ある蛇の夢
「──ッ!」
ひどく生々しい夢から目覚めて、私はしばらくの間、夢と現実の区別がつかずに放心していた。
寝惚けた頭のまま、何の変哲もない白い部屋をぼんやりと見回して、少しずつ落ち着きを取り戻す。
「おはよう、
起きがけの私を香ばしい匂いと共に出迎えたのは、
私にとっては保護者のような存在で、私は勝手に先生と呼んでいる。
「おはようございます、先生」
「ちょうど卵とベーコンが焼けたところだよ。さ、座って」
そう言いながら器用に車椅子を動かして、先生は食卓に着いた。
私も先生に
「……いただきます」
「いただきます。……もしかして、また何か夢を見たの? 隈ができてる」
よく見ているな、と思いながら首肯する。
「はい。今回の私の視点は、病棟から出られる日を夢見ていた少年のものでした」
私は、よく夢を見る。
具体的で、鮮明で、連続性があって、生々しい質感を伴った、まるで実際の出来事を当事者の視点に同化する形で体験しているかのような──そうとしか思えないほどの、重みのある夢を。
この夢が何を意味するのかは、私にはまだわからない。
それでも、夢を見た後はいつも、私が私でなくなるような心地にひどく
「夢の内容は振り返れるかい? ゆっくりでいいから」
「はい」
先生に促され、私は深呼吸をした。
「ツクモという名の少年はある日、レイと名乗る不思議な少年に出会い、それから程なくして病棟の真実を知った。そこは非人道的な人体実験を繰り返している軍事施設で、
先生は私の話を簡潔に要約して、やれやれと頭を振った。
「なかなか救いのない話だね」
「彼は精神に干渉する能力を持つレイの誘いに乗り、希望を胸に、施設を脱走して外の世界へと駆け出して行きました」
……でも、と私は口ごもる。
「なんだい?」
「どこか、違和感があるんです」
「違和感?」
私は頷いた。
「はい。レイは何者なのか。本当に存在するのか。……そして、少年の主観が、どこまで正常なのか」
「……話してごらん」
そう促され、私は少しずつ、感じたことを言語化していった。
レイは「俺も君たちと同じ被験体のひとりだ」などとは一言も言っていない。
実際、煙に巻くような言動が多く、「出歩けるようになったのはつい最近」という発言にもやけに含みがあった。
「つい最近身体を乗り換えて、周囲の認識を操作して暗躍し始めた」──例えば、彼が言う組織の「お偉方」の脳が移植された個体である可能性。
「精神に干渉する能力を駆使してつい最近侵入してきた外部からの襲撃者」──すなわち、その軍事施設にとっての敵である可能性。
そして──「最近になって一人歩きできるようになってしまった」少年の別人格や幻覚である可能性。
そのどれもが同時に存在していて、否定しがたかった。
レイが脳を移植された個体であった場合、どうして組織を裏切るような真似をするのか──それが脳の元々の企てだったのか、移植先の肉体に引き摺られてそうなったのかはわからない。
しかし、この場合、レイが少年に喰われたがる理由は想像に難くない。
理解者を欲している。あるいは終わりたがっている──贖罪を望んでいる。
レイが外部からの襲撃者であった場合。レイの能力の性質からして、侵入も、少年を良いように騙して連れ出すことも容易だろう。
少年と懇意にしていた少女モモの洗脳が突如として解けた背景にも、レイの関与があるのかもしれない。
あるいは。「被験体九十九としての記憶」は「忘れさせられていたものを思い出した」のではなく、「あの瞬間にレイによって植え付けられた偽りの記憶」なのかもしれない。
レイの能力を前提にするなら、彼らがいたのが本当に地下深くに隠された施設であったかどうかさえもが怪しくなってくる。
仮に地上の建物だったとしても、本物の窓から射し込む光や見えるはずの風景を認識から外し、『これまで見てきた空は画面に映された偽物だったのだ』と思わせることも容易なのではないか。
そして、少年の主観が狂っている──そもそもレイが実在しない可能性。
レイを認識できているのは、少年ただひとりであるように思えた。
レイは、少年が生み出したイマジナリーフレンドや幻覚、あるいは彼の異常性を集約した別人格、なのかもしれない。
少年は元々精神的な問題を抱えていて、その治療のために入院していた。
記号でも被験体識別番号でもなく、正しく彼は「ツクモ」という名前の少年なのかもしれない。
些細な情報を、己の中のストーリーと結びつけて。
衝動や妄想を抑える薬を、己を害する毒であると思い込み。
病院を、監獄や軍事施設であると、己は人体実験されているのだと確信し。
誰が洗脳したわけでも、命令したわけでもなく、豹変した少年自身が、衝動のままに他の患者や職員に危害を加えた。
──さして珍しいことでもない、ありふれた話だ。
精神科の閉鎖病棟であれば、嵌め殺しの窓の存在もそう異常な存在ではないだろう。
拘束衣は、彼の凶暴性を危惧してやむなく着せられたものだと考えれば説明がつく。
そして。
レイが存在していても、そうでなくても。
もしも、もしもだ。
あそこが本物の「地上に建てられた病院」であったならば。
少年が追っ手を振り払って登り立った「地上」とはいったいどこなのか。
彼が駆け出した先に、本当に自由な未来はあるのか。
それとも──……。
「……っ」
覚醒の直前に挿入された
「大丈夫かい?」
甘く掠れたテノールで気遣われて、少しばかり気分が楽になる。
「ええ。……おかしいですよね、こんなことを言って。そもそも夢の中の話でしかないはずなのに、真面目に考えたところで仕方のないことなのに」
でも、と言葉を探した。
「どうしても、本当の出来事であるような気がしてならないんです。……今日の夢も、これまでの夢も」
「……」
先生、と呼びかける。
「これは、この夢は、一体なんなんでしょうか」
私は無意識に、怖い、と呟いていた。
「怖い? ……ふむ」
先生は、少し思案するような素振りを見せた。
「落ち着いて、ひとつずつ確認していこうか。……君の名前は?」
「
「うん。……何が怖いのかな」
「わからないこと、です」
たどたどしく、言葉を紡いだ。
私には、過去の記憶がない。
大きな事故に遭って天涯孤独の身になったこと、同じ境遇の先生に引き取られたこと、先生も同じく記憶を失っているらしいことを聞かされたのみである。
この白い家の中だけが、私の世界のすべてだった。
だからこそ、わからなかった。
私はどうしてこんな夢を見るのか。色々な人の視点を追体験する、その理由と意味。それこそ、特殊な能力でもあるのか。
何の手がかりもないまま、わからないままに、膨大で重たい夢の数々に、私というちっぽけな存在が飲み込まれ、押し潰されていくような、そんな心地がして。
だから怖いのだと私は語った。
「
先生は、呟くようにそう言った。
その表情は、どこか寂しげなものであるように思えた。
その表情が何を意味しているのか、私にはわからなかったが。全体的に色素が薄い先生の外見も相俟って、その姿はひどく儚げに見えた。
朝食を食べ終えたばかりだというのに、私はなんだかひどく眠くなってしまって、自室へと戻った。
どうか夢を見ない深い眠りを、と願う一方で、先刻見た夢の続きが幸多きものであることを心のどこかで祈りながら、私はゆっくりと瞼を閉じて、押し寄せる眠気に身を任せた。
欺瞞の匣と蛇の夢 宮代魔祇梨 @AmaneMiyashiro
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