第4話

月曜日。いつもの通り、彼女の手元に課題がやってきた。彼女がファイルを開くと、小さな付箋が貼ってある。

「初めてメッセージを書いたけど、すごく緊張する。これだって、何を書けば良いのか1時間くらい悩んだ結果なんだ。(結局いいアイデアは浮かばなかったけど)これから、色んなことを書くつもりだからよろしくね 真」

彼女はほんの少し表情を緩めると、リングノートのメモ用紙を一枚破ると、メッセージを書いた。

「よろしく。三日坊主にならないことを祈ってるよ 葵」


こうして、2人の間の奇妙な「文通」は始まった。一週間に一通単位でメッセージを交換する不思議な関係。側から見れば、迂遠でまどろっこしい様にも見えただろう。だが、彼女にとってはこれが「始めての交友」だった。


「こんにちは。どんどん暑くなって来てるね。朝礼もだるくて仕方ないよ。でも、今日の朝礼は校長先生のカツラ疑惑が事実だって知れたから、とても楽しかったね。そっちも、体に気をつけて 真」

「よほど話題が思いつかなかったのかしら?まあでも、カツラだとは私も思ってた。おかげで一つ疑問が解決したわ 葵」


「先週は特に面白いことも無かったかな。相変わらず数学は全く理解できなくて、眠くなって寝ちゃう。それで先生に起こされて、みんなに笑われちゃった。でも仕方ないじゃない、わかんないんだもの 真」

「私の課題を見てるのにどうして理解できないのかしら…なんて冗談は置いておいて。どこが出来ないのかしら?方程式?比例式?せめてそのくらいは自分で理解できる様にしたら? 葵」


「君に言われて、出来ないところの整理をつけてみました。具体的には、濃度を求める問題だと思います。文章が出て来た時点で、もう頭がパンクしちゃって…。どうしてもうまく行かないんです。 真」

「私は君の先生じゃないから、敬語じゃなくてもいいよ。濃度の問題なら、今週の課題ファイルの中にあったはずだから、その解き方を見ておいて。兎に角それを写すなりなんなりして、体に覚え込ませること 葵」


「ありがとう!お陰でなんとか解ける様になったよ!にしても、凄いね。君のやり方って、単純明快で、でもきちんと根拠があって途中式も書いてある。暗算ができない僕にとっては、本当に助かる…。期末テストも何とか頑張れそう 真」

「そう、よかった。本音を言えば、君の頭で分かる様に解答を考えるのは骨が折れた。久しぶりに真面目に頭を使った。何かお礼でもして欲しいくらいにね 葵」


「マジですか!?本当ありがとうございます(土下座)。君の課題ファイルの中の解き方で練習したら、今まで出来なかった問題も、アプローチが見えて来る様になりました。今日はお礼に、お菓子も一緒に入れておきました 真」

「クッキーね。私ここのケーキ屋さんの気に入ってる。だから嬉しいわ、ありがとう。もし分からないところがあったら、丸付けした君のプリントでもファイルに入れておいて。テストでも幸運を祈ってる 葵」


「今週末、いよいよテストだね。最後の追い込みをかけてるところ。君がファイルの中に入れてくれた予想問題を、毎日毎日やってる。君は…心配いらないか。テストが終わったら、改めてお礼するね 真」

「メモに書かなかったから、きちんと気が付いたかと不安だったけど、ちゃんと気がついたみたいでよかった。テストお疲れ様。君が頑張っただけの成果があると良いわね 葵」


彼の書くメッセージに対して、彼女の文章はどこかそっけない雰囲気を感じさせる。しかし、結局2人はこのメッセージ通信を、毎週欠かさず続けたのだった。


彼女の両親は、娘がしている事に対して、どんな顔をしただろうか。娘のことを心配して、警戒していただろうか。

そうではなかった。2人は、娘にとって初めての『手紙のやりとり』、という交友を積極的に応援していた。

寧ろ当人よりもメッセージを楽しみにしていたかも知れない程に。

「彼は娘にとって初めての『友達』になってくれるかもしれない」

そんな期待が、2人の中にあった。

「葵、今日も来てるわよー」

「ありがとう、母さん」

既に玄関に立って、今か今かとファイルを待っている娘。その様子を見て、母親は心の底から彼に感謝したのだった。

「…ねえ、あなた。見て、あんなにあの子が嬉しそうにしてるなんて、久しぶりだわ…」

「そうだな。口には出さんが、態度でよくわかる…」

課題が終わった後の暇な時間。それは、彼へのメッセージを考える時間へと変化していった。


「期末テストは本当にありがとう。順位もすごく上がったよ!ところで、期末も終わってそろそろ夏休みになるね。暫くこのメッセージも休止になると思うと、寂しくてしょうがないよ。今度夏休みの宿題を届けに行くよ。では、良い夏休みを 真」

「うまく行ったみたいで良かった。私も頑張った甲斐があったよ。私は夜しか外に出ないから、外の暑さは半分くらいしか分からないけど、きっと辛いんだろうね。まあ兎に角、お疲れ様。夏休み楽しんで、よければメッセージで何があったか教えてくれると嬉しい 葵」


終業式の日。彼女はぼんやりと壁のカレンダーを見つめていた。7月ももう終わる。今日彼がファイルを届けてくれたら、暫くの間はまたやりとりが途絶える事になる。

何の事はない、少し前に戻るだけのこと。そう思っていた。

「………」

しかし、彼女の中には言葉にできない空虚さが広がっていた。

「………」

この、ぼんやりとした空虚さの名前は、何と言うのだろう。彼女の辞書は、答えてくれなかった。

抽斗を開けて、小さな箱を取り出す。彼女はそれを開けて、中身を取り出した。

何枚かの付箋。彼からのメッセージが書かれた付箋を、彼女は眺めていた。

最初は単なる興味だったはずなのに。ごく小さな、図鑑かパソコンかで調べれば得られる様な、小さな知識への興味のはずだった。

この付箋を書くのも、じき飽きてしまってゴミ箱の中に行くのがオチだと思っていた。

だが、結果はどうだったろう。気がつけば、彼からのメッセージを読み、返事を考えて書くのが当然のことになっていた。固く、冷たい鍵で閉ざしたはずの心は、ごく短い時間のうちに錠前を溶かされ、強引に開け放たれ、光の差し込む部屋に作り替えられた。

「…きっと、私は思ったよりもずっと…子供だったのかしら…」

そんな言葉が漏れる。他の子供よりも遥かに頭が良くて、ギフテッドだと色々な人に言われて、思い上がっていたのだろう。

彼女の心はその知能よりずっと、年相応に未熟で…それでいて柔らかく瑞々しさを失っていなかった。


ベルが鳴った。時間は18時45分。両親はまだ帰っていない。彼女はインターホンに出た。

「はい」

「えっと、巳波三中のツダです…」

「あ、君か。ちょっと待ってて」

彼女は玄関へ向かった。そして扉を開ける。

いつもの通り、彼がいた。少年めいた顔に、暖かい瞳。急いできたのだろう、彼は肩で息をしていた。

「や、ごめんね。突然来ちゃって…。えっと、これ。お土産だから…」

そう言うと、彼は左手に持っていた袋を彼女に渡す。中には、コンビニで売っているアイスクリームが入っていた。

「あ、ありがとう。ちょっと待ってて。今冷凍庫に入れて来るから…」

少しして彼女は戻って来た。

「…えっと、中入る?そこ暑いでしょ」

「ありがとう。汗だくだけどごめんね」

2人は家の中に入った。


「それで、君はどうしてわざわざここまで来たの?」

彼女が訊いた。

「えっと、まず夏休みの課題を渡しに来たのが一つ」

そう言うと彼は、普段使っているファイルともう一冊、同じくらいの厚さのファイルを取り出した。

「流石にこれはポストに入らなくて…」

「あらら…確かにこれは辛い」

「あの先生達調子に乗ってさ…。夏休みは生徒を虐待する期間じゃないっての全く…」

「そっか。確かに大変だね、この量は」

彼女は2冊のファイルを受け取ると、一旦床に置いた。

「わざわざありがとう。用事はこれだけ?」

「あ、えっと…もう一つあるんだ。あのね…」

彼は少し鞄を探って、暫くして一枚のチラシを取り出した。

「これって…花火大会?」

「そう。今週の日曜日に、山の方の神社でやるお祭りに合わせて、浜の方で花火をあげるんだって」

「そうなんだ…。それで、どうして私にこれを?」

それを訊くと、彼は少し恥ずかしそうに身じろぎした。少しの間何かを呟いたり、忙しなく視線を移したりしていたが、やがて意を決して向き直った。

「今度の日曜日、一緒に花火を見に行きたいなって」


「…私と、一緒に、花火を?」

彼女はあえて、文節ごとに区切って反問した。言っていることを確かめるだけではない。寧ろ、自分自身が言われたことを、一言一言噛み締めて、その意味を飲み込むためだった。

「…あ、その、嫌なら良いんだ!うん。ごめんね、変なこと言っちゃって…」

「ちがうよ、待って、ちょっと!」

早とちりする彼を慌てて引き止めながら、彼女は考えた。

もしこれが少し前の自分自身であったなら…言下に拒絶していた筈だった。

混乱する心の中で、「嫌だ」と言う選択肢が露ほどにも出てこなかった事に、彼女自身が驚いていた。

「……」

「……」

気不味い沈黙が流れる。拒絶されたのではないか、と気が気ではない彼と自身の心の動きについて行けず、言葉が浮かんでこない彼女とが、ただ無言でお互いを見つめていた。


「…あの、さ」

「……?」

沈黙を破ったのは、彼からだった。

「その、ここ最近メッセージのやりとりをしてたじゃん?」

「うん」

「お…いや僕は、凄くそれが楽しくて、嬉しかったんだ。君と少しとは言え話せて、君がわざわざ勉強のアドバイスまでしてくれて…お陰でテストの点も良くなったんだ」

「……」

「だから、君にお礼がしたかったんだ」

「お礼?」

「うん。お礼になるかは分からないけど、凄く綺麗な花火を見せてあげたくて。明るいお祭りを楽しんで、そのあとは山の上から花火を見て。きっと凄く楽しいから。だから、君をこうして誘ったんだ」

「……」

「後は…その、僕は今まで友達とお祭りに行くとかした事がないんだ」

意外だった。彼女が見る彼は、いつでも明るくて、どんなことでも意に介さず、どんな相手とも仲良くできる。そんな印象だった。

「それで…つまり、君をその初めての相手にしたいと言うか…初めて一緒に行く経験を…えと、えっと…」

彼は言葉選びに詰まり、頭を掻きながら下を向いてしまう。そのまま何かを暫く呟いていたが、ややあってきっと顔を上げて、彼女を見据えて言った。

「つまり、つまり僕は『君と花火が見たい』んだ!他の誰でもない、君と!」

「……!」

「お礼がしたいとか、初めての外出とか、そんな理由はどうでも良いんだ。ただ、君と一緒に行きたいってだけの、カモフラージュなんだよ。本当はただ、君と一緒に歩いて、君と一緒にお祭りを楽しんで、君と一緒に花火を見て…。それで、それでもっと君と仲良くなって…今はまだ違うかもしれないけど、君と友達になりたいんだ。だから…!」

全てを言い切った。彼はそんな顔をしていた。そしてまた、不安そうな瞳で彼女を見つめている。


「…そう、そうだったんだ。やっぱり、やっぱり君は…凄く正直で、それに凄く…優しい人」

彼女の口から、言葉が漏れた。心持ち口角を上げて、彼女は彼を見つめる。

「さっきの誘い文句。凄く不器用な、愛の告白みたい」

意表をつかれたのか、彼はまたしどろもどろになる。

「い、いや。別にそんなつもりじゃなくて、ただ僕は純粋に…」

その反応が面白くて、また彼女の頬が緩む。

「分かってる。君がそんなつもりじゃないことなんて、ちゃんと分かってる。それに…」

そこで言葉を切り、小さく息を吸う。勇気を奮い起こして、また言葉を紡ぐ。

「それに、嬉しいよ。君の言葉で、君の本心を、隠さず私に伝えてくれて。私と一緒に、どこかに行きたい、って誘ってくれて」

「じゃあ…!」

「うん、良いよ。一緒に行こう。きっと、綺麗な花火が見られるんでしょ?」

「やった!ありがとう!ツムラさん!」

「但し。私は時間に厳しいから。集合時間を1分でも過ぎたら、この話は無し。今後君からの誘いには一切応じない。それから…」

彼女は、ほんの少し彼に近づいて、囁く様に言った。

「私は、お祭りはもちろん、家族以外の人とどこかに行くこと自体初めてなの。だから、歩く時は必ず…」

ー私の隣を、歩いて。

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