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「わ、私があのとき、家を飛び出さなきゃ……」


 病院のソファの上で、灯美は縮こまり、震えた。そこは事故現場のすぐ近くにある市民病院の、救急外来処置室の前の廊下だった。灯美の母は事故の後、ただちに救急車でここに運ばれてきたのだった。今は扉の向こう、処置室の中で緊急の治療を受けているはずだ。


「なんで、あいつ、私を助けたのよ……。これじゃ、まるで私の身代わりじゃない……」


 不安で頭が割れそうだった。このまま死んでしまったらどうしよう。冷たい汗が手のひらににじんだ。


 と、そんなとき、


「やあ、灯美さんじゃないですか。どうしたんですか、そんな、この世の終わりのような顔をして?」


 廊下の向こうから、一人の男が近づいてきた。やせぎすで長身で猫背の、白衣姿の不健康そうな顔立ちの男、ウロマだ。


「あんた……なんでここに?」


 さすがに不意打ちのエンカウントすぎて、灯美はぎょっとした。


「なーに。ただの偶然ですよ。ついさっき、ちょうどこの病院の前を通っていたら、出入り口のところに救急車が止まっているのが見えたのでね。それで、なんとなく気になって、首を伸ばして様子を伺ってみたら、救急車の中から灯美さんが出てくるじゃあないですか。いかにもただごとじゃないって空気で。そりゃあ、ますますどういう事情なのか、気になるってものですよねえ?」

「それで、あんたもどさくさに入ってきたわけ?」

「はい。この格好のおかげで、ほぼフリーパスでここまで来れましたよ」


 ウロマは白衣の襟をつまんでひらひらと動かした。確かに、その格好なら、いかにも病院関係者という感じだ。顔色が悪いのもなんとなくそれっぽいし。


「で、灯美さんはいったい誰の付き添いでここに来たんですか?」

「実は――」


 どうせ黙っていても、鬱陶しく詮索されるだけだ。灯美は正直に、事情を話した。


「ほほう。それはまた、お気の毒な話ですね。灯美さんのせいで、お母さんはバイクに轢かれたんですから。灯美さんのせいで」

「わ、わかってるわよ! いちいち繰り返さないでよ!」


 相変わらず隙あらば人を煽る男だ。灯美は声を荒げずにはいられなかった。


「しかし、おかしなものですね。灯美さんは、以前、僕のところに来たときは、お母さんのことをとても悪く言っていたじゃないですか。それなのに、どうしてそんな心配そうな顔をしているのでしょう? 嫌いな人が、自分の身代わりにバイクにひかれたのなら、それはむしろ、ラッキーなことでは――」

「ラッキーなわけないでしょ! バカなこと言わないで!」


 人の神経を逆なですることしか言えない縛りでもあるのか、この男は。


「嫌いな人だろうと、私のせいでそうなったのよ! 責任を感じるものでしょ!」

「そうですねえ。普通は、良心の呵責とか罪悪感もセットできますね。大いに心苦しくなるというものですよねえ」


 ウロマの口調はねっとりしていて、いかにもほかに何か言いたいことがあるふうだった。その瞳は相変わらず濁りきっていたが、なんだか心を全て見透かされているようにすら感じられた。灯美は次第に息苦しくなってきた。


「そもそもなぜ、お母さんが家を出て行くという話になって、あなたは素直に喜ばなかったのでしょう? あなたの行動はまるで、お母さんに出て行って欲しくなかったとしか――」

「ええ、そうよ! あんたの思っている通りよ! 全部! なにもかも!」


 ついに耐えられなくなり、灯美は声高に叫んだ。瞬間、心の中で何かがはじけたようだった。


「だって、あれだけ私にやさしくしておいて、今さら急に家を出て行くなんて、ひどいじゃない! あんまりじゃない! お母さんがいなくなっちゃったら、私、一人になっちゃう! そんなの……絶対やだもん!」


 言いながら、涙が目からあふれてきた。熱い涙だった。


「では、灯美さんはお母さんを引き止めるために、また自殺の真似事を?」

「そうよ……。ただ、一緒にいて欲しかったの。もうどこにも行ってほしくなかったの」


 そうだ。どうして今まで気づこうとしなかったのだろう、自分の本当の気持ちに。なにもかも、前に、目の前の男に言われたとおりだった。自分はただ、あの人に、新しい母に、構って欲しかったのだ。やさしくされたかったのだ。


 けれど、素直になれなかった。自分にとって母と呼べるのは、二年前に他界した実母だけだという思い込みにとらわれていた。どんなにやさしくされても、心を開いてはいけないと思っていた。子供だった。だから、自殺の真似事なんて、馬鹿な真似をしてしまったのだ。


「どうしよう……。私、もうお母さんに死んで欲しくない……」


 涙をぽろぽろ流しながら、灯美はうつむいた。実母との別れは突然だった。だからこそ、もう二度と母を失いたくはなかった。

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