第2話
翌日。その日は、普段とはどこか違っていた。彼女の両親は、職業柄時間には正確な人間だったし、それは娘である彼女も同じだった。
だが、その日は少し変だった。
7時に起きるところを、今日はなぜか7時10分に目が覚めた。いつもと変わらない朝食を、7時40分に摂り、そして両親を8時15分に見送った。
そこからしばらく課題をやり、昨日と同じ時間に昼食を摂り、また読書をする。ほんの少し時間がずれている事を除いて、何も変わらない一日のはずだった。
19時、彼が来るまでは。
久しく鳴る事がなかった、玄関のベルが彼女を呼んだ。デスクで本を読んでいた彼女は、振り返って音の鳴った方を見た。
両親はまだ帰っていない。彼女は家で1人きりだった。
彼女は、嫌々ながら席を立って、インターホンの方へ向かった。
インターホンは青色で、訪問者が扉のすぐ前にいる事を示していた。
「はい」
「あ…えっと、夜遅くに申し訳ありません。巳波三中のツダ・シンタロウと言います。委員長の代わりにツムラさんに、今週分の課題を渡しに来ました」
若い少年のような声だった。急いできたのだろう、少年は所々息を吸ったり吐いたりして、言葉を遮っていた。
「……」
直接出ずに、ポストに入れて貰うよう伝えるべきか。彼女は少し悩んだ後、直接顔を合わせる事にした。折角、やりたくもない役目を引き受けてやって来てくれたのだ、直接会うくらいはしてやらないと失礼だろう。ひどい人嫌いの彼女だったが、どこかそうした心を捨てきれていなかった。
「…はい」
彼女は短く答えると、扉の方へと歩く。夏が近いとはいえ、日はすっかり沈んでいたから、痛みの心配はない。彼女は、億劫げに扉を開けた。
彼…ツダ・シンタロウは扉の前に立って、走って来た疲労感と、初めて顔を合わせる緊張をないまぜにした表情を、その子供っぽさを残した顔にたたえていた。背が高く、豊かな髪の毛を無造作に頭に乗せて、ひどく汗を吸い込んだポロシャツのボタンを二つとも開けていた。
「……」
扉が開き、真っ白な少女が顔を出すと、彼はできるだけ居住まいを正し口を開く。
「はじめまして。えっと、僕はー」
「ツダ君、でしょ。同じクラスの。2回も名乗らなくていいから」
「あ、その、ごめん。あの、今日はこんなに遅くなって申し訳ありません。部活動が遅れてしまいまして…」
「御託はいいよ。敬語も別に使わなくていい。それよりも、課題を届けてくれたんでしょ?」
「あぁ、そうだった。はいこれ」
そう言うと、彼は分厚いファイルを彼女に差し出した。彼女は無愛想にそれを受け取る。彼は、それを興味深げに眺めていた。
「何?」
それに気がついて、彼女が少し刺々しく問う。彼は慌てて、別に何か悪意があったわけではないと弁解する。
「いや、すごい量の課題だったから…。でも、ツムラさんは毎週それをちゃんと終わらせてるんだよね…だから、凄いなあって」
「…そう」
彼女は興味を失ったように、素っ気なく返した。
「わざわざありがとう。走って来てくれたんでしょ?…こんな事の為に」
「いやあ、別に。そこまでの事じゃないよ」
彼は照れた様子で、後ろ髪を掻いた。
彼女はファイルを持って、家の中に戻ろうと踵を返す。その時、
「…もし、今度また課題を届けてくれる事があったら、わざわざここまで来てくれなくていいから。一階の宅配ポストにでも、入れておいて。委員長も、そうしてたし。…それじゃ」
そう告げて彼女は扉を閉めようとした。しかし、
「待って!」
それは彼の声で遮られた。少しうんざりした顔で、彼女はもう一度顔を出した。
「何?」
「えっと…今日は、その、君に会えて嬉しかったよ。ずっと、こうして直接会って話したかった」
「……」
「もし、機会があれば、またこうして話ができると、嬉しい」
そして彼は恥ずかしげに、彼女に右手を差し出した。
「……」
彼女は、当惑した表情でそれを見つめた。なぜこんな事を言われるのかわからない、と言う表情ではなく、寧ろ「それが何なのか理解できない」と言う顔だった。
結局、彼女はその手を取る事なく扉を閉めた。ファイルを抱きしめて、彼女は扉に寄りかかった。
変な人。そんな言葉が、ため息に混じって出た気がした。
次の日、彼女は彼が届けた課題をいつもの通り、驚くべきスピードで片付けた。数学の問題など、どれほど高度でも足し算と変わらなかったし、国語の小説も本質を見抜く彼女の目の前では、小学生の書く文章とさして変わりがなかった。
そうして、あらかた終わってしまうと、また暇な時間が訪れる。普段なら、本棚の本を読むところだが、何故かその気にはなれなかった。
それだけではない。課題を処理しているときでさえ、自分の心がどこかに囚われているような、そんな不思議な心理が、彼女を捕らえて離さなかった。
何が私をそこまで振り向かせようとするのだろう。彼女は目を閉じて、その方向を指す糸を辿った。その終端にいたのはー
「…ツダ君?」
何故、彼がここに居るのだろうか。どうして、私の心の中であの少年めいた笑みを浮かべているのだろうか。考えたところで、彼女の頭脳は何も答えない。それ以上の性能を持つものなど、この世にほとんど存在しないであろう彼女の知性さえ、明確な回答を出すことはできなかった。
また数日経った頃。そろそろ新しい課題が届く頃だった。時間は19時過ぎ。そろそろ両親が帰ってくる頃だ。偶には何かしてみようか、そう思って席を立った矢先。ベルが鳴った。誰だ。そう思って出てみると、
「あ、巳波三中のツダです…」
アイツだった。課題を届ける時はポストに入れろ、そう言ったはずなのに。
彼女の中に、久しく忘れていた怒りが沸々と湧いて来た。わざとならば言わずもがな、たとえ忘れてしまっていたとしても、怒りが晴れる理由にはならない。一週間前の言付けさえ覚えていられない、ヘラヘラした都合のいい男…!彼女は心中で彼を罵倒しつつ、どうやって礼儀の範疇で非難を伝えるかを考えながら、扉へ向かった。
しかし、彼女が扉を開けることはなかった。程なくして、聞き知った別の男性の声が聞こえて来たからだ。
「君、うちに何か用かな?」
父親の声だった。彼女は開けようとした扉から離れ、その言葉に耳を傾けた。
「はい。自分は巳波三中のツダと申します。ツムラさんに、今週分の課題を渡しに来ました」
「そうだったのか。わざわざありがとう。でも、こうして直接来る必要はないんだよ?今度からは下のポストに入れておいてくれればそれでいい」
「あっ!そういえば…先週アオイさんにそう言われていました…」
彼は今ちょうど思い出した、と言う様子で手を叩いた。何を白々しい…!彼女の怒りはまた増した。
「葵に…?あの子と直接会って話したのかい?」
「え、ええ。先週に…」
「そうか…」
だが、父親の悲しげな言葉を聞いた途端、その怒りは急速に萎んでしまった。
そうだ、いつもそうだった。皆最初はおべっかを使って、さも彼女を理解したように装った。しかし、皆その本性を彼女や家族から隠し通すことなどできなかった。恐れや妬み、面倒、忌避。そんな本性は、いとも容易く笑顔の化粧を貫いて顔を出す。彼も、あの彼も変わらないだろう。
代わりに心を満たしたのは、虚しさの色をした諦めだった。
「とてもびっくりしました。何たって、あんなに綺麗で、それに…知的な女の子だったから」
彼女の心を満たした諦めは、その言葉でごく簡単に干上がった。今、今彼はなんと言った?綺麗?この不気味で、死人のような白い肌が?知的?この何もかもを嫌い抜いた、曲がりくねった老木のような根性が?
反応は、同時だった。彼女が内心の驚きを息として吐き出した時、父親も同じ反応を示していた。
「葵が、綺麗で、知的?」
言葉が見つからず、難儀している子供のように、父親は鸚鵡返しに問う。
「はい。…その、前の中間テストで、ランキングが出されたんですけど…アオイさんが一位だったんです。それも、全教科満点で」
そう言えば、確かにそんなものもやった気がする。成績が出せない、とか言って無理矢理に押し付けられたテスト。参考点とはいえきちんと点数が出されていたのか。
「一度も学校に来てないのに、一位だなんて、僕みたいな底辺層には信じられなくて。最初は、家にいるのをいいことにカンニングでもしたんじゃないかと…」
そんなふざけた事、するわけが無い。第一、しなくたって満点が取れるのだ。100点が110点になるわけでは無いのに。
「…他にも、偶にアオイさんの作文が紹介されたりするんです。その内容も、とても知的で、面白くて…」
あんな物、書けと言われれば5分もあれば骨子ができてしまう。中学レベルならば、その程度のはずだ。何を驚いているのだろう?
「数学の問題も、教科書のアプローチよりも遥かにわかりやすくて、それでいて一つ一つ丁寧で…何というか、プロみたいな…」
こいつは勝手に私の課題を覗き見たのか。道理でやたらと詳しいわけだ…。
「だから、ずっと会ってみたかったんです。会って、話してみたかった。それから、もしできるなら…友達にもなりたかった」
どうして。どうして、彼はそんながむしゃらに進めるのだろう。わざわざ引き篭もっている人間を引っ張り出して、あまつさえ友達になりたい、だなんて…!
話を聞きながら、彼女はふと気がついた。自分の心が、あの子供っぽい彼の言動に振り回されているという事に。心の中で、一々彼の言葉に反論して、否定していた。今まで、興味のない事に対して、彼女は何か考えるという事をしたことが無かった。ただ脊髄が生み出す、瞬間的な反応に任せているだけだった。
「だから、委員長が怪我をして入院した時、代わりの役目に立候補したんです。偶然マンションも同じでしたから。もし、運が良ければ会えるかも、と思って。そうしたら…本当に会えました。少しの時間でしたけど」
「…それで?」
「さっきも言った通り、本当にびっくりしたんです。あんなに綺麗な女の子には、会ったことが無いです。それに…」
もう沢山だった。彼女は耐えきれず、部屋に戻った。見えすいた嘘に飽きたのではない。
寧ろ、彼の言葉に嘘は全く感じ取れなかった。彼の言葉は、今まで彼女が聞いて来た言葉とは全く違う、それこそ子供が叶いっこない夢を、本気で思い語るような。そんな温かさがあった。
「どうして…かな」
そうぽつりと呟く。その言葉は、冷え切った彼女の心の奥底に、蝋燭ほどの小さな火を灯した。
その火の名前は「興味」と言った。
心の奥底に生まれた、ほんの僅かな「興味」。常人にとっては、道端で見つけた名も知らぬ花に抱くような小さな「興味」。
だが、差し当たって彼女にとってはそれで十分だった。
2人の距離が縮まるには、今のところはそれで十分だったのだ。
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