第3話

彼との三度目の邂逅は、そこから3日後にやってきた。その日は彼女にとって、時間だけは普段と変わらない日だった。

朝7時に起き、8時に両親を見送り、彼が持ってきた課題を淡々と処理する。昼食を挟み、14時にはそれが終わる。それ以降の時間、彼女は本を読む時間を思考に費やした。テーマは無論、彼の事だった。

あの日以来、彼女は課題を終えた後の時間を、彼についての考えに費やすようになった。彼のことが気になったから衝動的に浮かんできた、と言うわけでは無く、ただ彼についての思考をする時間をそこに割り当てただけだった(と当人は思っていた)。

彼はどうして、あんな事を言い出したのか。彼女がどう言う人間なのか、地域の者なら知っていてもおかしくない。特に同じ小学校から進学した者なら必ず…。

仮に違う小学校だったとしても、そもそも学校に来ることがない彼女になぜ興味を持ったのか。適当にやったテストで一位を取ったのが悪かったのか、だとしたら適度に間違えた方が…。

そうして彼女は思考を続けるが、何度考えても結論は同じで、「彼は底抜けのバカ」以上のものにはならなかった。

どんな問題に対しても、納得できる結論を出してきた彼女にとって、この結論はどうしても呑み込めるものではなかった。

何の下心もなく純粋な思いだけで、引きこもりの厄介者に近付いてくる人間がいる事など、彼女には到底信じられるものではなかったのだ。

この3日間、彼女はそれで悩み続けてきた。あの少年めいた顔、小学生よりも幼い理屈、純粋さの温かさをたたえた瞳、そして躊躇う事なく差し出された手。あの手は、暖かかったのだろうか。あの手を掴んだとしたら、彼は他の人とは違って受け入れてくれるのだろうか…。

その考えを、彼女はすぐに振り払った。何をバカらしい、自分らしくもない。外の人間に、今更何を期待しようと言うのだろう。かつて自分に向けられた視線を思い出して、彼女は身震いした。

あの視線も同じだ。あの視線も、彼と同じ「純粋さ」があった。彼の持つ純粋さと、かつて自分が受けた視線の純粋さは、根底では同じものだ…。


気がつけば、時計は19時を指していた。同時に玄関の扉が開く音がする。今日はどうやら2人連れ立って帰って来たようだ。

「おかえり。父さん、母さん」

「ただいま」

「ただいま、葵」

2人は着替えると、すぐに夕食の支度を始める。夏も近いのだ。スーツでは汗をひどくかいた事だろう。しかし、娘の散歩に合わせて夕食を用意できるようシャワーも浴びずに家事に取り掛かる。その気遣いが、彼女にとってはありがたかった。

「散歩に行ってきます」

彼女はいつもの通り、短く告げて家の外に出た。


夏の夜の散歩は、他の季節に比べて彼女はあまり好きではなかった。何故なら、夜にも関わらず暑さが、「昼の残り香」が濃く残っていたからだ。

陽の光の残滓が身体を包み込む。彼女が最も嫌いな存在の香りと、彼女が好む夜の感触がその身体を共に包み込んだ。

マンションのエントランスを出たタイミングで、彼女は30分のアラームをかける。このアラームが帰り時間を教えてくれるのだ。

散歩のルートはごく単純で、マンションの周りを一周するだけである。一応ルートは、商店街や小学校、神社など幾つかの施設があり、ある程度起伏もある。

とはいえ、小学生の時から何周もしているルートであるから、すっかり何があるか、どのくらいの時間がかかるかもおおよそ把握している。

「まずは、コンビニまで…大体40秒くらい」

彼女はそう呟くと、一歩を踏み出した。


彼女の計算は、狂った。商店街の通りに出る曲がり角。そこで、彼女の計算は、早くも致命的な狂いを生じた。

目の前に居たのは…彼だった。少年らしさを色濃く残した顔、驚きと嬉しさをないまぜにした温かな瞳。

「あっ…ツムラさん…。こんばんは」

驚きながらも彼がした挨拶には、隠しきれない嬉しさが滲んでいた。


「…ツダ君。そっか、同じマンションだもんね。こんばんは」

彼女は静かに挨拶をして、通り過ぎようとする。しかし、またそれは遮られた。

「えっと、その。よかったら、少し、お話に付き合って貰えないかな…」

まただった。彼女が立ち去ろうとすると、それを遮る。近づきたいが、どこか距離感を計りかねているような、そんな声。そこに悪意は感じ取れなかった。

「……歩きながらでよければ」

「あ、ありがとう!」

幼さの濃い、温かい喜び方だった。


「えっと、ツムラさんは、好きな食べ物とかある?」

「フレンチトースト」

「得意科目とかは?」

「全部」

「好きな季節とか…」

「外出自体大嫌い」

「すごく文章上手いけど、どうやって書いてるの?」

「適当。書くだけならすぐ出来る」

「えっと…あの…その…」

「話題が無いなら、無理に話さなくてもいいよ」

気がつけば、ルートを既に一周していた。

「ほら、もう入り口まで戻ってきたよ」

「もうちょっとだけ…その…」

ふぅ、とため息をついて彼女は答える。

「…いいよ。別に」

そうして、2人は2周目を歩き始めた。今度は2人の間に会話はない。ただ淡々と、道を歩くだけだった。そして、またエントランスに戻って来る。

黙って3周目に入ろうとする彼女に、彼はついてきた。


「……ねえ、ツダ君」

ピタリ、と2人の足が止まった。彼は、彼女から話しかけられた事が、まだ認識できていないといった顔をしていた。

彼女自身もよく分からなかった。どうして、自分から話しかける気になったのだろう。そんな疑問も、言葉のうちに秘められていた。

「…ツダ君は、どうして私のところに来たの?」

意を決して、彼女は訊いた。

「君も知ってると思うけど、私は一回も学校に来た事ないよ。入学式でも、名前は呼ばれたけど、私はいなかったでしょ?出席番号が君の次なんだからさ」

あくまで、いつもの調子で。内心のざわめきを、悟られないように。

しかし、目は逸らさない。まっすぐ彼の目を見据えて、心の奥底まで見通すように。

「委員長がやってた事なのに、どうして君から引き受けたの?」

そして、

「君はどうして、私と『友達になりたい』なんて事を…私に言うの?」


「……」

彼は一瞬沈黙した。目は逸らさない。しかしその目には、どう答えていいかわからない内心の困惑が読み取れた。

「…僕は、その。…わかんないんだ」

「わからない?」

彼女の声が少し刺々しくなる。彼女はさらに顔を近づけた。

「わからない。君は、自分でもわからないのに、私と友達になりたいなんて言うの?」

気圧された様に、彼は一歩後ずさる。

「そりゃ、ちゃんと理由を付けるなら…君のその頭の良さに興味があって、それであってみたら、とても綺麗で…。だけど、それだけじゃなくて…」

しどろもどろになった彼は、咄嗟に視線を逸らしてしまう。

「…ツダ君。こうして、私のことを見てればわかると思うけど、私は他の人とは違ってる。そのくらいは理解してるでしょ?」

彼女は冷静に語りかける。

「……小学校の頃、私は君と同じ視線を、毎日注がれてた。純粋な…そう、とっても純粋な『嫌悪』の視線をね」

彼はもう一度、彼女に視線を合わせていた。

「何があったかなんて、想像できるでしょ?…そこから私は、学校に行かなくなった。その時…私に嫌悪の視線を向けた人達、その人達もね、同じ事を言ったのよ?『自分でもわからない』って」

「……」

「でも、理由なんて簡単に想像がつくわ。みんな『怖い』のよ。私が」

彼女は、彼に腕を差し出して見せる。

「ねぇ。わかるでしょ。夜の暗闇の中でも、はっきり見えるくらい。まるで、『幽霊』みたいに…」

「……」

「だから、もう一度聞くわ。どうして、君は私と友達になりたいの?君が、『自分でもわからない』って言葉で隠した、本当の理由。私は、それが知りたいの」


「……それは…」

彼は少し躊躇った。しかし、やがて決意をたたえた眼を、彼女に向ける。

「それは、僕が君のことを、好きになっちゃったからなんだ」

言い切った。彼はそんな顔をしていた。だが、言われた方は、それに相応しい反応を示せたとは言い難かった。

「えっと、その『好き』って言うのは…」

彼女は、まるで全く未知のものを突きつけられたかの様な、そんな反応をした。

「ああ、いや!その、恋愛的なものじゃなくて、えっと…ほら、likeとか、favoriteとか、そんな感じの…」

それを勘違いしたのか、彼は慌てて弁解する。

「えっと、一度も会ったことないのに、変だなって思うかもしれないけど…」

彼は一呼吸置き、

「確かに僕は、君と一度も会ったことはないんだ。だけど、君が課題とかで書いた作文とかは見たことがある…って話したことあったっけ」

「前に、父さんと玄関先で話してたでしょ?」

「あ、聞かれてたんだ…」

「良いから。続けて」

「…少し前の作文のテーマに、『いじめを無くすには』って言うのがあったでしょ?」

「……」

「その時に、ツムラさんの作品が紹介されたんだ。優秀な作品、って事で」

「……」

確かに。そんなものも書いた気がする。彼女は記憶の片隅に、そのデータを見つけ出した。最初はいつもの通り、さっさと書いてしまうつもりだった。だが、調べたり実体験をもとに書いているうちに、段々とのめり込んで、気がつけばそれで一日を使い潰していた。

「他の人も、一応ちゃんとしたのは書いてたんだけどさ、やっぱりふわっとしてて、要領を得ないと言うか。教科書通りって感じがして」

その通りだろう。実際、それ以上のものを書いたところで、点数が上がるわけではない。

「その中で、ツムラさんのだけがだいぶ違ってたんだ」

「違ってた?」

「うん。まず、あの『肌の色が白かったせいでいじめられた子の話』ってさ、実体験でしょ?」

確かに。彼女は自身の体験ももとにして、その作文を書いた。あくまでケースの一つ、と押し切ったが。

「前半は、その子がずっといじめられる、胸が苦しくなる様なエピソードばかりだったんだけど…後半は、全く違ってた。後半は、データとか教育の実例とかをあげて、理由だったり、具体的な方策がレポートみたいにまとめられてた」

「……」

「びっくりしたんだ。だってさ、実際にいじめられてて、凄く辛い思いをしたのに、それでも視点がぶれてなくて、『必ず無くせるんだ』って一つ一つ仮説と証明を積み上げていって」

「……」

「書き方も、ぶっきらぼうで、無駄のない論文みたいな感じだったけど、そこからはとても優しい感じが出てて…だから、興味が出たんだ」

「それで私に会いに来たの?」

「うん。とても頭が良くて、公正で、誰にも思い付かない様な事を簡単に出して、それに…優しい。一度も会ったことはなかったけど、話してみたい、友達になりたいって思ったんだ」

「…その上、委員長曰く、『綺麗で可愛い』からより必死になった?」

「それも…多少は…」

集合写真にも、彼女の顔は載っていない。となれば、彼は彼女の顔を知る機会は無かったか、同じ小学校だった委員長か知っている誰かに聞くしか無かったはずだ。中学生男子が、純粋な気持ちだけで来るわけがない、そう思って鎌をかけたのだ。

「…私が君にとってブスだったら…なんて、意地悪な質問はしないよ。正直に免じて、許してあげる」

「ごめん…。その、男子としてはやっぱり気になっちゃって…」

しょんぼりとする彼。その様子は、飼い犬が怒られた様な、小さな滑稽さがあった。

「ふふっ…。やっぱり、君は正直なんだね。3回しか会ったことないのに、ここまで曝け出しちゃう人、見たことないよ」

「……あははっ。そりゃ、仕方ないよ」

2人は初めて、笑顔を交わす。彼女にとっては、久しく忘れていた顔だった。


そうしていると、彼女のスカートのポケットが振動し、耳障りな音を奏で始める。30分経ったのだ。

「…ごめん。もう、時間が来ちゃったみたい」

「え?」

「父さんと母さんとの約束で、30分経ったら帰らなくちゃいけないの」

「そっか…残念」

そう呟くと、彼はまた口を開いた。

「もし良かったら、また一緒に歩けるかな?」

言うと思った。彼は必ずそう言う。彼女には既にわかっていた。

「それは嫌。まだ君のことをよく知ったわけじゃないし、少し踏み込みすぎだと思うよ」

「はい…ごめんなさい…」

また柴犬の様な顔である。

「…でも、そうね。メッセージのやりとりくらいなら、良いわ」

そう言うと、彼女はいつも肩にかけている鞄から、小さなリングのメモ帳を取り出す。

「何か話したいことがあったら、このくらいの大きさの紙に、メッセージを書いて課題ファイルの中に入れておいて。気が向いたら、返事を書く。たくさんはダメ。一枚だけ、よく読める大きい字でお願い」

「本当?嬉しいよ、とっても!」

「その代わり、これからは君が課題を取りに来るのよ?朝8時。父さんと母さんが家から出る時に受け取って、届ける。できる?」

「当たり前さ」

彼は即答した。そして、嬉しそうに笑う。

「これからよろしく」

そう言って右手を差し出した。今なら、握る事に躊躇いはなかった。

彼女は差し出された手を、そっと握った。

昼の香りがする彼の右手は、とても暖かかった。

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