さよなら風たちの日々 第4章-4 (連載9)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

さよなら風たちの日々 第4章-4 (連載9)


             【9】


 遠くからヒロミが歩いてくる。

 夏物の白いセーラー服。両袖と左胸に紺地に白い三本ラインが入ったセーラー服。。その肩で、ヒロミの柔らかい髪が、歩くたび波打っている。か細いというよりも、よく引き締まった脚が膝までのプリーツスカートから伸びている。手に本革製の学生カバンと布製バッグ。靴はブラウン系のコインローファーで、その上から白いソックスが少しだけ覗いている。

 正門の少し前まで歩いてきて、ヒロミはようやくぼくに気づいた。

 足を止め、少し驚いたような表情を見せ、それからはにかむように笑って、頭を下げた。ふわりと広がる髪。そして何事のなかったように、元に戻る髪。

「お先に失礼します」

 ぼくの前を通り過ぎようとするヒロミに、ぼくはあわてて声をかけた。

「ちょっ、ちょっと」

 ヒロミはその声に立ち止まり、怯えた小動物のような目でぼくを見た。

 ちっくしょう・・・

 ぼくは心の中でそう叫び、舌打ちした。

 ぼくはヒロミを待つあいだ、あいつが来たらこう言おう、ああ言おうとあれこれ考えていたのだが、目の前に現れたヒロミにかけたぼくの言葉は「ちょ、ちょっと」という情けない呼びかけだったのだ。

 そんなふがいない自分をののしりながら、ぼくはヒロミを見た。

 そこには大きな不安を貼りつけた彼女の顔があった。

 ヒロミとぼくは屋上と校庭で手を振りあったり、廊下ですれ違ったりすると挨拶する仲にはなっていたが、しかし面と向かって話そうとしているのは、屋上で読書しているヒロミに声をかけたとき以来だろうか。

 ぼくの心臓はなぜか、大きな鼓動を繰り返している。

 ぼくとヒロミに、沈黙が流れた。

 ヒロミは怪訝そうな顔をして、ぼくの言葉を待っている。

 何か叱られるのだろうか。文句を言われるのだろうか。

 ヒロミはそんな困惑の表情を浮かべ、ぼくの前で立ち止まっている。


              【10】


「これ、読んで」

 ズボンの後ろポケットから信二の手紙を無造作に出し、ぼくはヒロミにそれを突き付けた。ほんとうは丁寧に渡すつもりだったのだ。けれど実際には手紙は、彼女に押し付けるような形になってしまった。

 ヒロミの目は手紙を凝視したまま、動かなくない。そして受け取った手も、何かに固定されたかのように動かなくなってしまった。

 言葉に詰まって、ぼくも黙った。一所懸命何かを言おうとするのだが、こんなときに限って、言葉は出てこない。ぼくは拳を握りしめ、はがゆい自分に唇を噛んだ。

 そのとき、時間は無為のまま流れたんだ。それはまるで二人を永遠に隔てるかのようにだ。


              【11】


「じゃ、用はそれだけだから」

 いたたまれなくなったぼくがそう言うとヒロミは息を吞み、何かを言おうとして唇を震わせた。

 ぼくはそれに気づきながらもわざと無視し、きびすを返して校舎に歩きだす。

 校舎に向かって歩きながら、ぼくはもう少しこんな話をすればよかったなと思った。

 実はねえ、おれといつも一緒にいるやついるだろ。信二っていうんだけどさ。そいつがきみのこと、好きなんだって。それで、付き合ってほしいって思ってるんだってよ。それでおれ、手紙渡してくれって、やつに頼まれちゃってさ。受け取ってくれよ。あ、それから返事書いてやってくれないか。よあいつ、いいやつなんだよ。頼むよ。おれが保証するからさ。

 彼女に言いたかったそんな言葉を反芻しながらぼくは、何気なく後を振り返った。  

 すると驚いた。

 正門にはまだヒロミが立ちつくしていて、ぼくを見つめていたのだ。

 ぼくは立ち止まり、頭をごしごし掻きながら、空を仰いだ。

どうする。引き返すか。このまま校舎に戻るか。

 しかし引き返しても、ヒロミとうまく話せる自信がおまえにあるのか。

 ぼくは自問自答した。

 ・・・ダメだ。話せない。

 仕方なくぼくは、ヒロミに大きく手を振ってみせた。いつも屋上にたたずんでいるヒロミにそうするように、今度はぼくは正門前に立っているヒロミに手を振ってみせたのだ。 

 するとヒロミはやっと安心したのだろう。笑顔を見せて小さく手を振り、もう一度頭を下げて、やがてきびすを返して歩いていった。


 ぼくはしばらくその姿を見送ったあと、大きくため息をついた。

 どうしてぼくは、あんなにも動揺したんだろう。

 ぼくももしかして、ヒロミに恋しているんだろうか。

 ぼくは心の中で自問自答した。

 ダメだ。それは絶対ダメだ。信二が恋してる女を好きになってはダメなんだ。

 ぼくは絶対、信二を裏切ることなんてできないからだ。

 ぼくはたった今の出来事を反芻して、用意していた言葉が何ひとつ言えなかった自分を情けないと思った。ぼくは元々口べたではある。それにしても、さっきの自分は不甲斐ない。


 校舎には明かりがともっていた。その明かりが夕闇に包まれた校庭を、ぼんやりと浮かびあがらせている。シルエットになった西側校舎の背景に赤紫に変わった空が広がり、生温かい風はときおり、思い出したように校庭の砂を巻き上げていく。

 

 実はこの日のこの出来事が、ぼくとヒロミのボタンの掛け違いの始まりだったのだ。

 それがあんなことになるなんて、この時点で誰がそれを想像することができたんだろうか。




                           《この物語 続きます》






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