしょう。

 住職さんは苦しげな顔でその場に膝をつきました。


 すさまじい早さの「精霊魔法」です。

 「精霊魔法」は、精霊に協力を頼む分、発動にはやや時間がかかるものです。

 お母様ほどの使い手でも、現象の規模に応じて数秒以上の時間が必要です。

 最低限の規模に絞ったとしても、どうしても一秒はかかってしまいます。


 この男性の「精霊魔法」は、ほとんど即座に発動したように見えました。

 これでは、銃を突きつけられているのと変わりません。


 しかも、その威力……。

 防御を得意とする住職さんを、たった一度の攻撃で動けなくするなんて……。


「ほう、耐えるか」


「やめなさい! あなたの目的は私でしょう!」


 お母様が叫びます。


「俺はゴミを焼こうとしただけだ」


「……私が従わなければ彼を殺すと?」


「フン、おまえが従おうが従うまいが、殺せる人間は殺すに限るさ。殺さない理由が見つからない」


「なぜそうまで人間を憎むのです?」


「さてな。人間など、ゴブリンやオークと大差のない下等生物だ。俺にとっては憎むという対象ですらない。ただただ不快に感じるだけだ」


「……私があなたとの婚約を捨て、人間の男と結婚したからですか?」


「ハッ、思い上がるのも大概にしろ、アバズレ。人間の男に股を開くような下賤なエルフなど、こちらから願い下げだ。もし間違って結婚していたらと思うと虫唾が走る」


「勝手なことを。私こそ、あなたと結婚したいと思ったことなど一度もありません。つまらぬ、器量の小さな男です」


「このっ……口の減らぬ女だ。しおらしく下手に出るなら、向こうに帰還したあかつきにはきさきの一人にしてやろうかと思っていたのだがな」


「あら、人間の男と結ばれるような下賤な女は嫌いだったのではなかったかしら? 結局、私に婚約破棄された屈辱を忘れきれてはいないということね」


「ちっ……余計なことを話したか。だが、そのように虚勢を張っていいものかな? 俺にはそこの坊主を殺すこともできれば、その後ろで怯えているおまえの娘を殺すこともできる」


「ひっ……」


 男の目は本気でした。

 脅すために仕方なく殺す、ということですらありません。

 殺すことになんの葛藤もなく、むしろ一刻も早く殺したい。

 男は、お母様を従わせるために、私を殺すのを我慢・・しているのです。


「……どうやってこれほどの力を身につけたのです、クローヴィス?」


 お母様の言葉で、その男はクローヴィスというらしいことがわかりました。


 話の内容からすると、お母様同様エルフなのでしょう。

 外見もお母様と同じく精霊魔法で誤魔化しているようです。


 そもそも、お母様と魔法言語で会話している時点でエルフだと気づくべきでした。

 私は「魔法言語」のスキルを持っているので、二人の会話が母国語同様に聞こえるのです。


「あの『大崩落』のあと、世界は大混乱に陥った。だが、それはチャンスでもあった。俺は自分の力を使って人間どもを征服し、奴隷化し、エルフが頂点に立つ黄金の世界を作り上げようと考えた。しかし、あの頭の硬い長老どもは、俺の進言をはねつけ、あろうことか俺を牢にぶちこんだのだ……!」


 クローヴィスが音すら立てて奥歯を噛み締めました。


「俺は牢を抜け出し、長老どもを血祭りに上げた。ハハッ、ざまぁ見ろ! 間違っても復讐などされないように、一族郎党皆殺しにしてやった! その上で、俺に従ったエルフどもを率い、穢らわしい下等生物どもを平らげるための軍を起こした! 俺は王になったのだ!」


「愚かなことを……」


 お母様が首を左右に振ります。


「愚かなものか! 霊的にも知的にも優れたエルフがの生物を従えるのは、自然の摂理にも敵ったこと! 温情で生かされていることを理解せず、我がもの顔で地上を占有する下等生物どもを、これ以上のさばらせておく理由はない! 俺の高邁な理想に心酔したエルフたちとともに、俺は着々と人間の国を征服した……だが」


 クローヴィスは拳を力の限り握りしめ、顔を怒りで醜く歪めました。

 その顔は、まるで能面の般若のようで……。


「裏切ったのだ! 奴らは俺を奈落に落とした!」


「奈落……?」


「ハルカフィア、おまえが呑まれた、あの大崩落したダンジョンのことだ。いや、もはやダンジョンとは呼べぬ。魑魅魍魎の跋扈する地獄の穴だ……あの世界の半分を呑み込んだあの穴は、いまだに世界の残りを呑み込もうとしている」


「……あの世界はかろうじて滅びを免れていたのですね。ですが、なぜあなたはそのような状況にある世界に帰りたいと?」


「決まっている。復讐のためだ。俺が奈落で舐めた辛酸を、その十分の一でも味合わせねば気が済まぬ……!」


「他にもこちらに来たエルフがいると言っていたのは嘘ですか?」


「フン。俺以外に、奈落を抜けてこちらの世界に降り立てるものがいるとは思えんな。確乎たる信念があればこそ、俺は世界の狭間で魂を引き裂かれずに済んだのだ」


「……そうですか」


 お母様は小さくため息をつきました。


「同胞が元の世界に戻って幸せになれるのなら。そのためになら、この身を犠牲にしてもよいのではないか……そうも思っていたのです」


「お、お母様!?」


「ですが、あなたの徹頭徹尾身勝手な欲望のために手を貸せというのなら、そんな言葉にはお答えする価値すら感じません」


「だが、おまえは従うしかない。娘を殺されたくなければついてこい」


「……それで本当にほのかを殺さないという保障があるのですか?」


「人間との混じり物を駆除できんのは残念だが、大事の前の小事だ。エルフの血が混じっていては『物品』にもできんしな」


「物品……?」


「安心しろ。俺がやろうとしているのは、奈落の底をこちら側からこじ開けて、今より大きな風穴を開けるだけのこと。素直に従っていれば、おまえを殺す必要もないし、生贄にする必要もない」


「あら、お優しいことで」


「来い、サンダーグリフォン!」


 クローヴィスの声に、上空から雷をまとった何かが降りてきました。

 鷲の頭に獅子の身体。

 グリフォンと呼ばれる魔獣です。


「さあ、来てもらおうか、ハルカフィア」


「エスコートをされるのは何年振りかしらね、クローヴィス君?」


「早く乗れ!」


 グリフォンに跨ったクローヴィスが、お母様を強引に引っ張り上げます。


「お母様!」


「ほのか、大丈夫だから。悠人さんを頼りなさい」


「王の御前でさえずるな!」


 クローヴィスは自分の前に抱えたお母様に容赦なく肘を落としました。


「ぐぅっ!」


「お母様っ!」


 クローヴィスとお母様の乗ったグリフォンが羽ばたき、みるみる高度を上げていきます。


「お母様ぁぁぁっ!」


「やかましい娘だな。気が変わった。殺すか」


「や、やめなさい! ほのかを害したら協力しませんよ!」


「べつに俺はおまえを生贄にしてもかまわんのだ。どちらでも儀式は成就できる」


「話が違うではありませんか!」


「そうしないこともできるというだけで、そうしようと思えばそうもできるということさ。元の世界に王として帰還する前に、おまえの不貞の証を駆除しておくのも悪くはない」


「やめてください! 私は言うことを聞きますから!」


「くくっ、どうせ言いなりにできるのなら、娘を殺され俺を憎むおまえを言いなりにしたほうが、いい余興になるだろうさ! 従わなかったら従わなかったで、いたぶり尽くして生贄にすればいいだけだ!」


「逃げて、ほのかっ!」


「お、お母様っ!」


 私は逃げようとしますが、目の前にはひどい火傷で苦しむ住職さんがいます。

 私をかばって傷ついた人のことを見捨てて逃げるなんてできません!


「馬鹿もの! おまえだけでも逃げんか!」


「そんなわけにはいきません!」


「くはははっ! ここまで合理性がないと笑えるな! ゴミはゴミ同士、馴れ合いながら焼却されろ! 雷の精霊よ、あのゴミどもに特大の雷槌らいついをくれてやれぇぇぇぇっ!」


「やめてえええええ!」


 月明かりの空がにわかに暗雲に覆われ、その中で雷鳴が響きます。


「ぬうう……、『レジストサンダー』を……!」


 住職さんが防御魔法を張ろうとしますが、とても防げるようには思えません。

 住職さんの使おうとしている魔法は、あくまでも雷属性のダメージを減らすもの。

 完全に防ぐものではありません。


 暗雲のあいだを稲妻が飛び交います。

 そのたびに稲妻は大きく、速くなっていきます。

 私たちの真上に稲妻が集まったかと思うと、それが激しく光りました。


 自分に落ちる稲妻を、目視することはできるのでしょうか?

 音より速い稲妻は、雷鳴を置き去りにして、無音のまま私たちへと落ちてきます。


 最期の瞬間に私の口から漏れたのは、想い人を呼ぶ言葉でした。


「ゆうと、さん……!」


 雷が、私たちの頭上で弾けました。


 雷光で真っ白になった世界の中で、私は絶対に死んだと思いました。


 でも、私は生きていました。


 閉じたまぶた越しですらくらんでいた目が、徐々に視力を取り戻します。


 おそるおそる前を見た私の視界には、とても大きく見える背中がありました。


 成人男性としては、標準的な広さだと思います。

 広さやたくましさだけを比べるなら、住職さんのほうがすごいです。

 長年山伏としての修行を積んできた住職さんは、さながら今世いまよの武蔵坊弁慶といった風貌の持ち主ですから。


 でも……なぜでしょう。

 私は、彼の背中のほうがずっと好きです。


 頼りになる背中……でしょうか。

 必ずしも、そうとは言えないと思います。


 私の大好きな想い人の背中は、いつもどこか頼りなげに揺れています。

 けっして、元から強い人ではないんだと思います。


 何度も何度もつらいことを乗り越えて。

 自分の無力さを思い知って。

 それでも、許せないことがあれば戦い、困ってる人がいたら助けてしまう。


 それは、とても危うい生き方です。

 とくに、探索者としては致命的に危険な生き方だと思います。


 だけど、そうとしか生きられない。

 自分の弱さを誰よりも知りつつも、ときにそれを乗り越え、ときにはそれを受け入れて、譲れないものために戦うのです。


 そんな人だからこそ、私は好きになったんだと思います。



「悠人……さん?」



 ここにいるはずのない想い人の名をつぶやくと、彼は肩越しに私を振り返って言いました。



「――悪い。遅くなったな、ほのかちゃん」

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