箱庭

 男は憤っていた。

 彼は小説家だったが、自らの地位や評価に、特段不満があるわけではなかった。憤りの矛先は、他人が書いた作品の稚拙さであった。

 彼は以前、とある賞の選考委員を務めたことがある。ジャンルは、いわゆるデスゲームもの。主人公に襲い掛かる、理不尽な死の連鎖。身近な人物すら、不条理の毒牙にかけられていく。賞に寄せられた作品を、片っ端から読み漁って……。思い出して、また深いため息をついた。

 人間の書き方が薄すぎる。とりわけ、極限状態に置かれた人間がどんな反応を示し、どんな発言をするかが、まったくと言っていいほど彼の考えと乖離していた。

 自らにも死が迫っている人間が、そんなことを言うわけがない。惨殺された友を目の前にして、そんな行動をとるわけがない。作品の端々から、エンターテイメントの範疇に収めるにしても、いささか幼稚と言わざるを得ないような展開を見つけるたび、怒りとあきれの感情が呼び起こされた。

 しかし、当然ながら男もそういった作品に目を通す中で、人の行動に興味がわいた。実際の人にこのような理不尽を、絶望を、不条理を、与えたとしたらどんな風になるのかと。当然そんなことを行うことはできない。実験などしようものなら、人権侵害――彼はこの言葉を、もはや鬱陶しく思っていた――で訴えられてしまう。


 だからこそ、と、男は目の前にある物体を凝視した。だからこそ、学者をしている友人からこの装置を取り寄せたのだった。

 見た目はお菓子の入った缶のようなものだった。ふたを開けると、ミニチュアになった街の様子がそこにあった。さらに凝視してみると、人が住んでいる様子もうかがうことができる。ただのミニチュアではない。街の中は車が走っているし、人だかりの喧騒も聞こえた。

 試しに、街中を歩く男を、人差し指でつぶしてみた。少しばかりの手ごたえののち、彼の指は血で染まった。

 喧騒は静まり返る。続いて、耳をつんざく悲鳴。あっという間に男だったものの周りに輪が出来上がる。輪から逃げ出すもの、また輪に加わろうとするもの。目を必死につぶるもの、また目を必死に凝らすもの。人々の反応、そのどれもが男には強烈な刺激となった。


 男は、あっという間に実験のとりこになった。そうして実験を繰り返していくうちに、すっかり仕掛けることに重きを置いて、男は筆をとることもやめてしまった。

 元来、人は残虐な精神を持っているのかもしれない。男のとる手段は日に日に凄惨さ、残虐さを増していった。彼はどうすれば人々が苦しみ、悶え、失意のままに命を落とすかを考えることで頭がいっぱいになっていた。


 箱の中では、狂った世界の中で、一つの宗教が生まれようとしていた。理不尽からの救いを求めるため、一人の女の子が生贄にささげられようとしている。

 そしてその女の子の目が、空を、いや、空ではなく、箱の外の男に注がれた。じっと、見つめている。透き通った両の眼は、確実に、男の姿をとらえていたのだった。


 言いようのない恐怖を感じた男は、箱にふたをした。今までこんなことはなかった。箱の中の人間が、彼の存在を認識するなど。自分の今まで行ったこと、それを考えると、気まずさが彼の心を襲った。

 彼は落ち着きを取り戻すため、マグカップにコーヒーを注ぎ、それを口に運ぶ瞬間、思わずカップを落とした。

 もしかすると、いや、まさか……。そんなことを考えながら、先ほどの女の子と同じような顔をして、空を見上げた。


 その目が注がれる前に、『私』はふたを閉めた。

 まさか、彼がこちら側に気づくとは。『私』は多少驚きながらも、そんなこともあるもんだと独り言ち、パソコンのモニターを見た。今日の作品はこれくらいでいいだろう。明日も早い。

 箱を机の隅に追いやる。そうして飲みかけだったコーヒーを流し込んで、モニターの電源を落とし、部屋の電気を消そうとしたその時。あることに気が付いて、首筋を冷たい汗が流れた。


 空は見上げない。『私』の世界の、ふたの閉まるのを恐れて。

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三分半終末思想 灯沢庵 @izumi_ism

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