(3)
油断など出来なかった。
餌を啄もうとする害獣を追い払うかのように、佐倉の傍で敵意をむき出しにするすずめ丸は厄介この上ない。
こんなことならば、老僧から抜け出すのではなかったと、心から《心喰い》は歯噛みした。
好奇心が好機を殺したようなものだった。
まさか、人の身から強制的に押し出されるとは夢にも思っていなかったから。
それでも、空っぽの器ならばどうとでも出来ると切り替えられていた。
それがまさか、《心》が近づくことで追い出されるとは欠片も想像など出来なかった。
出来るわけがなかったのだ。
何もかもが規格外。想像外。
本当に何が切っ掛けでそんな事態になっているのかが分からない。
分からないし気に入らない。だが、それはある種の希望でもあると言えた。
すずめ丸の手の届かない場所で漂いながら、唐突に《心喰い》は気が付いたのだ。
あいつに出来たのならば、自分にも出来るのかもしれない――ということに。
思い至ってしまえば、問わずにはいられなかった。
「なあ、一つだけ教えてくれないか」
「何をだ!」
「どうしてお前はそうなった?」
「だから知らねぇって言ってんだろ!」
「だが、それが分かればオレがそいつに執着する必要はなくなるんだぞ?」
「その前にオレが喰い殺してやる!」
「別に隠す必要はないだろ?」
「だから知らねえんだよ! オレはいつも通りにそいつの《心》を喰らっただけなんだからな!」
「そんなはずはないだろ」
せっかくの晴れやかな気分が徐々に曇っていく。
「どうして隠す? 何がそんなに不都合なんだ?」
「だーかーら! 不都合とか隠してるとかじゃなくて、本当に知らないんだよ!」
《心喰い》は顔を顰めて見下ろした。
やはりこれは、あの人間の方に原因があるのかと視線を移し、初めて《心喰い》は気が付いた。
「おい。何してる?!」
いつの間にか自分を取り戻したらしい人間が、再び帳面に筆を走らせているのを見たためだ。
それとほぼ同時に、《心喰い》は気が付いた。自身が再び人間の方へ引き寄せられているという現実に。
ゾッとした。
自身の足の先がさらさらと崩れていくのを見て。
それがちり芥のごとく、細かく陽光を反射させながら人間に吸い寄せられていく様を見て、《心喰い》は本能のままに逃げ出していた。
冗談ではなかった。一度は望んで入り込んだ人の身だが、何が起きるか分からない。
常識が通じない人間の中に入り込み、そのまま《心喰い》のごとく喰い滅ぼされては敵わない。
ここでいつまでも睨み合っていたところで、すずめ丸から人の身を得られる方法を聞き出せるわけでもない以上、見切る選択肢を選んだところで誰から責められるものではない。
命あっての物種。ここで消されて堪るかと、なりふり構わず飛んで逃げる。
だが、どれだけその場から離れようとも、躰の崩壊は止まらなかった。
さらさら、さらさらと音まで聞こえそうなほどに、少しずつ少しずつ。しかし確実に躰は端から削られて行っていた。
《心喰い》は、嗤っていた。
恐怖に引き攣った歪な笑み。
笑わずにはいられなかった。
これまでは自分が喰らう方だった。
喰われてしまった方がましだと言わんばかりの状況を作り出し、煽り、唆し、一口で喰らって来た。
ある意味それは慈悲だった。慈悲と言っても過言ではないものだと、人の身に入り込み言葉を知り認識していた。
だが、これはどうだ。
徐々に徐々に削り取っていく。じわじわと躰が奪われる恐怖心を与えて来る。
あの人間が、《心喰い》に心を与える代わりに《心喰い》の力を有したのだとしたら、人間とはいかに残酷な生き物なのかと。
故に《心喰い》は人に惹かれる。人の残酷さに惹かれる。
人ならざるものよりよほど残酷な人間の所業に。同族でありながら、他者の不幸を喜ぶ人間に。よほど自分の方が慈悲深いと改めて思いながら、嗤う。
《心喰い》は嗤う。嗤う。嗤う。嗤う。
逃げども逃げども逃れられない。
あの筆が書き続ける限り逃れられない。
解かっていても戻れない。
全て分解されて吸収される。
《心喰い》の死。
逃れられない死を前に、《心喰い》は嗤う。
嗤うしかなかった。好奇心が《心喰い》を殺した。
手を出してはいけない相手だった。
見極めを間違えた。
これでは散々笑いものにしてきた人間たちと何一つ変わらない。
嗤うしかなかった。これまでと同じように。
消えたくはないと思う。ただ、同時に面白いとも思う。楽しいとも思う。
まさか自分がこのような終わりを迎えるなど思いもしなかった。
思わぬ驚きが自身を襲う。
これを笑わずにはいられなかった。
何よりも《楽しい》感情を好んで喰らって来た《心喰い》として、《心喰い》は嗤った。
空は晴れ渡っていた。雲がたなびき光が溢れ。見下ろした木々は青々と輝いて。
その下を有り余るほどの人間たちが生きていた。生きて、他者を妬み、嫉み、嘲笑い。他人の不幸を望み、願い、苦しみ、悩み、恨んで生きていた。
楽しかった。その心を喰らうことは。
それができない。身の程をわきまえずに手を出した結果。
「あー……羨ましい」
その一言を残して、《心喰い》は解けて消えた。
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