(3)

「これにて、《心移し》完了」


 淡々とした佐倉の声で、初めてすずめ丸は獣人姿の《心喰い》が逃げ出した理由を知った。

 凄まじい勢いで距離を取り、一体何をするつもりかと全神経を集中させていたら、佐倉が意識を取り戻していたことにすら気が付いていなかった。


「佐倉、大丈夫なのか?!」


 慌てて駆け寄り膝をつき、顔を覗き込めば、細虫のごとき文字たちがウゾウゾと蠢き佐倉の内へと吸収されて行くところだった。

 あの獣人が入り込んだ時とは違う能面のような顔を見て、すずめ丸は心底ほっと息をつく。

 それを見て、佐倉は不思議な心持ちになった。

 心などないというのに、言われてみればすずめ丸が傍にいるとき、幽かながら失われた心が動くような気がしていたが、そうか、すずめ丸の影響だったのかと思えば全て納得が出来た。


「な、なんだよ。そんなじっと見て」

「いや、お前が私だったのかと思ってな」

「そ、れは……」

「私の心はこれほどまでにくるくると表情を変えるほどに生き生きとしていたのかと思うと、なんだか気味が悪いと思う」

「おい」


 淡々と拒絶され、すずめ丸の頬が引き攣る。


「言うに事欠いて気味が悪いたァなんだ。気味が悪いたァ」

「仕方がないだろう。私に自身を愛でるような趣味はない。が、そうか。君がな。私の心が姿を持つとそうなるのだな」

「そう……なんだろうな。オレ自身は元々こんな性格みたいなもんだったから、お前の心そのものだと言われても実感なんて湧かねぇよ」

「だろうな。少なくとも私は君のような振る舞いをしたことは一度もないと断言出来る。だが」

「オレがあんたにこだわる理由も」

「君が私の傍にいてくれる理由も」

「元の居場所にいたいと思っているからと言われれば納得が行かないわけでもない」

「ああ。すまないな」

「? 何がだ?」


 唐突に謝られ、すずめ丸は身構える。


「私が君を縛り付けてしまったのかもしれないからだ。私はあの時願った。一人は嫌だと。一人で死にたくはないと。傍にいてくれと。それがもしかしたら、君におかしな変化を与えたのかもしれない」

「……」

「もしそうだとしたら、縛り付けてしまってすまないと思った」

「別に、あんたが謝ることじゃねぇよ」


 すずめ丸はその場に胡坐をかいて座り込み、視線を逸らしつつ、ぶっきら棒に否定した。


「誰もこんなことになるなんて知らなかったんだからな」


 そう。知らなかった。

 人に望まれて人の姿を得られるなど。

 それだとて、必ずしも心から望まれたら人の姿を得られるとは限らない。

 もしかしたら、もっと何か特別な原因があったのかもしれない。

 それが戯作を生業とする『想像力』故に発揮された力かもしれず、もともと佐倉の生まれや血筋が原因かもしれず。

 それこそ、考えたところで分かるはずはないが、


「それでも」


 すずめ丸は手を伸ばす。佐倉の胸元に手のひらを上に向けて。

 その指が佐倉の胸元に触れるか触れないかの位置に来た時、佐倉の胸元から手のひら大の黄色く輝く《心球》がゆっくりと押し出されて来た。

 その中には無数の文字が漂っていた。自分以外で初めて出会った《心食い》。

 そのなれの果て。

 すずめ丸を羨ましいと妬んだ《心喰い》。

 もしかしたら、もしかしなくても、立場が逆だったら、今こうして見下ろされているのは自分だったのかもしれない。

 そう思うと、なんとも複雑な心持ちにすずめ丸はなった。


「オレは、もしかするとあんたに感謝しなくちゃいけないのかもしれないな」

「ん?」

「あんたのおかげで、オレはオレとしてここにいられるんだからな」


 たとえそれが佐倉の《心》だったとしても、気性まで変えられたわけではない。

 すずめ丸はすずめ丸のまま、佐倉の《心》になった。

 だからこそ心を失わずに人の身を得た。

 他の《心喰い》が求めてやまない両方を手に入れていた。

 そう。《心喰い》は《心》が欲しかった。

 絶対に無くならない《心》が欲しかった。

 その心のせいで人生を狂わせる人々を数多見て来ながら、《心喰い》は焦がれていた。

 空腹を満たすための心。


「あんたに出会わなければ、こうなってたのはオレも同じだ」

「そうか」


 しみじみと呟くすずめ丸に、静かに佐倉が同意する。


「自分の持たないものを持ってる連中っていうのはとにかく羨ましいもんだからな。それに執着するあまり、自身の危険も顧みなくなることもある」

「ああ」

「結果。この有様。オレは単に運が良かったんだろうな」

「そうか」

「感謝なのかもな」

「で、それはどうする?」


 皮肉気な笑みを浮かべているすずめ丸を促せば、すずめ丸は答えた。


「喰らってやるさ。割ったところでこいつが標的にするのはオレかあんただ。そんなめんどくせぇことする気はねぇよ」


 どこか泣き笑いにも見える穏やかな笑みを浮かべ、同族である《心喰い》を口の中に押し込んだ。


 ガリ ガリ ガリ


 盛大な音を立てて噛み砕く。

 音が小さくなるまで噛み砕く。

 何度も何度も音が聞こえなくなるまで、粉々になるまで、己の一部となりやすいようにと慈悲を掛けるかのように、噛み続け――ごくりと最後の一部を飲み込んだ時、


「面白いな。君たちは」

「は?」


 唐突な評価に、思わずすずめ丸の声が裏返る。


「いきなり何を言ってんだ?」

「いや。《心喰い》と言う妖は、むしろよほど人間らしいと思ってな」

「は?」

「本能に忠実だ。欲しいから奪う。ないから望む。それでも伺いを立てて同意を得てから喰らうのだから律義だと言ってもいい」

「って、いったい何を悠長なこと言ってんだ? あんた下手したらこいつに乗っ取られてたんだぞ? 乗っ取られたら、最後に残ってたあんたの意志まで喰らい尽くされて、本当に何もかもが消え失せてたんだぞ?」

「そうだな」

「バカか?!」

「失礼な」

「何が失礼なもんか! あんたがそんな危機感ないこと言うからだろ!」

「仕方がないだろ。恐怖心は君が丸ごと喰らってくれたおかげで欠片も感じないんだからな」

「うっ」


 言い逃れのできない事実を返されて言葉に詰まるすずめ丸。


「だからこそ、感謝する。すずめ丸。

 ずっと私を守って来てくれてありがとう」

「はあ?!」


 突然のことに素っ頓狂な声をすずめ丸が上げれば、


「君たちのおかげで面白い話が書けそうだ」


 白紙に戻った帳面と筆を懐にしまいながら、どこか満足げな佐倉の顔。

 実際には眉一つ動いてはいないが、すずめ丸にはそう見えた。

 訳の分からない人間だと改めて思う。

 初めて出会った時、すずめ丸はただ腹を空かせていた。

 そこかしこに絶望の感情が湧き上がっている中、一際強い絶望と恐怖に引かれるように近づいた。


 死にかけていた。死の恐怖に怯えていた。すぐにでも喰らい付きたくなるほどに美味そうな状態だった。

 暗闇の中、誰もいない空間に手を伸ばしていた。

 助けて欲しいと手を伸ばす様は滑稽だった。

 これからその手を掴むのは希望ではなく絶望だと。ニヤリと笑みを浮かべながら問い掛けた。


 佐倉は食いつき気味に受け入れた。考えなしだと思いながら、それで終わりだと思っていた。

 いつもと同じ。これまでと同じ。一時腹(こころ)が満たされればそれでいい。

 それが《心喰い》。決して腹は満たされない。

 そういうものだとすずめ丸だって思っていた。だが、違った。

 佐倉の心はこれまで喰らって来たものと違っていた。

 信じられないほどの様々な感情が、一人二人では済まない数多の感情が一気に流れ込んで来た。それこそ、すずめ丸の意識が飛ぶほどの勢いと多さに、気が付くと、すずめ丸はすずめ丸として佐倉の傍に顕現していた。


 何が起きたのか理解するまでに時が行った。

 その間、佐倉はすずめ丸を追い出そうとはしなかった。

 心を喰らっても思考力まで奪えるわけではない。恐怖心が奪われたとしても異質なものだと判断出来るはずなのに、佐倉は追い出そうとしなかった。


 不思議な体験だった。

 ただ心を喰らうだけの存在である己が、心を喰らって用済みとなった人間と共に暮らす日々。

 時を過ごしても決して消えることのない満たされた心。

 そのせいだろう。人間の――佐倉のしていることに興味が湧いて来たのは。

 人の心の機微を描かねばならない戯作を生業としている佐倉。

 心を失ってもそんなものを書けるのかとすずめ丸は訝しんだ。


 それでも佐倉は書いていた。

 どうせ売れない戯作だからと、想像である程度は補えると。

 書けば意外に書けるものだと、一切すずめ丸のことを責めることなく、書いていた。

 その戯作をすずめ丸は何よりも気に入っていた。

 ある意味それが一番の驚きであった。

 読んだところで食えるわけでもない人々の心が、何度読んでもそこにはあった。

 戯作とは不思議なものだった。

 それを生み出す佐倉が不思議でならなかった。

 どうして心を失っても書けるのかが分からなかった。

 不思議が沢山あふれていた。

 毎日が楽しかった。故に、礼を言うのはすずめ丸の方。


 だが、そこはどうしても素直に礼を言うことが出来なかった。

 意地を張ることに何の意味があるのか分からない。ただ、


「帰ろう。すずめ丸」


 歩き出してもついてくる気配がないことに気が付いた佐倉が、振り返って促してくれば、


「おう」


 すずめ丸は駆け出した。

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