モミの木
増田朋美
モミの木
モミの木
ある日、杉ちゃんと蘭はいつも通り夕食の材料を買いにショッピングモールへ出かけた。いつも通り夕食の材料を買って、さあ帰ろうと出口へ向かったところ、出口付近に花屋があって、ちょうど売り出しのようなものをやっていた。ショッピングモールの中にある花屋だから、さほど大規模な花屋さんではないけれど、若い女性たちが、花を買っていくのが見えた。
「なんだろう。今日は花を買っていくやつが多いのかな。」
杉ちゃんは、それを眺めながらそういった。
「何か行事でもあったかな?」
「ああ、もうすぐクリスマスだからね。だから花を買っていく人が多いんじゃないの?」
杉ちゃんの問いかけに蘭は答えた。
「そういえばそうだったねえ。僕たちにはクリスマスなんて縁もゆかりもないけれど、確かに、こういうときに、花屋さんはかきいれどきだよな。」
と、杉ちゃんは言った。
「あんまりクリスマスというと、実感ないな。」
そういう杉ちゃんに蘭はまあそうだねとだけ言っておいた。その日は、そのようなことがあっただけで、杉ちゃんも蘭もあまり気に留めなかったのであるが。
次の日は雨であった。ザーザーぶりというわけではないけれど、寒くて冷たい雨だった。こんな日は普通のひとであっても憂鬱になるだろう。其れでも、外仕事の人は外で仕事をし、中で働く人は中で仕事をするのである。
杉ちゃんも蘭も気にも留めなかったが、もうすぐクリスマスイブであった。雨が降っているけれど、クリスマスイブであった。町中にはクリスマスツリーが大量に並んでいる。其れは、毎年の事だから、いつもと変わらないことである。
その日、蘭のもとに、刺青の施術希望者が来ていて、30歳くらいの若い女性であった。背中に青あざがあるので、それを刺青で消してほしいという依頼である。コンプレックスになっている、痣や傷跡などを刺青で消してくれという女性は多い。さすがに顔には施術することはできないが、服などで隠せるところであれば、蘭はそれに応じてやることにしている。そうすることによって、彼女たちが、変わってくれるというか、生き生きとしてくれるのが、とてもうれしいからだ。
「えーと、上田香澄さんですね。何を入れるとか、ご希望はございますか?たとえば、青龍とか、白虎とか、そういうものでしょうか?」
蘭は、上田香澄さんというお客さんに聞いた。
「それが、私、日本の伝統的なものには、まったく知識がないのです。花の名前なんかもわからないものばかりで。ただ、背中の痣を気持ち悪いと言われることが多いので、消してもらいたいという気持ちで来ました。」
「そうですか。わかりました。でも、刺青というものは、彫ったら消すことはできませんから、簡単に選んでいただいたら困ります。ちゃんと話し合って決めましょう。其れに僕は機械彫りはできません。なので、ほかの刺青師さんより彫るのに時間がかかります。」
蘭は香澄さんに言った。
「では、背中に入れるとしたら、何が一番いい柄でしょうか?」
「そうですね、女性の方でしたら、花とかそういうものが良いのではないかと思いますけどね。」
とりあえず、一般的な傾向を蘭は話した。
「花ですか。其れなら、木はダメですか?ほら、もうすぐクリスマスですし、私、クリスマスが大好きだから、クリスマスにまつわるものを背中に入れてください。」
香澄さんはにこやかに言った。
「そうですねえ。でもクリスマスはその時だけだし、刺青は一生残るものですので、特定の季節にしかないものを入れるのはなるべく避けた方が良いのではないでしょうか?」
蘭は、急いでそういうと、
「いえ、そんなことありません。モミの木を入れてください。」
と、香澄さんは言った。
「モミの木ですか。日本の松の木とはまた違ったものがありますね。西洋彫りはやったことないので、もしかしたら、ご満足頂けないかもしれないけれど、了解しましたよ。」
その言い方が、大変きっぱりした言い方だったので、蘭は、それならと思い、モミの木を入れることにした。其れにしても、これまで以上の無謀な挑戦である。松は入れたことがよくあるが、モミの木というものはなかなか入れた例がない。
「じゃあ、まず初めに、下絵を描いて、其れから実際に体に入れていきますね。じゃあ、下絵ができましたら連絡しますので、しばらくお待ちくださいませ。」
「ありがとうございます。クリスマスまでに間に合わせたいので、よろしくお願いします。」
これはまた、非常に忙しい注文であった。そうなると、一日で下絵を描いてしまわなければならない。
でも、そうしなければならないなと思った蘭は、それを引き受けることにした。
「明日、この時間にもう一度来ていただけますか?その時、モミの木の下絵をお見せしますから。」
「はい。よろしくお願いします。じゃあ、同じ時間に来ますから。」
それまでに雨がやんでほしいと心から思う蘭だった。もし、やんでくれたら、公園にモミの木を写生に行けるかもしれない。
ところが、雨はさらに激しく降って、とても写生に行けるような天気ではなくなってしまった。夏によくある避難指示が出るような雨ではないのであるが、冷たい霧雨で、まず傘なしでは濡れてしまうような雨である。
「あーあ、これではバラ公園のモミの木は、写生できないか、、、。」
と、蘭は、窓から外を眺めながら、はあとつぶやいた。すると、インターフォンが五回音を立ててなった。
「おーい蘭。出かけようぜ。仕事は、一時までだろう?もうとっくに、一時は過ぎているって、ラジオの時計が言ってたからさあ。其れで迎えに来たよ。」
デカい声でそういっているのは、杉ちゃんであった。本当に、晴れでも雨でも、いつでもやってくるのが、杉ちゃんである。蘭は、いやいやながら、インターフォンの受話器をとった。
「出かけるって、どこに出かけるんだよ。」
いやいやながらそういうと、
「だから買い物に決まってるじゃないか。いつも蘭の仕事が終わったら、買い物に行くのは当たり前じゃないか。」
と、杉ちゃんは明るい声で、そういう事を言った。
「そうだけど、今日は、大事な仕事があって、買い物には出られない。悪いが明日にしてくれないか。今日は一寸、いけないや。ごめんね。」
と、蘭がそういうと、
「大事な仕事ってなんだ?」
と、杉ちゃんが聞いてくるのである。
「大事な仕事はしごとだよ。僕が何をやってるかなんて、杉ちゃんよく知ってるはずだろ?」
と、蘭はいつもの調子で言ったのであるが、杉ちゃんがいい加減な回答では決して容赦しないことを忘れていた。
「大事な仕事ってなんだよ。そりゃ、蘭が何をやってるかは、知っているさ。でも、どんな仕事なのか、は、僕は知らない。だから、教えてくれよ。買い物を断るほどの大事な仕事。」
蘭は、そんな話を杉ちゃんにされて、なんだかムカッと来てしまった。なんでそういうことを言ってしまったんだろうと今では思うけど、この時は、モミの木の写生にいけないことで頭がいっぱいだったせいか、杉ちゃんの問いかけにキチンと答えることができなかったのである。
「なあ、大事な仕事ってなんだ?」
もう一度杉ちゃんがそういうことを聞くと、
「うるさいなあ!もうしつこく聞かないでくれよ。とにかく今日は買い物はダメだ。今日は大事な仕事があるから!」
と、蘭は声を荒げて、乱暴にインターフォンをきってしまった。そのあと杉ちゃんがどうなったかなんて、何も知らない。後は、とにかく公園に写生に行くことはできないので、モミの木の画像をひっきりなしにインターネットの画面で探していた。
「えーと、モミの木、モミの木、、、。」
とにかく無我夢中で探しまくる。できる限り拡大画像がいい。それを、パソコンで印刷してできるだけ手本になるようにする。其れを蘭はひたすらに繰り返していた。
一方そのころ静鉄所では。
相変わらず水穂さんは布団の中にいて、せき込んでいるのだった。その日は由紀子が水穂さんの世話を引き受けていたが、彼女も心配してしまうほど、水穂さんはよくせき込んでしまうのであった。しまいには、口元から、赤い液体が漏れ出してしまう。其れを見ると、由紀子は超スピードで水穂さんの口にタオルを当てがってやらなければならない。それでも成功するのはまれである。大体は、着物の上とか、布団の上に落としてしまう。そんなわけで、水穂さんの布団は、介護用の撥水シーツが手放せないものになってしまった。ほかの利用者であったら、水穂さんもっと体力をつけるとか、してください、とかそういう文句を言うのだろうが、由紀子は、文句などを言わず、水穂さんの世話を続けた。
由紀子が汚れてしまった、水穂さんの口元を濡れタオルで拭いてやったりしてやっていると、玄関のインターフォンのない引き戸がガラガラっと開いた。そして、
「おーい。いるかーい。みんな元気かーい。」
という間延びした声が、聞こえてくる。誰かとおもったら、杉ちゃんの声だった。本当はこの時、帝大さんか、影浦先生のような人物がいてくれたら、適切な処置をしてやれる事が出来たのに、と、由紀子は思ったが、やってきたのは杉ちゃんであった。
「おう、いも切干持ってきたからさ、食べてもらおうと思ったんだけど、その様子じゃ、食べられそうもないか。」
杉ちゃんは車いすのポケットから、スーパーの袋を取り出した。中身は、サツマイモの切干がいっぱい入っていた。
「杉ちゃん、もうちょっと時と場を考えて。こんな時にいも切干なんか持ってきても、食べるどころか今は起き上がる事さえもできないわよ。」
由紀子は、杉ちゃんにいやそうに言った。同時に水穂さんはまたせき込んで、赤いものが又口元からあふれた。
「あーあ。今日は蘭にも叱られて、由紀子さんにも叱られちまった。まったく今日はついていないよ。それに蘭の家の前で雨にも濡れちまうし、まったく最悪の日だ。」
と、杉ちゃんは、ため息をついて、そういうことを言う。由紀子はここで初めて杉ちゃんの着物が濡れていることに気が付いた。
「まあ、そういう日もあるさ。そのくらいしか僕は気にしないから大丈夫。事実はあるだけだもん。其れに、何も脚色しちゃいけないよ。まあ、いい悪いをつけるのは人間だけで、ほかのやつらは誰も甲乙も善悪もつけません。」
杉ちゃんはそういうことを言った。杉ちゃんだから考えられる思想であるが、こういういつまでもくよくよしないで明るく生きていられるのも、杉ちゃんのいいところであった。
「それじゃあ、いも切干は、ここに置いておくから、元気な時に食べてくれ。さつまいもは、こいつの大好物だから、きっと食べるだろう。」
と、杉ちゃんは枕元にいも切干のいっぱい入った袋を置いて、今日は帰るかなと言った。その同時に、
「こんにちは。」
と、又玄関の戸が開いて、ジョチさんが入ってきた。今度の来客は、杉ちゃんよりはましかと、由紀子は、そんなことを思ってしまうのはいけないと思うけど思ってしまった。
「ああ、由紀子さん、いらしていたんですか。忙しいのに率先して水穂さんの世話を引き受けてくださって、ありがとうございます。」
と、ジョチさんは、偉い人らしくそういうことを言った。
理事長さんがこういうことを言ってくれてほんとうによかった、と由紀子は思ってしまった。そして、急いで、水穂さんに鎮血の薬を飲ませ、ほら、寝ようと言って水穂さんを布団に寝かしつけ、まず、かけ布団をかけてやる。
「で、水穂さんの具合はいかがですか?」
と、ジョチさんが聞くと、
「ええ。あまり良い状態ではありません。なんだかひどく疲れてしまっているようで。どうしたら、楽にしてあげられるか、あたしも、よくわからなくて。」
と、由紀子は正直に答えた。こういう時には、正直に答えを言わなければならないと思った。
「そうですか。でも、疲れてしまっているようだったら、一寸慰められるかもしれません。実はですね、こんなものを持ってきました。この製鉄所も、なんだか殺風景だなあと思ったものですから。」
ジョチさんがそういうと同時に、
「理事長、これ、どこに置きましょうかね。鉢植えだから腰に来るなあ。そんな大きな木ではないけど、結構重たいですよ。」
と小園さんが、大きな鉢植えをもってやってきた。鉢植えは、人間の背丈より一寸小さいくらいの木が植えられてあるのであるが、その木は、由紀子にも見覚えのある木であった。
「ええ、縁側に置いてやってください。水穂さんがよく見えるように。もしよろしければ、オーナメントを誰か、作るのが得意な利用者さんが居そうですね。」
とジョチさんは、にこやかに笑って、縁側を指さした。
「モミの木、ですか?」
水穂さんが小さい声でそういうことを言った。
「正解ですよ。クリスマスが近いということで、知り合いに造園業をしているものがいるものですから買ってきたんですよ。もし利用者さんたちが、オーナメントをつけたいというのなら、ぜひやらせてあげてくださいね。」
と、ジョチさんは、にこやかに笑って、そういった。
「そうですか。立派なクリスマスツリーじゃないですか。本当に緑がきれいなんですね、モミの木、モミの木、いつも緑よっていう歌があったでしょ。こんな寒い時でも葉をはやしているって、いうことなのね。」
由紀子は水穂さんにそういうことを言うが、水穂さんはすでに疲れ果てていて、返答しなかった。
「でも、こんな雨の日に、モミの木をもってきてくださって、ほんと大変ではなかったですか?」
と、由紀子が聞くと、小園さんは、
「いいえ、これも仕事ですから。」
とだけ言って、あとは何も言わなかった。
「あのさ、そのモミの木はどこの造園業で買ってきたの?」
と、いきなり杉ちゃんがそんなことを言う。杉ちゃんという人は、いつも、前置きなしに、いきなり本題を話し出すので、由紀子は、ちょっとびっくりしてしまうときがあった。一方のジョチさんは、杉ちゃんのような人になれているのだろうか、そのようにはなされても、何も驚かなかった。
「ええ、富士園芸ですよ。うちの店に植えられている、観葉植物を提供しているのは、富士園芸です。たまたま、そこの社長さんと、株を通して知り合ったので。」
とジョチさんは悪びれずに答えた。
「じゃあお願いなんだけどさ。蘭の家に、モミの木一本送ってやることはできないだろうか。それとも、もうクリスマスシーズンで、在庫はないかな?」
杉ちゃんがそうつづけるとジョチさんは一寸聞いてみます、と言って、スマートフォンを出して聞き始めた。
「杉ちゃん一体、どうしたの?蘭さんの家でクリスマスパーティーでもするの?」
由紀子が聞くと、
「いやね、蘭のやつ、モミの木の写生に行くつもりだったらしくて。其れできょうこの天気だろ。あいつは落ち込んだらとことん落ち込んじゃうやつだから、もう、今頃きっとどっかで泣いているんじゃないかな。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。
「まあ、その仕事を邪魔しちゃった僕も、いけないんだけどね。まあ、細かいところが気になって、どうしようもないんだ。バカだねえ、僕って。」
「杉ちゃん、モミの木、まだ在庫があるそうですよ。どうします?」
ジョチさんが、杉ちゃんに聞いた。
「おう、其れじゃあ、伊能蘭の家に一本配達してくれるように言ってくれませんか。モミの木がなくて困ってたから。」
と、杉ちゃんがデカい声で言うと、ジョチさんはわかりましたと言って、すぐにモミの木の手配を始めた。蘭の住所はジョチさんが知っていた。そういうことができるんなんて、杉ちゃんは、何ておめでたい人だろうと由紀子は思った。同時に、水穂さんにもそういう存在になってくれる人が居てくれたらと思った。
蘭は、印刷物を頼りに、モミの木の下絵を描き続けていた。やっぱり雨は降っている。雨が降ってなっければ、バラ公園で本物のモミの木を見に行けるのだが、今はそんな事ができない。まったく、なんでこんなについてないんだろうと思ったが、それでも一生懸命描いていた。その時、インターフォンがまた音を立ててなる。
「一体誰だよ。今日はバカに来客が多いなあ。」
蘭は、いらいらしながら、インターフォンの受話器をとった。
「はい、どちら様でしょうか?」
というと、
「小園です。」
とだけ帰ってくる。小園とは、ジョチさんの運転手だということを知っていた蘭は、なんであいつの運転手がうちに来るんだろうかと驚いてしまったが、
「あの、何か御用でしょうか。」
とだけ言った。
「はい、理事長が蘭さんのお宅にモミの木を持っていくようにとおっしゃったものですから。」
小園さんの発言は淡々としていて、蘭も何が起きたのか理解ができなかった。
「それで、僕にどうしろと?」
とりあえずそう聞いてみる。
「ええ、モミの木の鉢植えを持ってまいりましたので、どこに置いたらいいのか教えて下さい。」
という小園さんに、蘭は、波布の運転手が一体何をしに来たのか確かめるため、一応玄関先に行って、ドアをがちゃんと開けてみた。すると、小園さんが、モミの木の鉢植えをもって立っている。モミの木は高さが5尺くらいあり、小さいながらもモミの木らしい枝ぶりをしていて、飾りを付けたら、立派なクリスマスツリーになりそうだ。
「ああ、ああ、とりあえず、中に入っていただいて、いまにおいてください。」
蘭は、急いでそういうと、小園さんははいわかりました、と言って、居間に入り電話台の近くにモミの木の鉢植えを置いた。こんな立派なクリスマスツリー、相当高いのではないかと思われたのであるが、
「支払いは、理事長と杉ちゃんでしましたから、蘭さんは支払わなくて結構です。」
と、小園さんが言うので、蘭は、驚きと喜びとが入り混じった不思議な感情にとらわれてしまった。
「では、わたくしは、製鉄所に戻りますね。理事長に、設置したと報告しなければなりませんので。」
と、小園さんは、蘭に軽く一礼し、玄関から出ていく。車に乗って、製鉄所に戻っていく小園さんを、蘭は、呆然として見送った。
あの波布が、自分に何をしたのだろうか。
でも、自分がしなければならないことは見えているような気がした。
蘭は、さあ頑張るぞと一言だけ言って、モミの木の絵を描き始めた。
モミの木 増田朋美 @masubuchi4996
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