恋愛以上、友情未満

津田薪太郎

第1話

彼女は、全てが嫌いだった。優しく照り輝く太陽も、その下で笑う人々も、真摯な愛を注ぐ両親もそして何より、自分自身さえ。光の下で見える全てが、彼女は嫌いだった。


朝7時。彼女はいつも、真っ暗な部屋の中で目を覚ます。遮光カーテンは、外から差し込む光のほぼ全てを吸い付くし、部屋へと入り込む事を許さない。暗闇の中で、彼女はベッドから起き上がり、遮光カーテンに手をかけた。

彼女にとってそれは、普通の人がするような、ごく何気ない朝の動作ではなかった。彼女にとってその行為は、純粋にズレた体内時計の針を正すだけの気の進まないルーティーンだった。

カーテンを僅かにずらすと、そこから朝日の光が差し込み、部屋の中と彼女を照らす。

「っ…」

細い針を差し込まれた様な、鋭い痛みが眼に走る。ごく僅かのうちに、彼女はカーテンを閉め、部屋の入り口近くにある電気のスイッチを入れた。

部屋の天井の蛍光灯が、日の光よりずっと優しく部屋の有り様を描き出す。何冊もの本が詰め込まれた本棚、部屋の隅に置かれた質素なベッド、遮光カーテンで閉ざされた窓のそばに置かれたデスク。そして、扉の脇に放置されている姿見。

そこには、1人の少女がいた。その少女は、しどけない服装で、まっすぐの彼女の方を見つめていた。

少女は、空っぽだった。その髪の毛、肌は遠い過去にその色素だけを永遠に置き忘れてきたのだ。少女の肌は、徹底的に色というものを抜かれた…何も描かれていないカンヴァスだった。

その空っぽの…色が何も無い顔には、二つの瞳と薄紅色の唇が、一滴だけ垂らされた絵の具の様に、その存在を主張していた。

彼女は、姿見の中の少女を、ありったけの怨嗟を込めて睨みつけた。その視線は、怨みと、やるせない怒りと、何よりも…自分への深い悲しみが込められていた。


7時半。着替えを済ませて、彼女はリビングに向かう。そこも同じ様に、彼女の為に遮光カーテンで閉ざされていた。

食卓には、2人の男女が先に座っていた。

「おはよう」

「おはよう」

彼女の姿を見ると、柔らかく親愛の笑みを浮かべる。

「おはよう。父さん、母さん」

彼女は短く呟いて、席についた。

朝食。そこだけを切り取れば、彼女達3人はどこにでも居る、ごく平凡な家族に見えたことだろう。しかし、皆の手つきはどこかぎこちない。彼女はごく淡々と食物を口に運び、両親はその様子をどこか探る様な目で見ていた。

彼女は、両親が嫌いだった。だがそれは、両親にその原因があったわけではない。2人は、親が当然持つべき良識と、子供への愛情を十二分に持っていた。2人は、ほんの少しだけハンディを持って生まれてきた愛娘を精一杯愛していたし、懐と時間の許す限りそれができるだけ彼女の人生において小さくなる様に努力してきた。

それでも、それを十分に理解していても彼女は両親を好きになれなかった。母親の白い肌、黒い艶やかな髪。いや、父親の半分白くなった灰色の髪、赤ら顔で少し色黒の肌でさえ、彼女にとっては羨望の的だった。


8時。2人がそれぞれ仕事に出てしまうと、彼女は家で1人になる。そのまま、日が暮れるまで彼女は家の中で過ごす。

学校になど、もう3年以上通っていなかった。

彼女は部屋に戻り、デスクに置かれた課題のファイルを広げる。国語、数学、英語、理科、社会…各教科が一週間の間に進める予定の内容を、全てプリント形式に直したそれは、普通の人間が終わらせるにはかなりの時間を要する量だった。

彼女は黙って鉛筆を走らせ、ごく短時間のうちに問題を解決していく。その様子に迷いはなく、あらかじめ全ての正解を知っていると思わせる様なものだった。

身体的なハンディと、それに付随したより重篤な精神面のペナルティを誰かが憐れんだのだろうか、彼女は同年代はおろか、標準的な成人に比べても抜きん出た知能を持っていた。陳腐な表現であるが、かつて彼女は「神童」とも言われたし、また現にそう呼ばれるに足るだけの能力を維持していた。

学科の勉強など、彼女にとっては日々繰り返される作業に過ぎず、またどれほど複雑な問題や文章でも、彼女の目にはその本質や解が「違う色のペンで書かれた」様に見えるのだった。


12時。課題を大方片付けてしまうと、彼女は席を立って昼食の支度を始める。薄くスライスされた食パンと、卵と牛乳と砂糖、バターを用意しフライパンをコンロにかけた。

暫くして完成したフレンチトーストを、彼女は無感動に完食した。食事はさして面白いものでも、心を動かす様なものでもなかった。


14時。全ての課題を終えると、彼女は暇を持て余した様に、ぼんやりと部屋を見回した。ややあって彼女は本棚から、一際分厚い英語の論文集を取り出す。他にもその棚には、各国の長編小説や無数の論文集、高度なパズルブックなどが収められていた。それは全て、娘の無聊を慰めようと両親が用意したものだった。

彼女は一つ一つ、時間をかけて論文を読み込んだ。それ以外に、すべき事など無かったから。


18時。日もすっかり落ちて、夜の闇が街を覆った。彼女はカーテンを開け、窓から外を眺めた。マンションの高層階から眺める街は、何も見出せない空虚な夜空と、不思議な対比をなしていた。本来ならば、空に浮かんでいるはずの星は全て地上に降りて、各々の輝きを彼女の目に伝えている。それが、彼女にとって唯一のこの世界に存在しても良い外からの光だった。


19時。両親が帰宅した。同時に彼女は外出の支度をする。夜の散歩に出る為だ。

夜の散歩は、万事素直な彼女が唯一両親に譲らなかったわがままだった。

元から体が弱い彼女が、1人で外に出るなど到底許容できない。両親は最初はそう言ったが、最後には根負けして幾つかの条件をつけた上でそれを許可した。

一つ、必ず携帯と防犯ブザーを持つこと。一つ、マンションから100メートル以上離れない事。一つ、7時半までには必ず家に戻る事。

そんな条件を遵守していては、ろくな散歩など望めない。しかし、彼女はそれを呑んだ。詳しい理由は当人にもわからない。が、夜のごく僅かな時間の外出は、彼女にとってはとても貴重なものだった。

マンションの周りを、2、3周ぐるぐると回るだけの小さな旅路。30分かけて、彼女はゆっくりとその旅を進んだ。


19時半。帰宅した時には、すでに夕食の準備ができていた。2人は朝と同じ様に席について、彼女を待っている。

彼女が家から殆ど出なくなってから、両親は必ず朝夕の食事を家族揃って摂るようにした。特に意図や詳しい根拠があったわけではない。2人にとって、娘との絆を、少しでも深くしたいという素朴な感情がこの様な習慣を生み出した。

だが、やはりその情景は朝食の同じ様な、心温まるものにはならなかった。誰も何も喋らない、笑顔もない。淡々とした「作業」にしかならなかった。


21時。入浴を終えて、就寝。また明日も、同じような一日。それを思って、彼女は眠りについた。

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