生乾きのシャツを干してくれた君へ

白と黒のパーカー

第1話 生乾きのシャツを干してくれた君へ

 目の前に山積みにされた大量の洗濯物。

 数日前から降り続けている雨のせいでまったくもって完璧に乾く気配などない。

 そもそも乾かす気力もわかないし、乾かし方も知らない。

 それこれも全部君が出て行ってしまったというその事実だけで、僕のこれからの行動すべてのやる気を粉々に粉砕した。

 なぜ君が今僕の隣にいないのか。

 僕が何か悪いことをしたのだろうか。

 ご飯を食べ終わった後お皿を片さなかったから?

 それともトイレの便座を下げなかったからだろうか。

 よくよく思い返してみれば心当たりはたくさんある。


『それでは本日のニュースです。昨夜未明、K県の山奥に位置するY研究所で――』


 留美子には悪いことをしたと思う。

 仕事が忙しいと言い訳をして最近は碌に話もしていなかった。

 先週の土曜日、めったにない君と僕の休日が被る日に出かける約束をしていたことを忘れて僕が部長とゴルフに行ったことは本当に悪かったと思っている。

 でもあれは仕方なかったんだ。新しいドライバーの使い心地を試したくなかったのかと言われればそこに嘘はつけないが、部長に無理やり誘われれば肩身の狭い平社員だ、断れるはずもないんだよ。


『――そばにいた研究員たちが異変に気付いた時にはもう遅く――』


 これからもずっと隣にいてくれると、そんな漠然とした意味の分からない根拠のない自信。

 今までの自分がどれだけ愚かだったのか、すでに手遅れになってから気づく。

 よくテレビなんかで、大切なものは失ってから気づくなんて言葉を聞いては毎回鼻で笑ったものだけど、今度は僕が鼻で笑われる番だ。

 いや、もうすでに笑ってくれる人なんていない。


『――突如苦しみだした様子で――』


 思い返せば君と初めて出会ったあの日もこんなどしゃ降りだっただろうか。

 その日は確か晴れの予報で僕は傘を持っていなかった。

 予期しない雨に軽い苛立ちを覚えながら学校から帰るためのバスを待っていると、奥のほうから駆け寄ってくる一人の可憐な女の子。

 それが留美子との最初の出会いで、僕はそこで一目惚れ。

 傘を持っていないから雨に濡れ、体にピトリと張り付いた服はひどく僕の心をかき乱し、冷えていたからだを火照らせる。

 ぶしつけにもジッと見ていた視線が彼女にばれて、ムッとした表情ときれいなハイキックが僕の顔面にクリーンヒットする頃には彼女のことが大好きになっていた。

 思い出は美化されるものだと思っていたが、これでは僕がまるで変人みたいじゃないかと文句を言ってみる。

 それに対する答えなんてあるはずもないと知っていながら。


『――Y研究所では様々な治療薬の研究を担っている重大な施設で、人々からの信用がとても重要であるにも関わらず、この悪辣極まりない事件をひた隠しにしていたのは本当に許しがたい――』


 過去の思い出に縋ることをやめて、窓の外を眺めるととても綺麗な山々が見える。さんざ降り続けている雨のせいで霧に包まれているが。

 留美子たっての願いで、夢のマイホームは自然に近いところがいいということだった。

 僕は虫が嫌いだったから、自然の良さなんてこれっぽっちもわからないし徒歩十分圏内にコンビニがないことも結構不満だったりする。

 でも、それでも君が好きだったから。ただそれだけの理由で僕たちはこのK県一番の青々と茂る大自然に囲まれた一等地に家を建てた。

 家賃は田舎だということで土地代が浮き、その他諸々色々あって平社員でもなんとかやっていけている。

 最近は僕も少しこの土地の雰囲気に慣れてきて、君が好きだという気持ちを理解してきていたんだ。

 だからもう一度君に会いたい。


『――もうそんなことを言っている場合ではない、早く逃げなければ!この国の終わりはもう始まっているんだ――』


 今朝だって普通にしていたじゃないか。

 朝ごはんはやっぱりご飯とみそ汁と焼き鮭だよねって話。今日で何回目だっけ、しすぎてもう覚えてないや。

 昨日の夜少しだけ晴れていたから願掛けで洗濯物を干したけど、やっぱり朝から降り出して急いで取り込んでって笑いあっただろう。

 それから今日はまた二人の休みが重なった日だから今度こそ家で二人のんびりしようって約束して。

 昼ごはんの買い物に出かけていく君の背中を僕は玄関から見送ったじゃないか。


『――Y研究所から漏れ出した新薬は人間を終わらせる。その効果と速度は尋常ではなく、人を一瞬で死に至らしめつつ身体の機能は生かし続ける。そこからさらに脳を弄って食べ物の概念をね、すべて人間に置き換えてしまうんだよ。至極簡単に言うならゾンビ化させるってこと――』


 ピンポーン・ピンポーン・ピンポーン


 玄関のほうから聞きなれたチャイムの音が聞こえる。

 出なくても何となくそれが何なのかはわかる。

 帰ってきたんだ、留美子が。

 油の碌に引いていない錆びた自転車のように身体が動かない。それでもどうか無理やり引きずってドアの前までたどり着く。

 密閉されているはずなのに漂ってくる、腐臭と血肉の香り。今まで嗅いだことのない異様な空気に吐き気を催す。

 それでもこの扉の先には愛する妻がいるのだ。開けねばならない、それがもう自分の知っている人間ではなかったとしても最期まで責任をもって添い遂げる。

 絶え間なく汗の流れる手をズボンでぬぐい、ドアノブへと手をかける。

 心なしかいつもより重く感じるドアの抵抗。

 開いた絶望のその先に立つソレ。


「た......あい......ま」


 一瞬よぎった自分の思考に苛立ちを覚えた次の瞬間、彼女のその声を聴き涙があふれだす。


「ああ、おかえり」


 僕は妻を抱きしめた。

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