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「では、あなたはそのままこの人を車ではねたのですね。それは間違いないのですね?」
「ま、間違いはないさ。だが、信じてくれ。俺は本当に、ついさっきまで、ただ猫をはねたとしか覚えていなかったんだ!」
「ええ、信じますよ。おそらくそれが、あなたの病理の本質でしょうから」
ウロマはふと、にやりと笑った。
「僕はその夜のあなたの気持ちがよくわかります。人一倍自己愛が強く、自分大好き、自分の人生を最高に謳歌していた安芸山さんにとって、不慮の事故とはいえ、人を車ではねてしまうことなど、断じてあってはならないことだったはずです。それはあなたの人生にとってとんでもない汚点になります。猫をはねたとはわけが違うのです。人を一人、おそらくは殺してしまったというのですから。あなたは事故の直後、とてもショックを受けたことでしょう。そして、これから起こり得る自分の人生の転落に、どこまでも絶望したことでしょう。あなたの周りの、あなたの崇拝者たちの評価は一変し、あなたが過去に出演したテレビ番組の動画は、そのまま犯罪者の過去の記録となってしまいます。社会的に成功している、知名度の高い人物の犯罪ほど、センセーショナルで刺激的なものはありません。あなたの犯罪は、大いに世間を騒がせるでしょう。あなたは一躍、時の人となってしまいます。そして、あなたはそんな自分の未来を想像し、実に耐えがたい気持ちだったでしょう。こんなこと、あってはならないと強く思ったはずです」
「な、なんで、そこまで、俺の考えがわかる……」
隆一は苦渋で顔をゆがめた。
「だから、そこであなたは、こう思ったのです。全てをなかったことにしよう、全てを忘れよう、と……。そして、実際に忘れることに成功しました。これを、解離性健忘と言います。何かとてつもない、強い精神的ストレスを受けたとき、その記憶を忘れてしまうことです」
「記憶喪失……だったのか、俺は……」
「ええ。ですが、単に今日まで事故の記憶が少し飛んでいただけのこと。僕は医者ではないのであなたの精神鑑定はできませんが、それでも、事故の日に、あなたに責任能力があったことは断言できるでしょう。そう、あなたはそのとき、ちゃんと自分のしたことの意味と、これから起こり得る未来を想像することができたのです。確かな理性、判断能力はあったのです。だから、解離性健忘に陥ってしまったのです。つまり、今日まで解離性健忘であったということが、事故当時のあなたに責任能力があったという証明になるのです」
容赦なく追い討ちをかけるウロマだった。さすがに耐えられなくなってきたのだろう、隆一の体がぷるぷると震え始めた。
「し、知ったふうな口を叩きやがって! 俺が解離性健忘とやらだったというのなら、なんで猫をはねた記憶が残っていたんだよ! 健忘って言うんだから、すっかり忘れちまうことだろうがよ! 俺の場合だと、ただの記憶すり替えじゃねえか!」
「安芸山さん、僕は前に言いましたよね? 急にできた大きな情報の空白に、人間の脳は時としてバグを発生させてしまうのではないか、と」
「バグ?」
「そう。あなたの記憶のそのようなあり方は、おそらくはシャルル・ボネ症候群や幻肢痛の人たちが体験する幻覚と同じようなものでしょう。急に記憶の中に大きな空白ができたのです。脳がびっくりして、あわてて過去の体験をもとに記憶の空白を補正したとしても、なんら不思議はないでしょう? 幸い、あなたの中には、子供のころに自転車で猫を轢いたという古い記憶があったわけですし」
「ふざけるな! そんなのお前の妄想だろうが!」
「そうですね。あなたの脳内で起こったことを僕が何か証明することはできません。あくまで脳内妄想です」
くすりとウロマは楽しげに笑う。
「じゃ、じゃあ! 俺の左目の中の黒猫の影はなんだったんだよ! 今のお前の屁理屈は俺の記憶のことだけで、黒猫の影のことはまったく説明できてねえじゃねえか!」
「そりゃあもちろん、プルートーが鳴いたんですよ」
「プルートー?」
「ああ、そういえば、安芸山さんには、ポーの『黒猫』のストーリーを最後までお話していませんでしたね。簡単に言えば、続きはこんな感じです。新しく飼い始めた黒猫に、かつて自分が殺した黒猫、プルートーの面影を見出した主人公は、やがて不安に耐えられなくなり、二匹目の黒猫も殺そうとします。ですが、手違いで、それを止めに入ってきた妻を殺してしまいました。さあ、大変。男は自分の殺人を隠匿するために、あわててその死体を地下室の壁に塗りこめます。DIYです。やがて、妻が消えたことを不審に思った警察が家に乗り込んできますが、彼らは地下室の壁の異変には気づきません。やったね、殺人隠蔽大成功!と、男は心の中でガッツポーズし、余裕ぶって壁を叩くのですが、そこで突然、聞こえてくるのですよ。地下室の壁の中から、猫の不気味な鳴き声が、ね……」
と、ウロマは口を横に引き伸ばして気味の悪い笑みを浮かべ、さらに両手を少し上げて手首を曲げ、化け猫のようなポーズをした。怪談でも語ってるつもりだろうか。
「すぐに警察は猫の鳴き声が聞こえてくる壁を掘り、中から妻の死体を発見します。さらに、その頭の上には片目を煌々と光らせている黒猫の姿がありました。そう、男はかつて自分が殺したこの獣の怨念によって、殺人を犯し、さらにその罪を暴かれてしまうのでした……めでたし、めでたし」
ぱちぱちぱち。なんだか知らんが、いい話のように拍手をする男であった。
「この小説の、一番僕が好きなところは、酒びたりの主人公の一人称で書かれているところです。客観性なんてどこにもありません。どこまでが本当のことで、どこからが男の妄想なのか。本当に黒猫は存在したのか。過度のアルコールからの離脱症状は実に簡単に人に幻影を見せます。幻聴だって聞いたかもしれません。もし、黒猫に関するあらゆる描写が幻覚でしかなかったとしたら……。なかなか楽しい考察です」
ウロマは再びにやりと笑った。
「そして、それらの一切が幻覚だったとしたら、それはまさに、安芸山さんの左目の影とまったく同じものだったと言えるでしょう。そう、まさに男にとって、黒猫の幻影とは、彼自身の良心そのものでした。それが彼の罪悪をどこまでも責めつづけたのです。あなたの左目の黒猫の影も同じです、安芸山さん。あなたの中の、無意識という壁の中に塗りこめられた良心が黒猫の影となって表れ、あなたの罪悪を責めつづけた。それが、あなたの左目の
「りょ、良心……俺の……」
隆一は一瞬何か反駁の言葉を探したようだったが、もはやそれ以上何も口から出てこなかった。苦しそうに目をぎゅっと瞑ると、力なくうなだれた。
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