花の頃に迦楼羅の舞う
吉沢万里
花の頃に迦楼羅の舞う
成岡家に三度目の産声が響いたのは、飛鳥山の紅葉がその身を焦がすように赤く染めた頃、丙午の年だった。この時伍平は五十と少し。前年に足を悪くし、長らく務めていた現当主である成岡茂幸の右腕を辞し、些か早い隠居のような生活を送っていた頃であった。
成岡家は、先代の茂吉が一代で財を築いた実業家の家であった。茂吉は秋の深まる頃、百姓の家に生まれた。その年は紅葉の葉の一枚一枚があまりによく色付き、夕日によって空が燃える時分など、さながら山火事のような様相であったという。
茂吉は苛烈な男だった。財を成した後、武家屋敷の立ち並ぶこの一帯に居を構え、これぞ下克上よと呵々と笑っていた姿が偲ばれる。生まれた日のごとく、燃え盛るように生き、燃え尽きるように死んでいった。伍平はこの男の下で死ぬなら本望だと思っていた。心底惚れ込んだ男だった。
息子の茂幸は、茂吉のような激しい気性は持ち合わせていなかったが、これはこれで優秀な男であった。長じて妻を娶り、跡取りの幸吉、長女の千代と子宝にも恵まれた。そうして、次いで生まれたのが次女のまきおであった。
生まれたばかりのまきおは、晩年の茂吉が小難しいことを考えている顔に瓜二つであった。
「これでは嫁の貰い手があるかも分らんなア」
茂幸はそんなことを言って笑っていたが、妻の真代はこの世の終わりのように、その細い眉をきゅっと縮こめた。
「ただでさえ丙午の生まれなんですよ。あなた、あなた。きっとこの子には良い人を世話してやってくださいましね」
「わかったわかった。どれ、まきおの世話は伍平に頼もうじゃないか。あれに頼めば万事良いようにしてくれる。器量よしとは言わずとも、才のある娘になるさ」
こうして、まきおの世話は伍平の責となった。伍平はまきおを孫のように可愛がり、よくよく世話を焼いた。
元々の伍平は粋の分からぬ男であった。妻にも気の利いた贈り物さえやったことのない、朴訥とした男であった。それがどうしたことか、まきおの身の回りについては、襦袢の色の合わせ、帯の錦糸の艶の一つさえくどくどとうるさく指示をする。まきおの深い闇色の瞳には、鮮やかな色が似合う。しかし、娘らしい控えめな美を引き立てるには、きらきらしく光を放つような織ではなく、月の光のように鈍くぼんやりと光るものでなくてはならぬ。伍平に子はなかったが、なるほど、世間での親子の情とはこのようなものか、と得心した。伍平は必ずや、まきおをどこに出しても恥ずかしくない美しい才女に育て上げ、良き妻良き母になるよう世話をして差し上げようと強く決意をしていた。
「伍平、これを読んでほしいの」
「少女世界ですか。ようございましょう。こちらへ」
ある日には、世の娘たちの間で流行しているという雑誌を携えて、まきおが伍平の膝の上に座っていた。物語に引き込まれると、よくまきおは小さな舌でぺろりと唇を舐めていた。そのたび、伍平はまきおが赤ん坊の頃を思い出して目を細めるのであった。
またある日には、皺が刻まれた手で幼い娘の手を引いて、見様見真似ではあるが、踊りの真似事をした。
「私、お姉様がやっているような芸事は好きじゃないの。でも、伍平とやるのは楽しいわね」
伍平は芸事にも明るくない。あまり小難しい演目はよく分からず、二人が共に舞うのは決まって藤娘であった。まきおは部屋の端に座り込むと、先ほどまで藤枝に見立てて担いでいた扇子をぽいと無造作に放り投げた。まきおの部屋は、興味のあるものとないものがあまりにはっきりと分かれている。繰り返し繰り返し読み聞かせ、開き癖のついた書はきっちりと書棚へ、娘らしい飾りや鞠などは部屋の隅、適当な箱にまとめて打ち捨てられていた。
「まきお様、それは奥様が京でお求めになられたお扇子では……」
ぽとりと畳の上に転がった舞扇は、艶のある黒漆の骨に、金地に淡く霞の柄が踊っている。審美眼に自信のない伍平でも分かるほどの品であった。
「私、お母様に踊りはやらないって伝えたわ」
話はそれきり、とばかりにまきおは袂を翻し、気に入りの小話の載った雑誌を引っ張り出してきた。こうと決めたことは梃子でも譲らない性質は茂吉によく似ており、伍平はそっと忍び笑いをするのであった。
それは、まきおが十三になった冬だった。ちょうど、古河家の大きな庭園が完成したと、人々が口の端に上らせていた年のことである。
その冬も、スペインからもたらされたという流行性感冒が猛威を振るっていた。事業拡大を視野にあちらこちらを飛び回っていた茂幸も、どこからかもらってきたのであろう、熱を出して臥せる日が続いていた。幸いにも命に別状はなかったが、真代はいつまで経ってもしくしくとしゃくりをあげ続けるだけで何もせず、余計な手間を増やしては皆がうんざりとしていた。家中が暗澹とした様相で、誰も彼もがぴりぴりと、つまらぬことでも眉を吊り上げていた。
伍平に世話をされて長じたまきおは、賢く、そして驚くことに、美しい娘に成長していた。いや、顔かたちだけなら姉の千代の方が美しかった。千代はどんよりとした家中でもころころとよく笑い、娘らしく秋空のように機嫌をよく変えた。端的に言えば愛嬌があった。
一方のまきおはふっつりと押し黙っていることが多く、唇は真一文字に引き結ばれていることが常だった。ただ、その指先の動き一つ一つが美しかった。使用人を咎める時、わずかばかり押し上げられる片眉の曲線がおそろしく優美であった。何より、夜闇よりもなお暗く、奈落の底のような眼に魅入られる者が多かった。
「今日は冷えるわね」
ぶるりと身を震わせ、まきおが火鉢へ手をかざした。硝子戸の向こうでは、風が雪を巻き上げ吹き散らしながら木々を揺らしている。雲一つない青空の中、太陽がぽつんと所在なさげに、力なく立っていた。
「お着物をもう一枚お持ちしましょうか」
伍平が言った。涼しい顔をするものの、凍えるほど寒い日は膝が軋む。右足に、しばらくしたら左足にと重心を交互に取り、体を支える。この十三年で、めっきり年を取った。妻にも先立たれた。まきおも手のかからぬ娘に育った今、いよいよ自身にも死の縁が近づいてくることを意識するにつれ、さて、どうやって死んだものかと、彼の目下の悩みはそればかりであった。
「そうね……三太に持って来させて」
ちらりと伍平を見やってから、まきおは言った。
「このような老いぼれの見立てではいけませぬか」
「足が痛むのでしょう。休んでいていいわ」
口の端をほんのり持ち上げて、まきおはうっそりと微笑んだ。しかしそれも一瞬のことであった。再びまきおは唇をきっと引き結ぶと、じいっと火鉢の炭に目をやったまま、顔も上げなかった。炭は白く赤く静かに燃えていた。かしゃ、と燃え尽きた底の炭が崩れ、ばらばらと炭が散ったが、火箸で直すことさえしなかった。
男のすすり泣きが聞こえてきたのは、それから少し経った時であった。伍平の部屋はまきおの部屋のすぐ脇にある。妻が亡くなった後、これまでの少し大きな部屋から移り、この小さな部屋に寝床を構えた。老いた男一人には十分な広さだった。何より、まきおの小さな声も逃すことなく聞こえるため、非常に便が良かった。
さてあの声は三太の声である。何事か、とまきおの部屋に向かうと、襖の向こうから焦げ臭いにおいがする。部屋の中からはくぐもった男の嗚咽が零れてきた。続いて、何かぶよぶよとした物を打ち据える鈍い音。
「まきお様、まきお様。いかがされましたか」
こちらから呼んでも返事はない。これは入室してよしという合図である。襖を引くと、硝子戸の手前に焦げたまきおの羽織と炭が散っていた。紅赤に白い青海波模様の羽織であった。紅白が焼けるとは縁起でもない。
畳の上に丸まって小さくなっているのは三太であった。まきおは珍しく息を荒げていたが、伍平が入ってきたことを確認すると、小さく鼻を鳴らし、手に持っていた火箸を放り投げた。着物の袖から、青白い腕の内側がちらりと見えた。伍平の心臓は早鐘のようにうるさく響きだした。
「これは、一体……」
「三太が着物の裾を燃やしたの。だから仕置きしただけよ」
すっかり興味を失ったかのように、まきおは部屋の隅に転がっていた、舶来土産のオルゴールを鳴らし始めた。金属の愛らしい音と、男の泣き声が不協和音を奏でる。すぐにこれにも飽きたのか、まきおはオルゴールをぽいと投げ捨てた。蹲る三太のすぐ横に、豪華な金細工の施されたオルゴールが落ち、無様な音を響かせた。
伍平の目に、いつか見た光景が浮かんできた。それは茂吉が事業を茂幸に引継ぎ隠居する直前のことであった。茂吉が知人から譲り受けた、さる高名な絵師の手によるという掛け軸の端を、使用人の一人が誤って破いてしまったのだ。使用人がこわごわと掛け軸を捧げ見せると、茂吉は茹で蛸のように真っ赤になって、その時手に持っていた煙管で使用人の頬を散々ぱらに打ち据えた。使用人の顔中に蚯蚓腫れが広がる頃、茂吉は急に興味をなくしたように、さっさと書斎に引っ込んでしまった。その時伍平の耳に響いた使用人の泣き声と、今聞こえてくる三太のすすり泣きはよく似ていた。煙管を放り投げた茂吉の顔が、段々とまきおのかたちをとっていく。伍平ははっとして、かつての光景を忘れるように頭を振った。
「三太、このように蹲っておらんで、まきお様にお詫びを……」
伍平はどうにかその場をとりなそうと、しゃがみ込み三太の顔を覗き込むと息を飲んだ。
この男、嗤っている。
いや、泣いてはいるのだ。涙を流し、鼻の下にはてらてらと鼻水が流れている。首筋や腕にも火箸を打ち付けた赤い跡が痛々しく残っている。しかし、それにも関わらずこの男の目は爛々と欲に燃え、口元はだらしなく緩んでいる。明らかに三太は悦んでいた。
伍平はぞっとして、目を逸らした。顔を上げると、まきおがじいっとこちらを見つめていた。薄い唇がだらりと開き、赤い舌が蛇のように蠢いて乾いた唇を舐めとる。まきおが興奮した時の癖だった。伍平には、これ以上何も紡ぐ言葉がなかった。
「……三太、下がりなさい。お部屋は私が片付けておこう」
伍平は、旦那様にご報告しなくては、と頭の中で何度も繰り返した。しかし、ついぞその気力が湧くことはなかった。病床の旦那様に、どのように御報告すればよいのだ。あなたのお嬢様は手酷く使用人を打ち、興奮するように育ちましたなどと! 伍平は頭を抱えて、これまでのまきおとの日々を思いやり、自分の世話が悪かったのかと思い悩んだ。
しかし本当のところは、茂幸の部屋へ足を向けようとするたびにちらちらと赤い舌が伍平の脳を舐め、その快楽のために足がひたりと止まってしまうためであった。幼い娘が、一人の男の手によって苛烈な女主人へと押し上げられたその姿の神々しさのためであった。何度頭を振って追い出そうとしてもうまくいかぬ。体の芯が火のついた炭のように、じりじりと燃え出すのを感じた。
伍平の身を焼くのは嫉妬であった。三太が羨ましくてならなかった。あの場に蹲って泣いているのが自らであったなら、と夢想すると、あまりの心地よさ、そして浅ましさに脳髄がくらくらとする。
伍平はその夜ついぞ眠ることができなかった。あの後、まきおは常のごとく、何事もなかったかのようにむっつりと唇を引き結び、つんと澄ました顔をしていた。年端も行かぬ一人の娘だ。それに、なぜここまで己の心をかき乱されるのか。伍平はちいとも分からなかった。分からなかったが、朱に染まったまきおの頬を、火箸をきつく握りしめ白くなった指の先を思うと、とっくに涸れ果てたと思っていた自らの欲望が、どろどろと流れ出した。萎んで縮こまった肉の塊がムクムクと力をつけ、下履きを濡らす。伍平は妻が亡くなって以来、流すことのなかった涙を流した。
飛鳥山の桜が蕾を綻ばせはじめたという。三味線の師匠の元から帰った千代が、花見に行こうとねだり始めた。
「ねエ、お父様に桜の枝を差し上げたらどうかと思うのよ。まきおも行きましょうよ」
流行り病からは回復したものの、以降、茂幸は体調を崩すことが増えた。今朝方も、思いの外冷たい春風に喉が冷えたのかごほごほと咳を繰り返し、真代は泣きそうな顔で医者に人をやり、薬を取りに行かせていた。子供たちは母よりも冷静であったが、幸吉はいよいよ跡取りとしての責を引き継ぐため、勉強に次ぐ勉強をさせられ目の下にくっきりとした隈を作る羽目になっていた。千代は日によって父の看病をすることもあったが、まきおは一切手を貸さなかった。
「私は家にいるわ」
「まア、つまらないこと。本当に行かないの?ほら、揃いの着物があったでしょ。萌黄に、肩から枝垂桜の下がっているのよ。あれを着ていったら、私たち、きっといっとう美しいわよ」
まきおは変わらず、首を横に振った。妹の頑固な性質を知っているので、それ以上千代はまきおに声をかけなかった。
「じゃあいいわよ、私一人で行ってくるもの。誰か、供をしてくれないかしら。ほら、向こう、雲があるでしょ。雨が降るといけないから、傘を持っていてほしいのよ」
確かにこちらはまだ明るいが、飛鳥山の向こうはどんよりとした鼠色の雲で覆われていた。少々ならばもちそうだが、長居をすれば一雨きそうである。
「誰か……あら、孝一さん! 今から飛鳥山に桜を見に参りますのよ。よろしければご一緒にいかが」
折しも、幸吉が学友の孝一を連れて帰宅してきた。孝一は第一銀行に勤める父を持つ、すっきりとした目鼻立ちの美丈夫であった。先日、茂幸を見舞う父に連れられ成岡家に来たところ、すっかり幸吉と親しくなったふうであり、ここのところ連日のように成岡家に姿を現した。茂幸は息子に銀行との伝手ができることを喜び、千代はこの端正な顔立ちの青年にすっかりのぼせ上っていた。
「千代、孝一くんはうちに用事があってきたんだ。つまらないことに声をかけるんじゃない」
「まア、お兄様ったらひどいわ……」
千代は孝一にちらと視線をやり、眉根を寄せてかわいそうな美しい娘を演じている。孝一は困った顔をしていたが、どうにも幸吉では千代を止めきることもできなかったらしく、結局三人は連れ立って外へ出ていった。
「お兄様は弱腰、お姉様は我儘放題。しようがないわね」
ぼそりとまきおが唇を開いた。あの冬の日以来、まきおはこのように他人を非難する言葉を口にするようになった。伍平はこうした言葉を耳にするたび、たしなめなければならない自らの責も忘れ、生唾を飲み込んでいる。誰かを小馬鹿にする時のまきおの顔はぐにゃりと歪み、それがえもいわれぬ毒々しい美しさをこの幼き娘に添えるのであった。その不釣り合いの妙といったら! 伍平は己の背骨の周囲の肉が、ざわざわと戦慄くのを感じていた。
「部屋に戻るわ。伍平、あとでお茶を一杯持ってきてくれるかしら」
「はい、まきお様」
「頼むわね」
ふ、とまきおが口元を緩めて笑った。こうしていると、どこにでもいる幼けない娘なのだが。
茶を淹れ、茶請けにと羊羹を切る。まきおは口の開きが小さいから、少し小さめに切ってやるのが常であった。とん、と包丁が小気味よい音を立てる。
伍平はふつふつと考える。桜の蕾がその花を緩やかに開くように、まきおも日に日に年頃の娘らしくなっていく。自分は、その成長に戸惑いを感じているだけなのだ。
そうでなくては、あまりにも。
あまりにも、何だというのだろう。とん、とん、と包丁の音は続く。伍平が気付いた時には、羊羹は小さく小さくなっていた。ふと、まきおの七五三の祝いの前の日、小さく羊羹を切って、膝の上で食べさせてやったことを思い出した。あの頃のまきおは、いつも伍平の後をついて回っていた。
己の手を見やると、深く皺が刻まれていた。まきおが生まれて今年で十四年になる。この皺の一つ一つに、まきおとの日々が刻まれていた。主人の娘ではあるが、それを超えて、娘のように孫のように可愛いと思っていた。そう、ほんの少し前まではそう思っていたのだ。伍平は唇を噛み締めた。
「まきお様、失礼します」
相変わらず返事はない。ツイと襖を引くと、まきおが硝子戸にもたれて座っていた。着物の裾から足袋のこはぜが鈍く光るのが見え、その足袋の下に隠された青白い足を思って伍平は泣きそうになった。
「お茶を持ってきましたよ」
「ありがとう、そこに置いておいて……」
先ほどとは打って変わって覇気がない。さてどこか調子でも悪いのか、と伍平は屈んでまきおの顔を覗き込むと、常から青白い頬が更に青白く、眉間にはうっすらと汗の玉が浮かんでいた。
「まきお様、いかがされましたか」
「なんだか、痛くて」
ゆるゆるとまきおが下腹を撫でさする。
「下痢ですか」
「分からない。でも、厠に行きたい感じとは違うのよ……」
何の薬を持ってきたものか、いや、医者を呼んだ方が良いだろうかと伍平が思案していると、何か鉄のようなにおいが鼻についた。さっと目を落とすと、まきおの足袋の履口が赤く染まっていた。
「まきお様……血が……」
さっとまきおの顔が朱に染まった。普段のまきおからは考えられぬ俊敏さで、伍平の袖に縋りつく。
「伍平、伍平……どうしよう。どうしたらいいの」
そこにいたのは一人の子供であった。お漏らしをしては助けを求める子と同じ、幼き娘であった。伍平はまきおを落ち着かせるため背を撫でてやろうと手を伸ばしかけ、ひたりとその手を止めた。
目に入ったのは、己の袖を握り締めるまきおの白い指、そして、部屋の隅に追いやられた火鉢に刺さる火箸であった。瞬間、老いさらばえ、醜くたるんだ体をこの娘の前に晒し、火箸で何度も打ち据えられる夢想を見た。どっと全身の血が湧きたち、みるみる精力が迸る。それは甘やかな白昼夢であった。アッと思った時にはもう、伍平はまきおを振りほどいていた。
沸騰した情欲は、伍平の根にみるみるうちに行き渡る。枯れ木は再びその幹に力を宿した。それは、これまでの日々に対する明確な裏切りであった。
さっとまきおの目が血走った。誰よりも信を置いていた老人による離反を、彼女は許さなかった。怒りに震え歯の根が噛み合わず、かちかちと小さな音が響いた。そこにいたのはもう、一人の子供ではない。庇護者は彼女を置いて去り、一人、女だけが残された。
ぴしゃり、とまきおの白い手が伍平の頬を打った。所詮女の柔い腕であり、それほどの痛みはなかった。二度、三度と打たれるうちに、未成熟な青い女に良い様にされている肉体の官能がいよいよと勝ってきた。
伍平の頬に赤い紅葉が散る。そうだ、まきおは紅葉の頃の生まれであった、と伍平は今になって納得した。茂吉と同じ、燃える命のおんな。
打たれるたびにぶるぶると震える、弛んだ瞼の肉の向こう、唇を舐めるまきおの舌が見えた。一度打っては右から左へ。もう一度打っては左か右へ。だらしなく開き放しになった口の端から唾液の粒が零れ、染み一つない白い絹の半襟を汚した。伍平の頭はぐらぐらと煮立ち、立っていられずまきおの膝に突っ伏した。
「お前はどこまで無礼をはたらくの」
むっと濃い血のにおいが鼻を衝く。そして、血のにおいに入り混じって薄れてはいるが、明らかに女の興奮したにおい。頭上からやや上擦ったまきおの声が聞こえてくると同時に、首筋に更に平手が落ちる。雷のような衝撃を感じ、伍平は卑しくも下履きの中で吐精した。そしてそれきり、気を失ってしまった。
伍平は自室の布団の上で目を覚ました。傍らには三太が控えていた。
「気が付かれましたかい」
三太から手渡された手ぬぐいはぬるかったが、顔を拭くと心地よかった。顔やら首やらがひりひりと痛む。それは取りも直さず、先ほどの夢心地の一瞬が真のものであったことを示していた。
「まきお様は……」
「今はお休みになってます。大分興奮されていましたから、今日は千代様がご一緒に」
なるほど、いつもであれば聞こえてくるはずの寝息は全く聞こえてこなかった。水を打ったようにしんと静まり返った部屋では、外で響く虫の音さえよく通る。男たちは唇を引き結び、じっと頭を垂れていた。
「……まきお様は」
三太が口を開いた。
「旦那様に、何もおっしゃられませんでした。ただ、伍平殿に茶を頼んだら部屋で倒れたとだけ」
伍平は目を瞑り、暫くじっと考え込んだ後に、ふうと長い息を吐いた。
まきおに種を蒔いたのは三太であった。土壌は確かにまきおの中にあった。どうしようもなかったのかと問えば、否である。伍平にはその種をひっそりと処分することもできたはずであった。しかし、伍平はそれをしなかった。まきおがそれとも知らず伍平に種を蒔いたからである。伍平に巣食った種は円熟した精神を食い破り、剥き出しの欲望の火がちりちりと心を焼いた。
伍平には確信があった。自らが望むように、まきおもまた、この欲望の炎が何某かを焼き尽くす様を見ることを望んでいると。まきおも仄暗い悦びを自覚してしまったのだ。それに気が付いた伍平の顔は、先ほどまでよりもずっと晴れやかであった。
伍平は、死に場所を見つけた。
しとしとと雨が降る、花冷えの朝であった。大粒の雨に打たれた花弁はその水玉の重さに耐えきれず、ほろりと身を解いて落ちていく。色彩を失った鼠色の景色の中、散っていく桜の花びらだけが鮮やかな日であった。
「今日は冷えるわね」
ぶるりと身を震わせ、まきおが季節外れの火鉢へ手をかざした。火鉢の端には、金色に光る火箸が刺さっている。まきおはじいっと伍平を見ていた。まきおは海老茶の地味な着物を身に着け、唇には紅が引かれていた。伍平は、初めてまきおが自らの意思で化粧を施しているのを見た。
「お着物をもう一枚お持ちしましょうか」
伍平は背筋をしゃんと伸ばして立っていた。老いて乾き萎んだ脚に、これまで感じたことがないような、溌溂とした命のうねりを感じた。寒い日にはあれほどじくじくと、骨を磨り潰されるような痛みを感じていたにもかかわらず、今は全く痛まなかった。膝は小刻みに震え、この後の甘美を予感させていた。
「そうね。何でもいいわ、持ってきてちょうだい」
まきおの唇が薄く開き、肉色の舌が何か別の生き物のように、紅の上を這いずる。炭は火鉢の中で、赤々と燃えていた。
伍平が持ってきたのは、春の日には全くそぐわぬ、芥子色の地に大ぶりの紅葉の柄の描かれた羽織であった。まきおは羽織には目もくれず、刺すような目で伍平を見つめていた。
伍平は一歩、一歩とまきおに近づくにつれ、耳の穴からするすると自分の魂が抜けていくのを感じた。老いて熟した伍平はもういない。まきおの眼前に立つのは、ただ一つの肉の塊であった。
伍平はまきおに羽織を差し出すや否や、その手の届かぬうちに羽織を取り落とした。舞い落ちた羽織は火鉢の上に落ち、じゅうと黒い煙があがった。絹の焦げるにおいは肉の焦げるにおいのようだと、伍平はしみじみ感嘆した。
まきおはむずと、火のついた羽織の裾をひっつかむと、伍平に向かって放り投げた。
「私の気に入りの羽織になんてことを」
嘘であった。伍平はまきおに派手な色柄の着物を着せることをよしとしていたが、まきおの好み自体は別にあることを知っていた。伍平はこれを喜んだ。まきおが嘘を通すのであれば、伍平の命はまきおのものであった。
羽織に描かれた紅葉はちろちろと燃え、次第に火の手を強めて伍平の顔を焼いた。しゃにむに腕を振って羽織を顔から引きはがすも、羽織にこびりついた灰が伍平の目を潰し、たまらずその場に倒れこむ。まきおはやにわに立ち上がり、火箸を握り締めて伍平をしたたかに打った。伍平はひい、と情けない声をあげ、畳の上に転がった。骨が軋むような衝撃に、伍平は思わず尿を漏らした。
「無礼者」
まきおの声は上擦り震えていた。白い指はきつく火箸を握り締め、肉を打つ勢いはいや増していく。火箸の先が伍平の腿を打った拍子にずぶと刺さると、足の間で屹立していた男根に精が迸り、その雫をまき散らした。青臭いにおいがまきおの部屋に広がった。
体のあちらこちらから火を噴くような熱を感じながら、伍平は幸福であった。痛みはもはや感じぬ。目は開けても閉じても光を受けず、もはや何も見えぬ。代わりに、伍平の瞼の裏には、煌々と不浄を焼き尽くす炎を身にまとった天女の姿がはっきりと映し出されていた。天女は何度も何度も伍平を打ち付けた後、一筋だけ涙を流した。だが、それきりであった。伍平はその晩、ひどく満ち足りた顔で息を引き取った。
伍平の躯は、亡き妻の墓に一緒に埋められた。小さな墓であった。火葬の火は轟々と音を立て、燃える炎は人の身を焼き尽くす。どのような者であれ、最後に残るのは、こんな小さな壺に収まる程度の骨である。
娘の折檻によって長らく仕えたかつての右腕を亡くした茂幸は、その動揺もあってのことか、どんどんと体調を悪化させ、ついにはぽっくりと逝去してしまった。真代は娘の不始末も夫の死も背負いきれず、とうとう心を病んでしまった。
後を継いだ幸吉は、その優柔不断な弱腰ゆえ、茂幸の死をこれ幸いとわらわら湧いて出てきた虫どもに、さんざに旨い汁を吸いつくされた。困り果てて孝一に泣きつくと、彼はすげなく幸吉を一蹴した。立身出世の道は険しく、前途ある若者は、能も金もない友人は持たないものだ、と笑われた。
千代は金の代わりに女癖が悪いと評判の成金息子に嫁がされた。嫁入りの日に化粧を溶かすほど泣き濡れて不況を買い、今はかつての朗らかな美貌もどこへやら、とんと老け込んで疲れ切った顔をしているという。
さて、まきおはわずかばかり残っていた、自身の豪奢な着物や宝飾品と共に、ある日突然プイと姿を消した。三太もいずこかへ消えてしまったが、彼は数か月後、浅草の端のあばら家で首を吊っているのが見つかった。まきおの行方はついぞ分からぬままだった。世間では、没落成金の姫君の失踪だ、いや駆け落ちか誘拐かと、面白おかしく色々な噂が飛び交っていたが、次第に飽きられ忘れられていった。
数年後、大和郷にある、金持ちの独り身男の家から、まきおによく似た女が出てくるのを見たという人があったが、それはまったく他人の空似である。
伍平の墓は苔生して、蝿があたりを舞っていた。供えられる花もなかった。傍らに咲く桜の花のみが友であった。
ある日、花見に来ていた一人の酔っ払いがふらふらと、伍平の墓の前で咥えていた煙草を取り落としてしまった。煙草の火は下草に燃え移りその勢いを強め、しまいに桜の木まで燃やしてしまった。夜の暗がりの中、赤々と燃えて聳える桜の木は、まるで炎の花のようだったと近所の老爺は語った。
桜の木に寄り添っていた伍平の墓も、当然炎に巻かれた。墓石は黒く焼け焦げて、銘さえ読めなくなってしまったという。
花の頃に迦楼羅の舞う 吉沢万里 @Mary-el
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