尾八原ジュージ

「お邪魔しまぁす。玲ちゃん、元気だった?」

 私に挨拶した翠の顔は笑っていたけれど、いかにも心配事を隠しているという感じがした。

 きっと彼女は野次馬根性でなく、あくまで私のことが気がかりだから会いに来てくれたのだろう。彼女も彼女の家族も、皆「善良」という言葉がこの上なく似合うような人たちだ。

 私はわざとらしいくらい明るい声を上げて、彼女の訪問を喜んだ。

「ひさしぶり。ゆっくりしてってね」

 翠をリビングに通すと、私はティーセットと彼女が持ってきてくれたケーキをテーブルに運んだ。

 私の実家は古い木造家屋で、おまけに母が亡くなってからの数年はほったらかしになっていたから、どんなに片付けてもモデルルームのようにきれいとは言い難い。とはいえ目につくところはそこそこ片付いているし、テーブルには一輪挿しが飾られている。茶葉は来客用の特別香りのいいアールグレイで、ティーセットにも欠けているものはない。

 おそらく想像していたよりもずっと余裕のある私の様子を見て、翠はいくらか安心したようだった。少し非難を込めた声で「戻ってきたなら、教えてくれればよかったのに」と言った。

「ごめんごめん。バタバタしててさ」

「まぁいいけど、びっくりしちゃった。私、昨日旦那の長期出張に合わせて、子供たちと帰省してきたのね。そしたら母さんが急に『玲ちゃん、東京から戻ってきたのよ』なんて言うから」

「そんなにびっくりした?」

「だって私、玲ちゃんは地元に戻ってくるようなタイプじゃないと思ってたから……その、お父さんの介護のために戻ってきたんだよね? お父さんは?」

 翠の目にふと、落ち着きのない影が宿った。

 お互い三十半ばになっても、私の父の話をするのはあまり楽しいものではない。特に暖かく平和な家庭で育った彼女にとって、父は理解不能の怪物のような存在に見えていたのではないか。自分に非のないことで怒鳴られたり叩かれたりすることも、寒い冬の夜に裸足で表に追い出されることも、翠の家庭では起こらなかったに違いない。だからこそ彼女は、幼馴染の私を気にかけるとともに、父のことを怖れてもいるのだろう。

 私は努めて笑顔を見せた。

「父は奥の六畳間で寝てるの。もう全然動けないから、挨拶できなくて悪いんだけど」

「あっ、ううん。そんなこと全然いいの。脳卒中だって聞いたけど……?」

「そうそう。もう全身が麻痺でほとんど動かなくって、声も上手く出せないの。コミュニケーションなんかあてずっぽうよ」

「そうなの。大変でしょうねぇ」

「うーん、まぁそこそこね。でも本人は大人しいし、ヘルパーさんも来てくれるから何とかなってる。こう言ったらよくないかもしれないけど、よそのもっと大変なところよりはずーっとマシだよ」

 翠は「玲ちゃんがそう言うなら、ちょっと安心かな」と呟いて紅茶を一口飲み、ふとテーブルの上の灰皿に目を留めた。

「玲ちゃん、煙草吸うんだ」

「ああ、一人のときにちょっとだけね」

 私がエプロンのポケットから煙草を出して見せると、彼女はなぜか感心したように「へぇー」と言った。

「玲ちゃん真面目だったから、意外だな」

「そう? 翠なんか、ずっと子供苦手って言ってたくせに、もう二児の母じゃない」

 私が煙草をしまいながらそう言うと、翠も「それもそっか」と応えて笑った。

「玲ちゃんも私も、皆変わるわけだ」

「そりゃそうよ」

 私たちはしばらく、互いの近況や共通の友人について話し合った。出産時に育休をとるか辞めるか悩んだという話をした後で翠は、

「ねぇ玲ちゃん、東京で働いてたんでしょ? こっちで再就職したの?」

 と私に尋ねてきた。

「ううん。運よくパソコンがあればどこでもできる仕事だからね。今は家でやってる」

 高校卒業後に上京し、たまたま雑用係として働き始めたデザイン事務所がやけに親切なところで、雑用だけでなく実務も丁寧に教えてもらった。それを足掛かりに、今ではなんとかグラフィックデザイナーを名乗れるくらいの仕事ができている。もしもこの生業がなくて会社勤めをしていたら、父のことなど知らんぷりして今でも東京に住んでいたかもしれない、と思うことがある。

 あの日、身動きできなくなった父を引き取ってほしいという連絡をもらったあのときに、私の胸の中で改めて燃え上がった焔があった。もしも東京で暮らし続けていたら、この焔はどうなっていただろう。いずれにせよ私は父と共に実家で暮らすことを選び、そして焔は数か月経った今でも絶えず、身中を焦がすような勢いで燃え続けている。

「玲ちゃん?」

 翠の声に、私は我に返った。つい物思いにふけってしまっていたようだ。

「ごめんごめん、何でもない」

「ならいいけど……大変だったら声かけてねって、お母さんが言ってたから。近所だし、手伝えることなら何でもするからって。介護ってただでさえ大変なのに……」

 そう言ってから、翠ははっとしたように口をつぐんだ。もしも彼女が口さがない人だったなら、きっと「よくあんなお父さんの介護なんかできるわね」などと続けたに違いなかった。


 確かに父は、他人にそう言われても仕方のない人だった。

 日頃の暴言と暴力。挙げ句の果てに炎天下の夏の日、乗用車の中に幼い弟を置き去りにして賭け事に熱中し、死なせてしまったのは父なのだから。

 弟の件でとうとう両親は離婚することになり、父はこの町から去っていった。母も亡くなり、自らも老いた今頃になって再びここに舞い戻る羽目になるとは、本人すら思いもよらなかったことだろう。

 一方で私は、母とふたりきりの生活を送っているときにも、父のことを考えない日はなかった。弟が死んでいった真夏の密閉された車中を、経験していないはずの灼熱地獄を何度も夢に見ては、汗をびっしょりかきながら飛び起きた。

 まだ子供だったあの頃からずっと、私の中には消えない焔が灯り続けている。


「――確かに父はあんまりいいお父さんじゃなかったし、弟のこともあったけど」

 自らそう話し始めた私を、翠はギョッとしたような顔で見つめた。

 私は構わず続けた。彼女や他の誰かに本当のことを――私の心中を知られるわけには、まだいかないのだ。

「でも、血縁はもう私しかいないんだって言われてね。本人も全然体が動かなくなって、すっかり気が弱くなっちゃって……なんかそうなった父を見てたら、昔のことがすごく遠いことみたいに思えてきたの」

「……そう」

「うん。それに、この家にこうして父と戻ってくることになって、家族がもう一度あるべき形に戻ったって感じがするんだよね。だから大丈夫」

 全然平気だよ、と言って微笑むと、翠の顔にようやく本格的な安堵の表情が浮かんだ。


「――じゃあね玲ちゃん、元気そうでよかった」

 玄関で靴を履きながら、翠は私に微笑みかけた。

「でも、本当に大変だったら連絡してよ? 玲ちゃん、遠慮しいだから」

「わかったわかった。ありがとね。おばさんにもよろしく伝えといて」

「うん」

 すこしためらってから、翠は「お父さんにもよろしくね」と言った。私は微笑んでそれに応えた。

 翠が帰ってしまうと、私は奥の六畳間に向かった。

 心にもないことをたくさんしゃべってしまった。もやもやする気持ちに応えるように、私の中の焔が激しく揺れていた。

 六畳間の襖を開けると、ベッドに寝ている父が心持ち顔を動かしたように見えた。げっそりと痩せた顔に、目だけが濡れて光っている。

 私の姿を見て落ち着きなく瞬きする様を見ながら、私はポケットから煙草を取り出し、火を点けた。父の枕元の椅子に腰かけ、左手で瞼を押さえて開かせながら、右手の小さな火を睫毛のぎりぎりまで近づける。

 麻痺のためにうまく表情が浮かばないはずの父の顔に、明確な恐怖が刻まれる。

「熱い?」

 私は尋ねた。父の喉の奥から言葉にならない声が漏れた。

「大丈夫大丈夫、ほんとに焼いたりしないから。ヘルパーさんにばれるもんねぇ」

 体の奥から笑いがこみ上げてくる。私は煙草を口につけ、紫煙を噴き出しながら声をたてて笑った。そう、今はまだ焼かない。私の焔は、そう簡単に燃え尽きてくれるようなものではない。

「いつかこの家が火事になったらどうしようかぁ」

 笑いながら私は問いかけた。

「私はひとりで逃げるけど、父さんは逃げられないよねぇ。よっぽど辛いだろうねぇ、火の中で死ぬのって」

 高笑いを上げる私を見つめる父の目にふと、私の焔と同じものが灯ったような気がした。私はそれを、もう少しも怖いとは思わなかった。

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