神は独り

雪原藻塩

アルファはオメガに辿り着かない

 神は人間の夫婦アダムとイヴを創造し、楽園に住まわせた。しかし、天使ルシフェルは夫婦を欺いて禁忌を犯させ、二人は楽園を追放されてしまう。ルシフェルもまた、天界を逐われる。

 それから二千年が経ち、神は一人息子を地上に送った。息子に人間の罪を背負わせて死なせることで、息子を信じれば以前の罪は全て清算され、救い、死後の天国での生活が約束されるのである。

 やがて時が来れば、全ての人間が神とその息子を信じるかどうかの決断が迫られると信じられている。


 *


 九天の第一、至高天。いと高き方の住まう、世界の最上点。

 その中心に据えられた玉座の前に、今、一人の天使がひざまずいていた。天使の頭上から、さながら遠雷のように、周囲を震わせながら声が響く。


——何だ。


 天使は足元の揺らめく影から目を逸らし、恐る恐る首を擡げた。

 途端に光が目を灼いた。痛みさえ伴う強い栄光——いと高き方の臨在りんざいの証である。ようやく光に慣れた頃、天使はその姿を目にすることができた。雲を突く玉座に体を持て余し、純白に照り輝く衣を纏い、頭には虹をいただいて、眼下の世界に慈悲の視線を垂れるお方——見る者に畏怖いふ法悦ほうえつを呼び覚まさずにはいられない偉容いようは、誰あろう、大御神おおみかみその人であった。

 震えを辛うじて抑えながら、天使は絞り出すように言った。


——至高の御方、天地の創造主、我らの偉大な父。

——どうか私の願いをお聞き下さいますよう。

——聞こう。

——四千年前にあなた様は炎から私を作り出されました。それは、あなた様の天地創造の偉業を褒め称える口、人間にあなた様の意志を届ける足、また背信者たちを撃つ拳となるためでした。及ばずながら、全霊を懸けて今日までその務めを果たしてきました。しかし……。

——続けよ。


 言い淀んだ天使に、じれったそうに声が降り注いだ。天使は体をぶるりと大きく振るって深く息を継ぎ、続けて言った。


——しかしながら、その務めを全うできないことをお許し下さい。

——……我らが戒めを解けば、お前はどこへ行く。

——暁の明星、ルシフェルの下に向かおうと考えております。


 声は暫くの間、沈黙した。再び声が語り出したのは、沈黙に耐えられなくなった天使が翼をはためかせて逃げることを考え始めた頃だった。


——許す。

——ありがたき御憐れみに、深く、深く感謝いたします。


 天使は顔を伏せて、体を痺れさせ始めた安心を感じながら、だが同時に胸を侵し始めた不可解な苦味に戸惑ってもいた。一体なぜ自分は裏切られたように感じているのだろう?開闢かいびゃく以来いかなる約束も破らなかったお方、自分の恩知らずな願いを情け深くも叶えてくれたこのお方に?

 しかし悩む天使に構わず、声は言った。


——ね。


 天使は立ち上がって深々と腰を折ってから、玉座の前を辞した。

 地上目掛けて飛びながら、天使の頭に過ったのは、四千年前、最初にこの空を飛んだルシフェルもまた同じように感じていたのだろうかということだった。


 *


 神は最後の天使が天界を後にするのを眺めながら、ずっとある一つの疑問に苦しめられていた——どうしてこうなってしまったんだ。全てを見通す眼を持ち、天界から叩き落とされた時のルシフェルの心中も、今地上に向かった天使の胸中も分かっていながら、そのたった一つのことが神には分からなかった。


 神は気怠げに天界を見渡したが、そこには誰の気配もない。

 天界は空っぽだった。

 天使たちは皆、天界を去って地上に降りてしまっていた。最後の審判の前に早めに天界に呼び寄せていた人間たちもいつの間にか消えていた。天使たちと共に地上に降りて今頃はルシフェルの下にいるのかもしれないし、もしかすると墓に戻ってまた眠りに就いたのかもしれなかった。

 ごまかしようのない孤独をひしひしと感じながら、しかし、神はそのことに困惑せずにはいられない。神は無謬むびゅうであり絶対であるのだから、全ては自分の意図が完璧に実現された結果に違いないのだ。

 だがこれを——この誰もいない天界を——本当に自分は望んでいたのだろうか?


 ひとつ天界の梯子を下りると、そこには黄金の都が広がっていた。神に立ち返った人々が最後の審判の後で暮らす場所、天国だ。アダムとイヴがエデンを追放され、ルシフェルとその信奉者たちが堕落した騒動が一段落した辺りに、天使たちと計画し拵えたものだ。金箔が街並みを覆い、真珠や翡翠ひすいを敷石代りにばらまき、生命の木が水路のせせらぎに合わせて葉をざわつかせ、それらが中心部に置かれた小さな太陽に煌めく壮麗なパノラマは、天使たちも人間たちも口を揃えて誉めそやしたものだが、彼らが去ってしまった今では却って虚しい。


 やがてこの天国が人で溢れる時が来るだろうか?おそらく一千年の間はないだろう、と全てあたわす神は瞬時に計算を済ませて自答する。

 天国は最後の審判が行われた後に開放されることになっている。最後の審判では人間が神を信じているかどうかで天国か地獄のどちらかに行くか決めるもので、息子が人間たちに二千年前に約束したその期日は、全ての人に息子イエス・キリストの十字架の贖罪しょくざいが伝えられた時だった。最後の審判では全人類を一斉に裁かなければならないから、確かに妥当な判断だったと思う。そもそも神について知らなければ、信じることも信じないこともできない。


 しかし、まさか二千年も経ってなお達成されそうにないとは思っていなかった。ここ百年でますますその実現性が薄くなる中、インターネットへのアクセスを以って、神を信じるかどうかの決断を済ませたことにすればどうかという意見も出たくらいだ。検索フォームに数文字タイプすれば情報が手に入るのにそれをしないなら、それは彼らの神を信じないという決断の現れだ、という理由らしい。絶望的な予測に気力を削がれた天使たちが賛成しかけたものの、最終的には不幸にも理性を保っていた天使たちによって否決されてしまったが。

 今では彼らのどちらももういない。


 無人の天国に立って、神は独り涙を零す。けれども、雫は顎を滴り落ちる前に蒸発してしまう。神を内側から神々しく輝かせる光は涙を許さないのだった。

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神は独り 雪原藻塩 @YukiharaMoshio

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