怪談話
帰り道、男はうつむきながら、もうすっかり疲れ切った、不精ともとれる顔になっていた。
編集長に言われた言葉が頭の中をぐるぐると回っている。
「君の持ってくる話なんか載せたら、うちの週刊誌の沽券にかかわるよ」
今度のゴシップには自信があった。だからこそ、真っ向から否定された時の、ある種の後ろ盾というか、心のよりどころとも呼べるものを持たなかった男は、ただひたすらに打ちのめされてしまった。編集長が別の原稿を流し目で見ながらつづけさまに言った。
「君の妹の推薦があったから、君の部署を変えてもらったんだけどなあ。兄妹でどうしてこんなに差がついちゃうんだろ」
その言葉を思い出し、頭がまたずしりと重くなる。身内と比べられることほど非常なことはない。あの妹が……。男の頭の中の妹は、子供のころのままだった。いつまでもわがままで、いたずらをしてはその責任を被る羽目になった。男の頭の中ではそうであったから、余計腹が立って、しかし、怒りは収まるわけもなく、それでいてどこかへ消えてくれるわけもなく、結局胸の中にもやもやと残った。
まだ夏だというのに、肌寒さを覚えた。言いようのない空虚感がある。男の体の中は空っぽで、ありとあらゆる意味――例えば、生きてきた意味、もしくはこれから生きていく意味――が失われたかのようだった。むしろそれがいいとすら思った。そうして通勤の時に通り過ぎるトンネルに差し掛かった時、一つのアイデアが飛び込んできた。
……心霊ネタを書こう。
この季節は、特にこういったものが強い。面白ければ、真偽は問わなくとも、そこそこ雑誌に載せられるだけの算段はある。
男の考え付いた話は、件のトンネルに幽霊が出る、という話だった。
トンネルといっても、いかにも心霊現場になりそうな、山の奥の陰鬱な空気の中で存在感を放つ、といった類の代物ではない。高速道路の下を横断するためのごくごく短い、平凡なトンネルでしかないのだ。そのトンネルに女のすすり泣く声と、時折『タスケテ』といった叫びが響く、といった内容にした。
でっち上げだが、何も出さないよりは多少ましだろう。それに、これがコケたら、もういよいよあの会社にはいられないだろうと思っていた。どうせ生きる意味のない身だ、これくらいでちょうどいいだろう。男のネタは、文字通り命がけのものとなった。
次の日の帰り道。男は件のトンネルにつく。
その大半を創作によって飾られた男の話は、いったん様子見、ということになった。もう少しうまくまとめて、インパクトがあれば、採用という話だった。
安堵感があった。昨日あれほど募った無常感というか、そういったものは一過性のもので、一つ物が済めばただの気の迷いになるのだと、この時男は気付いた。
トンネルの中を歩く。何か胸騒ぎがして、いつもより早足になった。この場所で心霊体験をした、というエピソードを書いた手前、気恥ずかしさというか、落ち着かなかった。こんなことで一喜一憂、そんな自分を年甲斐もないと思いつつ、心の奥でふっと笑った――その時。
『タスケテ』
通り過ぎた車の音の中に、聞こえた気がした。
その夜遅く、男は原稿を作り上げていく。そうだ、幽霊に腕を掴まれたことにしてしまおう。そうやってついた手の後が、いつまでも消えない、というのはどうだろう。一度書き始めると、面白いほどに筆が乗る。そうだった。これが面白くて出版業界に来たのだ。男はある種の感動すら覚えていた。
先ほどトンネルで起きた不思議なこと、まるで自分が思い描いたような出来事、それも男の作業に拍車をかけた。実際に感じたことを巻き込み、男の妄想は続く。止まらない。半狂乱になって、書くままに書いた。
……部屋に、デスクトップのブルーライトだけが光っていた。気が付いたら寝ていたようだ。そうして目をこすって、ぎょっとした。
すぐに部屋の明かりをつけて、腕をまじまじと見つめる。赤黒い跡が、見るからに人の手とわかる跡が、はっきりと左腕につけられていた。男は悲鳴ともいえない小さな声を上げて、洗面台へと向かった。
腕を洗う。そうすると、跡はまるでまやかしだったかのように、見る見るうちに水に消えてなくなった。
その日はどうしても不気味で、会社に原稿を送るだけ送って休むことにした。
いったい何が起こったのだろう。自分が作った話が、まさに現実になっているのか。それともあそこには本当に幽霊がいて、呼び起こしてしまったのか。誰も答えを教えてはくれない。だから、果てしない疑問と脅えが、部屋の中に充満することになった。
原稿を送ったのは失敗だと思った。おそらくあの原稿は少しばかりの修正が入って、また書くことになるだろう。そうなったら、また災厄が降りかかってくる――そう確信した。
メールは夜、不意にやってきた。
少しばかり編集長の調整が入って、男の原稿は週刊誌に乗ることになった。最終的な原稿に目を通して、男は呆然とした。『死』の文字が、たった一か所、話の終わりにぽつりとあるだけなのに、目に刻まれて取れることはなかった。やめてくれ。
いてもたってもいられず、恐怖から逃げるように床についた。
突然だった。
苦しさに目を覚ました男は、強い圧力が首にかかっていることに気が付いた。誰だ。誰だ。お前みたいな悪霊なんかに、俺が――ふざけるな。ああくそっ! やっとつかんだ糸だ。再起するための、一本の細い糸。こんな理不尽があっていいのか、いいものか! いやだ、いやだ、いやだ。死にたくない。死を選ぶくらいなら、いっそのこと――。
……獣にも似た声が、何度続いただろうか。男の傍らには、息を引き取った妹の姿があった。左手をみた。今度ついた手の跡は、強い痛みとともにあって、洗い流して取れそうにもない。
朝が来たことを知ったのは、眠りとも失神ともいえない、一つの沈黙からようやく抜け出て、しばらくたってからだった。死体は消えてはくれなかった。
男は冷静になっていた。きっと、俺をからかっただけなのだ。妹は、怪談話に熱を上げる俺を、脅かしてやろうとしただけだった。いつものようにいたずらをして、そして……。首を振った。
いてもたってもいられず、家を飛び出した。とにかくあの妹と、二人きりでいたくなかった。そうしていく当てを失い、気が付いたときには出版社に足を運んでいた。打ち明ける誰かを探していた。この苦しみを分け与える誰かを。とにかくすべてを吐き出してしまいたかった。いつか雑誌で取り上げた、自首する人間の気持ちがわかったような気がした。
すべてを打ち明けると、編集長は怪訝そうな顔つきになっていた。
「さっきから何を言ってるんだ。お前に妹なんかいないだろう」
左腕がひと際、ずきりと痛んだ。怪談話は、いよいよ佳境を迎える。
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