腹の中

 男は自分の腹にハサミを入れている。

 じょきり、じょきり、と音を立て、正中線をなぞりながら、男の腹が開いていく。

 この男は狂気に染まったわけでも、奇怪な自殺をもくろんでいたわけでもない。いや、あるいは、やはり狂気に陥っていたと考えるほうが自然かもしれない。

 彼は実証主義者だった。自分の目で直接、そうと確認したものしか信用できない。彼が子供のころ、近所の子供たちと口論になった。彼曰く「闘牛は赤を目印にして猛進してくるわけではなく、その旗の舞う様をめがけて猛進してくるのだ」と。

 事実、これはそうであった。確かに闘牛は旗の揺れる様子に向かって突進する。しかし子供たちは聞かない。なにせ赤に寄る主張をする信者が圧倒的に多い。そうなると子供たちは数の暴力で彼を疎外したのだった。結局子供たちが真実を知ったとき、男は彼らの前から姿を消していた。といっても遠くに引っ越しをする、などといった物理的な手段ではなく、ただ相手にされていなかっただけのことであった。それでいて子供たちの姿を見て、間違いを常識にした人間を滑稽に思いながら、ほくそえんでいたのである。

 そんな考えを持っていたものだから、テレビなどで見る映像はひどく滑稽に映った。作り手がその当人の面白おかしさを基準とした手を加えている、そうに違いない。彼はこの時には人を信用することさえ愚かしく、またそんな考えに思い至る自分の愚かしさを嘲笑するようになっていた。

 もはや彼に残された自尊心――それもひどく屈折した――を補うためには、一つの道しかなかった。今までの常識を打ち破るようなことを実証することだった。ここまでくると彼は自分の命すらなげうってでも、命を担保にしてでも、目的を達成する、ある種の神がかりの境地まで至っていたように見えた。

 そうして彼は、自分の腹を割ってみようと思い至ったのだった。

 胸のあたりにハサミを突き立てたとき、意外にも血が出なかった。自殺をも覚悟していた彼自身も、これには驚いた。しかし、それは一瞬のことであり、次には目を爛々と光らせ、常識から外れたことを起こせる、その期待だけが彼の脳を支配していた。

 穴をあけた腹はこれまた彼の、いや彼だけでなく、およそ一般人の常識からも外れ、ペーパークラフトのように容易に切ることができた。空いた穴にハサミの刃を入れ、下腹部へと進んでいった。

 胸から50センチほど穴をあけ、広げてみると、その中に不自然に、ぐにゃりと形を変えながら動く影を見た。注視してみると、赤黒い、やせこけた人のような見た目をした物体が、腹の中をせわしなく律動している。

 腹の中の人間は、覗いてからしばらくは内部を縦横無尽に動き回っていたが、やがて男の視線が注がれていることに気が付いたとき、驚いた目でこちらを見た。

「お前は何者だ」男はあくまで淡々とした口調で言った。

 はじめ腹の中の人間は狼狽していたが、幾分か落ち着きを取り戻して男に語り掛けた。

「俺はお前の、そうだな、操縦者といったところだ。例えばお前が手を上げようと思った時、俺はお前の脳から指令を貰って、お前の手を動かしている」

「つまり、人間の思考と行動の仲介をする人間が、腹の中にいるわけか」

 男は色めき立っていた。これは、どこの文献にも載っていなかった。人がおおよそ考え付かないことをとうとう実証してしまったのだという優越感。そのリビドーの滝をその身一身に浴びていた。

「いや、まさか、自分の操縦する本人に見つかるとは思わなんだ」

 その時、男は、また不思議なことを考え付いた。

「お前は自分の腹の中がどうなっているか見てみたくはないか」

 そう腹の中の人間に持ち掛けたのである。

「お前の考えていることはわかっているし、俺はそれに逆らえない。そういう決まりなんだ。今まで自分の思っていたことができなかったことなどないだろう? だから、お前がやろうというのであれば、構わない。さっさと命令してくれ」

 人間の腹の中には、これまた小さな操縦者がいた。

 最初の人間と、その中の人間は顔を見合わせ、驚いた顔を互いに晒した。男は得意になって、さらにその操縦者の腹を裂いていった。

 その中にはまたその操縦者の操縦者が、そいつのおなかにもそいつを操縦するものがいた。何度も繰り返しているうちに、男は無我夢中になっていた。また中に人間がいることがわかると、その中はどうなっているのかという好奇心が彼を行動に至らしめた。そうして何度も腹の中の人間と顔を合わせるうち、彼らは当然だがその大きさをどんどん小さくしていった。

 八人目か九人目かの腹を裂くとき、事件は起きた。

 彼の小さな体を、ハサミが真っ二つにしてしまったのである。

 二つに分けられた人間は、何の反応を見せることもなくなった。死んだのである。

 彼を宿していた操縦者が怒った。

「どうしてくれるんだ。俺の操縦者がいなくなったら、俺は生きていけないぞ」

 男は自分の不手際の招いたことと、彼に同情しようと思い、少し思考を巡らせ、ある重要な間違いに気づいた。

 先ほどまで怒っていた操縦者は、気力を失い、だんだんとぐったりしていった。

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