(2)

 獣人姿の《心喰い》は納得が出来なかった。

 初めは生き生きとした童の心を喰らって腹を満たそうと思っていた。

 だが、蓋を開けてみれば童の方が《心喰い》で、空っぽな人間の方が、人間だった。

 意味が分からなかった。

 何故心喰いの心が満たされているのか。

 何故特上の入れ物を傍に置きながら乗っ取らないのか。

 何故その入れ物がこれまで何の被害も受けずに存在できたのか。


 分からなかったが都合が良かった。

 自分が今入り込んでいるジジイの体はもう限界だったから。

 無理矢理動かしてもあと数日と持たないことは知っていた。

 次なる体を捜していたところに現れた入れ物。お前が入り込まないのであれば自分がもらうとばかりに、自分の心を喰えと唆した。

 過程はどうあれ、《心喰い》は空っぽな人間の器の中に入り込むことに成功した。

 快適だった。若さに満ち溢れている空間だった。

 余分なものが何もない。乗っ取るのに手間も掛からない。

 そう思っていた。


 当然、共に行動していた異質な《心喰い》であるすずめ丸は怒った。

 怒り、佐倉から《心喰い》を引き摺り出そうと襲い掛かって来たが、人の身を持ってしまえば大人と子供。どちらが有利かは一目瞭然。


 だが、ここで予想外のことが起きた。

 すずめ丸と接触すると同時に、《心喰い》は凄まじい圧力を受けたのだ。

 それこそ、見えぬ壁に押されるように、《心喰い》はぐいぐいと押し込まれて行った。

 何が起きたのか咄嗟には解らなかった《心食い》だが、すぐにそれが知っている感覚だということに思い至った。

 本来、人の心を許可なく喰らうときに感じる圧迫感。

 それが何故か、突然に生まれ、抵抗する間もなく人の身から追い出された。

《心喰い》は考えた。目まぐるしく考えた。今の現象が起きた理由を。自分が追い出された理由を。

 そして辿り着いた答えが、人の身を有したすずめ丸こそ、中身の空ろな人間の《心》なのではないのかと。


 一体どうしてそうなったのかは分からないが、そう思えば納得が出来た。

《心喰い》が《心》そのものになり、心を失った人間が《心喰い》の力を得た。

 だが、喰らって腹を満たす趣向がないからこそ、全てを喰らうのではなく一部の感情だけを引き抜くという意味の分からない現象を引き起こしていたということに。

《心喰い》ならば誰もが出来る芸当なのかと問われれば、《心喰い》に答える術はない。

 試してみようと思ったこともなければ、出来るものだと思ったこともなかった。

 自分が誰かの《心》に成り代わるなどということは。


 人の身は、あくまでも自分が自由に動くための借り物に過ぎないのだ。

 間違っても、乗っ取った相手の《心》になっていたわけではない。

 それが《心喰い》という物だった。そういうものだと思っていた。

 だが、違った。違う可能性があるのだと見せつけられてしまった。

 忌々しさが込み上げた。

 自分の持ち得ない物を持った同族の存在が、凄まじく気に入らなかった。

 自分と相手の一体何が違うのか。


 自分は常に飢えていた。

 人の身に入り込んでしまえばその飢えも我慢できる程度に弱まると知ってからは、心を喰らった人間の中で過ごすようになっていた。

 それだとて、多少の時間稼ぎにしかなりはしない。常にうっすらと空腹を抱えながら人の世で暮らして来た。


 だが、目の前の同族は、心が満ち満ちていた。本物の人間のように当然のように動いていた。

 何が違うのかが分からない。きっかけが何なのか分からない。

 羨ましかった。妬ましかった。怒りが込み上げて来た。

 このまま追い出されてなるものか!


《心喰い》は意地でも人間の器をものにしようと、再び潜り込むべく躍起になる。

 器が欲しくて欲しくて堪らなかった。

 中身が欲しくて欲しくて堪らなかった。

 器無きままに彷徨い続けるのは不安だった。

 中身が満たされないことは不満だった。

 心を喰らっても満たされている時は短く、器を得ても、心を失った人間の体は長くは持たず。

 それなのに、


「何故、お前は両方を得ている?!」


 気に食わなかった。

 心が満たされ器を手に入れ、それでいて、《心喰い》の力を失っているわけではない存在が。

 自身が望んでも手に入れられなかった全てを持ち合わせている存在が、気に入らなかった。


「お前は既に両方持っているだろ! だったら、その人間をよこせ!」

「させるか!」


 すずめ丸が立ちはだかる。

 生身の躰を得たために、自由に空を舞うことが出来なくなったとはいえ、その躰から立ち上る怒りの焔と殺意は、《心喰い》にもはっきりと見て取れた。

 雀の羽のような色合いの髪は逆立ち、目尻はつり上がり、額には青筋。めくれ上がった口元から見えるのは鋭い牙。いつでも掴みかからんとするその指には、鋭い爪が生えていた。


 油断など出来なかった。

 餌を啄もうとする害獣を追い払うかのように、佐倉の傍で敵意をむき出しにするすずめ丸は厄介この上ない。

 こんなことならば、老僧から抜け出すのではなかったと、心から《心喰い》は歯噛みした。


 好奇心が好機を殺したようなものだった。

 まさか、人の身から強制的に押し出されるとは夢にも思っていなかったから。

 それでも、空っぽの器ならばどうとでも出来ると切り替えられていた。

 それがまさか、《心》が近づくことで追い出されるとは欠片も想像など出来なかった。


 出来るわけがなかったのだ。

 何もかもが規格外。想像外。

 本当に何が切っ掛けでそんな事態になっているのかが分からない。

 分からないし気に入らない。だが、それはある種の希望でもあると言えた。

 すずめ丸の手の届かない場所で漂いながら、唐突に《心喰い》は気が付いたのだ。

 あいつに出来たのならば、自分にも出来るのかもしれない――ということに。

 思い至ってしまえば、問わずにはいられなかった。


「なあ、一つだけ教えてくれないか」

「何をだ!」

「どうしてお前はそうなった?」

「だから知らねぇって言ってんだろ!」

「だが、それが分かればオレがそいつに執着する必要はなくなるんだぞ?」

「その前にオレが喰い殺してやる!」

「別に隠す必要はないだろ?」

「だから知らねえんだよ! オレはいつも通りにそいつの《心》を喰らっただけなんだからな!」

「そんなはずはないだろ」


 せっかくの晴れやかな気分が徐々に曇っていく。


「どうして隠す? 何がそんなに不都合なんだ?」

「だーかーら! 不都合とか隠してるとかじゃなくて、本当に知らないんだよ!」

《心喰い》は顔を顰めて見下ろした。


 やはりこれは、あの人間の方に原因があるのかと視線を移し、初めて《心喰い》は気が付いた。


「おい。何してる?!」


 いつの間にか自分を取り戻したらしい人間が、再び帳面に筆を走らせているのを見たためだ。

 それとほぼ同時に、《心喰い》は気が付いた。自身が再び人間の方へ引き寄せられているという現実に。

 ゾッとした。

 自身の足の先がさらさらと崩れていくのを見て。

 それがちり芥のごとく、細かく陽光を反射させながら人間に吸い寄せられていく様を見て、《心喰い》は本能のままに逃げ出していた。


 冗談ではなかった。一度は望んで入り込んだ人の身だが、何が起きるか分からない。

 常識が通じない人間の中に入り込み、そのまま《心喰い》のごとく喰い滅ぼされては敵わない。

 ここでいつまでも睨み合っていたところで、すずめ丸から人の身を得られる方法を聞き出せるわけでもない以上、見切る選択肢を選んだところで誰から責められるものではない。


 命あっての物種。ここで消されて堪るかと、なりふり構わず飛んで逃げる。

 だが、どれだけその場から離れようとも、躰の崩壊は止まらなかった。

 さらさら、さらさらと音まで聞こえそうなほどに、少しずつ少しずつ。しかし確実に躰は端から削られて行っていた。


《心喰い》は、嗤っていた。

 恐怖に引き攣った歪な笑み。

 笑わずにはいられなかった。

 これまでは自分が喰らう方だった。

 喰われてしまった方がましだと言わんばかりの状況を作り出し、煽り、唆し、一口で喰らって来た。

 ある意味それは慈悲だった。慈悲と言っても過言ではないものだと、人の身に入り込み言葉を知り認識していた。


 だが、これはどうだ。

 徐々に徐々に削り取っていく。じわじわと躰が奪われる恐怖心を与えて来る。

 あの人間が、《心喰い》に心を与える代わりに《心喰い》の力を有したのだとしたら、人間とはいかに残酷な生き物なのかと。

 故に《心喰い》は人に惹かれる。人の残酷さに惹かれる。

 人ならざるものよりよほど残酷な人間の所業に。同族でありながら、他者の不幸を喜ぶ人間に。よほど自分の方が慈悲深いと改めて思いながら、嗤う。


《心喰い》は嗤う。嗤う。嗤う。嗤う。

 逃げども逃げども逃れられない。

 あの筆が書き続ける限り逃れられない。

 解かっていても戻れない。

 全て分解されて吸収される。


《心喰い》の死。


 逃れられない死を前に、《心喰い》は嗤う。

 嗤うしかなかった。好奇心が《心喰い》を殺した。

 手を出してはいけない相手だった。

 見極めを間違えた。

 これでは散々笑いものにしてきた人間たちと何一つ変わらない。


 嗤うしかなかった。これまでと同じように。

 消えたくはないと思う。ただ、同時に面白いとも思う。楽しいとも思う。

 まさか自分がこのような終わりを迎えるなど思いもしなかった。

 思わぬ驚きが自身を襲う。

 これを笑わずにはいられなかった。


 何よりも《楽しい》感情を好んで喰らって来た《心喰い》として、《心喰い》は嗤った。

 空は晴れ渡っていた。雲がたなびき光が溢れ。見下ろした木々は青々と輝いて。

 その下を有り余るほどの人間たちが生きていた。生きて、他者を妬み、嫉み、嘲笑い。他人の不幸を望み、願い、苦しみ、悩み、恨んで生きていた。

 楽しかった。その心を喰らうことは。

 それができない。身の程をわきまえずに手を出した結果。


「あー……羨ましい」


 その一言を残して、《心喰い》は解けて消えた。

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