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そうよ、今度こそちゃんと、あいつをおどかしてやればいいんだわ。
カッターナイフを目の前に掲げ、キリキリと音を出しながら刃の具合を確かめると、彼女はすぐにそれを携えたまま、部屋を出た。向かったのは風呂場だった。母は今は台所のほうにいるらしく、そこにはいなかった。灯美は浴室の照明のスイッチを入れると、バスタブに水を張った。
あいつがここに来たら、これで手首を――。
灯美は浴槽のそばにしゃがみ、左手を水の中に浸しながら、にやりと笑った。もちろん、本気で手首を切るつもりなどない。そもそも使うのは文房具のカッターだ。致命傷になるような、深い傷なんてできるわけがない。それでもきっと、あの女は、自分が浴室で手首を切っている様子を見て、腰を抜かすに違いない。そうなったら、ざまあみろだ。これでもう、家を出て行くなんて言わなくなるだろう……。
だが、そんな母の顔を想像した直後だった。彼女は自分の左手の肌の色が灰色に変わっていることに気づいた。
「な、なんで――」
ぎょっとした。色が変わっているのは左手だけではなかった。右手の肌もすでに灰色になっていた。足もそうだった。恐る恐る浴室の鏡を覗き込むと、そこには不気味な灰色の顔の少女が映っていた……。
「うそ……。こんなの――」
彼女は手からカッターを落とし、愕然とするほかなかった。もうすっかり治ったと思っていたのに。
「き、きっと、薬の効果が切れただけよ」
そうだ。今日に限って、たまたまあの薬の効果が弱かっただけだ。また飲めばすぐ治るに違いない。まだたっぷり残っているんだから。彼女はただちに部屋に戻り、学習机の上に置きっぱなしだった薬の瓶を取って中身を口に流し込んだ。そう、何十粒と、一気に。
だが、どんなに薬を飲み込んでも、肌の色は元に戻らなかった。
「どうして……」
最初に飲んだときはすぐに効いたのに。意味がわからなかった。薬の効き目が急に変わるなんてこと、ありえるのだろうか。何もしていないのに……いや、そういえば確か、あのとき?
と、そこで彼女ははっと思い出した。この薬をもらうときに、ウロマとかわした約束を。
そう、彼は確かに彼女に言っていた。もう二度と、自殺の真似事なんてしないように、と。それさえ守れば、薬の効果は持続する、と。
「まさか、薬が効かなくなったのは、あの約束を破ったせいだっていうの?」
信じられない気持ちだったが、そうとしか考えられなかった。ショックで頭がくらくらした。そんなつもりじゃなかったのに。ただちょっと、あいつを脅かしてやろうとしただけなのに……。
「そ、そうだわ! もう一度、あそこに行って、新しい薬をもらえばいいのよ!」
もはや藁にもすがる思いだった。そのままふらふらと部屋を出た。
と、そこでばったり母に出くわした。夕食ができたのだろう、ちょうど灯美を部屋に呼びに来たところのようだった。毎回断られているのに、彼女は必ず灯美のぶんの夕食を作っているのだった。
「灯美、その体――」
母もすぐに灯美の異変に気づき、顔を真っ青にした。
「ど、どうしたの? 何かあったの?」
「うるさいわね! ほっといてよ!」
灯美はかっとなり、叫んだ。今の姿を、一番見られたくない相手だった。
「灯美、すぐに病院に行きましょう。今の時間ならまだやってるから――」
「いいって言ってるでしょ! もう私に近づかないで! 話しかけないで! 私がこうなったのも、全部あんたのせいなんだからっ!」
灯美はそう怒鳴り散らすと、近づいてくる母を振り払い、そのまま家の外に飛び出した。早くウロマのところに行かなくては。時刻は午後六時半。夕暮れの光でいっぱいの町を、彼女は靴も履かずに走った。
「灯美! 待ちなさい!」
そして、母もまた家を飛び出し、そんな彼女を追いかけた。こちらも靴も履かずに。
「ついてこないでよ!」
「だめよ! そんな体でどこに行くの! 待ちなさい!」
灯美は全力で走るが、母も必死なのだろう、なかなか撒けなかった。どうして、そんなにまでして追いかけてくるんだろう。もう自分を捨てて家を出て行くと決めたはずなのに。灯美はわけがわからなくなって、走りながらひたすら苛立つばかりだった。
「私のことはもういいって言ってるでしょ!」
やがて、彼女は道のど真ん中で立ち止まり、背後の母に向かって叫んだ。
「あ、あんたなんか、いなくても、私はうまくやっていけるんだから――」
「灯美、危ない!」
「え……」
と、灯美が母の視線の先を見ると、ちょうど一台のバイクがこっちに突っ込んでくるところだった!
「きゃあっ!」
「灯美!」
轢かれる! そう思った――が、直後、灯美の体は横から突進してきた何かにぶつかり、歩道のほうに突き飛ばされた。
「な、なに……」
バイクのブレーキ音が響く中で、灯美は上体を起こし、目を開いた。すると、すぐ目の前の路面の上に、バイクに轢かれたらしい母の、ぐったりと地面に横たわる姿があった。
「うそ――」
なんてことだろう。頭が真っ白になった。
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