最終話
日曜日、午後18時30分。日が西へと傾き、東には夜が顔を出す時間。
マンションの入り口で、何かを待っている青年がいた。時計を気にしながら、あたりを忙しなく見回している。
「…あら、早いのね」
彼の顔が、パッと明るくなる。そこには、待ち人が来ていた。
つば広の帽子に、白のブラウスに紐ネクタイ。黒の裾の広いスカートに、同じく長めの靴下。革の手袋、そして眼鏡をかけた少女。
「よかった、来てくれた」
白よりももっと白い肌の少女は、優しく彼に微笑みかけた。
夏は彼女にとって、とにかく嫌いな季節だったことは間違いない。陽射しは強く、日没はやたら遅い。カーテンなどごく僅かも開けられない季節。
そんな季節に、それも日が出ている時間に外出をしようなど、今までの彼女にとっては正気の沙汰ではなかった。
だが、あえて今回彼女はその道を選んだ。どれだけ大変な支度が必要でも、どれだけ太陽の針が痛くても。それでもいい、彼が一緒に歩いてくれるから、と。
「ごめんね、こんな時間になっちゃって」
「そうね。とっても準備が大変だった。日焼け止め、服、久しぶりに眼鏡なんて出してきて…。あと、バッグにはサングラスも入ってる」
「…ほんとごめん」
「ううん。気にしないで。ギリギリまで考えて、この時間にしてくれたんでしょ?5時とかだと早すぎるし、7時だと遅すぎるから…」
「やっぱり、親が許してくれなくてね…」
実のところ、妥協案は無いわけではなかった。どちらかの保護者がついて来るのなら、と。
しかし、彼女自身が望んだ。「2人きりが良い」と。
そうなると、当然準備が必要となる。夏の日差しは、彼女の様な人間にとってはまさに天敵だ。たちまちのうちに肌に酷い日焼けを生じ、弱視の目を眩しさで完全に塞いでしまう。
彼女の弱い目でも大丈夫な様に光度を調整された、家の蛍光灯とは比べ物にならない。
ほんの少しの外出さえ、彼女にとってはあまりに難しかった。
誘う時、自身の気持ちでいっぱいで、そのことをすっかり失念していた彼は、彼女に電話をかけて急いで謝った。それに対する答えは明快だった。
「別に気にしてないよ」
彼女にとっては、大変な準備もその程度のハードルでしかなかったのだ。
神社まで2人は並んで歩いた。どちらかが先に行かない様に、どちらかが遅れることが無いように。付かず離れず、隣を歩き続ける。
「…ねえ、この服。似合ってるかな?」
彼女が、少し不安を滲ませて彼に問う。この服装は、昨日の夜に彼女の両親が、出来るだけ暑くなく、紫外線を防げ、そして可愛いと言う条件のもといくつもの組み合わせを試した末の結果だった。
浴衣を着せる、と言う案も出たがそれは彼女自身が却下してしまったが。
「似合ってる。凄く綺麗」
目の前の少女の服装は、彼にとって新鮮で、とても魅力的に映った。
しばらく歩くと、日はすっかり暮れて、神社に着く頃にはもう夜の闇があたりを覆っていた。
やがて、行先から祭囃子の音と提灯の光が少しずつ見え始める。
「見て、あれだよ」
「…綺麗ね、とっても」
山の麓から、山腹の社まで寝転がる提灯の蛇と、社の境内を満たす明るい光。彼女にとっては、初めて見る光景だった。
山の麓は人で賑わっていて、階段を登ろうとする人々で溢れていた。
「うーん、やっぱり人多いな。まだ時間はあるけど…大丈夫?」
人混みに慣れていない彼女を気遣ってか、彼の顔が少し不安げになる。
「大丈夫よ、このくらいは。外には出られないけれど、歩けない程の虚弱体質ってわけじゃないもの」
そう言い合いながら、2人は石段の下までやってきた。
「はい」
彼は先に石段を登ると、ごく自然に彼女に手を差し出した。
差し出された手の意味を理解した彼女は、少し微笑んでその手を掴む。
そうして2人はゆっくりと、人混みの中を流れる様に上へと登っていった。
境内は出店と祭りを楽しむ人々でやはり賑わっていた。明るい提灯があたりを昼の様に照らして、あちこちの出店からは、焼きそばやたこ焼き、わたあめやかき氷のシロップの香ばしい匂いが漂って来る。
彼女は帽子を少し目深に被りつつも、彼とともに周囲を見渡していた。
「…すごいわね。ここ」
「だよね。いつ見ても凄い人出」
「うん。だから、君が手を繋いでいてくれて、とても嬉しいよ」
「…どう言うこと?」
「逸れないで済むでしょ?」
「確かに」
そんな風に軽口を叩き合いながら、2人は出店を見て回った。
「何か食べたいものとかある?」
「…もうお夕飯は早めに食べて来ちゃったし、甘いものとかにしようかしら」
「僕と同じ発想してるね。そう、お祭りはご飯よりもお菓子が良い」
2人は混みが少ない出店を探しつつ、自分の食べたいものに目星をつけていった。
「それで、何が良いかしら?」
「やっぱりかき氷かな?」
「良いわ、そうしましょう」
彼女は祭りの熱気にあてられて、少し頬を熱らせながら、彼と一緒に出店へ向かった。
「そろそろ移動しましょうか」
彼女は帽子の上に、どこかで仕入れたのだろう狐のお面を括り付けて言った。
「結構楽しんでるみたいでよかったよ」
「うん。だけど明日甘いもの我慢しないと」
そう言い合いながら、彼女はリンゴを一つ丸々使った大きいリンゴ飴に口をつけた。
彼もチョコバナナのゴミをビニールに入れて口を縛る。
「それで、これからどこに行くの?」
「ちょっとした穴場スポット」
そう言うと彼は、境内の側面から山の頂へ続く登山道に入った。
そうして彼は彼女と共に、少しの間登山道を歩き、「穴場」へと案内した。
「ここだよ。ほら」
「わぁ…」
彼が言う「穴場」は、神社の境内よりも少し上に位置する、登山道沿いの少し開けた場所だった。
「正面からはズレちゃうけど、人も居ないし、何より遮るものがほとんどないんだ。見て」
彼が落下防止柵向こう側の海を指さす。其処には設えられたばかりの花火の発射台。或いは神社と同じように人と出店の光で明るく賑わう砂浜。或いは山裾から海の方に向けて広がる街並み。今まで彼女が見た事もない風景が、其処にあった。
風に吹かれながら2人が街を眺めていると、ふと彼女が口を開いた。
「ツダ君。花火が始まる前に、どうしても言っておきたいことがあるの。聞いてくれるかな?」
「ん?良いけど…」
「ありがとう。…そう、今日でさ、私達が初めて会ってから丁度二ヶ月になるんだよ」
「確かにそうだね…。実は、今でも少し信じられないんだ。たった二ヶ月で、君とこうして2人で出かけられるようになるなんて。ちょっと、いや、とてもびっくりしてるよ」
「……それは、私も同じ」
彼女は少し彼に近づいて、帽子を取りその顔を見つめる。
「君も知ってると思うけど、私はずっと…小学校の後半からずっと、散歩以外で外に出ることなんてほとんどなかった。友達なんて、出来た事もない。皆私を怖がって、離れていくか、傷つけるかのどっちかだったから」
「……」
「君もそうだと思ってた。最初は単なる好奇心で私のところに来たって。だけど…君と話した時の、きみのその態度がずっと頭の奥に引っかかっちゃったんだ」
「そうだったの?」
「そうよ。君はずっと私の頭の引っ掛かりだった。どうして君が頭から離れないのか、ずっとわからなかったんだもの」
「あはは。確かに印象はまあ濃いって言われるけどさ…」
「顔を合わせて、君のその底抜けに明るい言葉や声を聞くたびに、心のどこかが暖まって。君の書くメッセージ一つ一つが、楽しげで私を引き込んだ」
「……」
「私、ずっと考えてた。どうして、どうして君と会ってからこんなに心がかき乱されるのかって。どうして、私の中から君がいなくならないのかって」
「えっと…その…」
「出会ったばかりなのに、どうしてだろうって。それで、ようやく気が付いたわ」
「?」
「…私、ずっと寂しかったんだ」
「寂しかった?」
「うん。1人を気取って、誰も近寄らせない、私は心を閉ざす…なんて事をしてたけど。私の心は、私が思うよりもずっと子供だった。寂しくて、1人が嫌で、誰かと一緒に居たかった。でも自分から触れるのは怖くて…だからきっと…君が『私と友達になりたい』って、言ってくれたあの時。あの時私は内心ではすごく嬉しくて、既に君に惹かれてたんだと思う」
「そうだったんだ…」
「気が付いた時はちょっとショックだった。私は簡単に誰にでもついて行っちゃう様な、そんな軽い子だったって分かって」
「別にそんな事は…」
「でもね。今は、それで良かったと思ってる。お陰で君に会えて、君と話して、君の暖かさを素直に受け入れられた。私は君が伸ばしてくれた手を、掴めるくらい素直でいられた」
彼女はそっと、彼の手に触れた。少しひんやりとした感触が、彼の手に伝わってくる。
「だから、ありがとう。君は、独り善がりの私を連れ出してくれた。君のおかげで、私は自分自身ともう一度向き合えた。この身体も、心とも。君が『友達になりたい』って、言ってくれたから」
「そんな…僕は、別に何も…」
「それで…もう一つ。君にお願い、と言うか。相談があって…」
「ん?」
「これから、夏休みになるでしょ?夏の間は、学校が無いから、お互い暇になるよね」
「うん。確かに」
「…私は、外になんて遊びに行けないから、ずっと家に引きこもって、映画とか本を読んで過ごしてた。君にとってはつまらなくて、もちろん私にとっても退屈だった。だけど…だけど…」
珍しく彼女は口籠る。言っても良いのか、今ここで言うべきなのか。迷っている様だった。
「もし、もしも君が、夏休みを今日みたいに、一緒に過ごしてくれるなら…その、とても楽しくなるかもしれないと言うか…だから、だから…」
彼女は、触れた彼の手を軽く握って言った。
「今度、私の家に遊びに来て欲しい。今日こうして、君が私を連れてきてくれたみたいに、今度は私が君を誘いたいの」
今度は彼が目を見開く番だった。彼女の言葉を聞いて、彼は一瞬何を言われているのかわからなかったのだ。しかし、それを理解した時、彼の顔に喜びの表情が浮かぶ。
「いいの!?本当に?」
「…何度も言わせないでよ…。私がいい、って言うならいいの。何も気にしないで…」
「やった!行く、必ず行くよ」
彼女は答えを聞いて、彼に向けて微笑んだ。
ずっと心に秘めていた事を、ようやく言えた。そんな晴々とした顔だった。
「おっと、もう2分くらいか…」
「そうだね。もうすぐ始まるみたい」
話を終えて、2人は海の方に向き直った。
「ねえ、ツダ君」
「どうかしたの?」
「…どうしていきなり、あんな話をしたかのかって、気になってると思って」
「あぁ…まあ少し気にはなるけど…」
「その、花火を見る前に君にちゃんと感謝を伝えておきたかった。君に会えて良かった、君と一緒にいられて嬉しいって。後は、『私も君と一緒にいたい』って、私の口から伝えたかった。そうして…」
彼女は彼と距離を詰める。そして耳元で囁いた。
「ちゃんと君の友達になってから、一緒に花火を見たかったの」
「…それって」
彼女は彼の手を握ると、ふわりと笑って言った。
「これからもよろしくね。真太郎君。私の『初めての友達』として」
「…こちらこそ。葵さん」
「点火まで、3、2、1!点火!」
一筋の流れ星が、海から空へと流れた。そして、流れ星は2人の前に星空の華を咲かせたのだった。
恋愛以上、友情未満 津田薪太郎 @str0717
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