(5)
◆◇◆◇◆
「え?」
唐突に、お赤は目の前に青空が広がったような感覚を抱いていた。
何が起きたか分からない。気が付くと、背後から胸に向けて爽やかな風が吹き抜けていた。
キツネに抓まれたような心境だった。
あれほどまでに荒れ狂っていた憎しみの焔が綺麗さっぱり消えていた。
確かに、お久が言っていた。同情を込めた優しい微笑みを浮かべながらやって来た時に。
辛いね。苦しいねと。
すべてを知っているかのような口振りで。
だから、俄かには信じられなかった。
戯作者の佐倉と言う男に胸の内を曝け出してしまえば、その苦しみから解放されると。
私自身もそうだったからと。
それが事実だったと知り、お赤は動揺を隠せなかった。
心が、軽かった。
自分の中の憎しみがいったいどこへ行ってしまったというのか。
「あの……」
と、戸惑いながらも真正面に座る佐倉に声を掛けようとして、お赤は言葉を飲み込んだ。
ことりと筆を置いた佐倉。
無表情は初めて顔を合わせたときから何一つ変わってはいない。
だが、
「…………」
声をかけることが出来なかった。
ごくりと唾を飲み込んでしまうほどに、恐ろしい威圧感が放たれていた。
それはあの日、突如長屋に大勢のガラの悪い男たちが雪崩れ込んで来たときの恐怖を思い出させた。
怖い――と、これまで忘れていた感情が沸き起こる。
見た目は何も変わらない。変わったのは何なのか。
お赤が体を震わせていると、佐倉は告げた。淡々とした声で。
「これにて《心移し》完了」
「ご苦労様」
と、すっかり佐倉の変わり果てた気配に飲み込まれていたお赤に、すずめ丸が明るい声で話しかける。
その瞬間。何かの呪縛から解かれたようにお赤は感じた。
「あ、あの……《心移し》って……完了って」
「そのまんまだよ。あんたが望んだだろ? 憎しみと怒りから救ってくれって」
「そう、だけど。だって、なんで?」
「それが戯作者佐倉の特技……ってことだな。で? 気分はどうだ?」
「い、いい」
「そっか。それは良かったな」
「でも、本当にこれでよかったのかって思う気持ちも出て来た」
最愛の母親を殺されたことに対する怒りと憎しみを忘れるということは、騙して利用して追い詰めて殺した面々を許すことになるような気がして、ひどい裏切り行為なのではないかと不安に駆られる。しかし、
「だから初めに言っただろ? 本当にいいのかって。今更元には戻せないからな」
呆れた声ですずめ丸に忠告されれば、お赤は素直に『うん』と頷いた。
どういう原理かは分からない。何をされたのかも分からない。
分かっていることはただ一つ。
何をどうしても変わらなかった爆発寸前の心が落ち着いた。
誰の言葉を聞いても怒りが膨らむだけだった。憎しみが膨らむだけだった。
お久に事情を話しながらも、赤黒い業火の焔は燃え上がるだけだった。
それが、綺麗さっぱり消え去った。
自分はやっぱり騙されているのかもしれないと、お赤は思った。
きっと目の前にいる戯作者は、キツネか何かの化けたものだと、お赤は思った。
だからお赤は頷いた。素直に畳に手を付いて、頭を下げて、
「ありがとう、ございました」
感謝の気持ちを口にする。
キツネに失礼なことをしたら祟られる。
信心深い母親の言葉。
人に化けられるほどの力を持ったキツネならば、礼を尽くさねばならない。
ましてや、約束事に文句を言えるわけがない。
「じゃ。気持ちが落ち着いたら今度依頼料代わりの食い物、ちゃんと用意して持って来いよ?」
と、茶化すようにすずめ丸に言われれば、お赤はハッとした。
確かにお久に言われていた。依頼料代わりに食べ物を持って行くことと。
だが、お赤は何も用意していなかった。それどころか、凄まじく喧嘩腰にやって来たことを思い出して血の気を引かせた。
「いや。何もそんなこの世の終わりみたいな顔しなくてもいいんだぜ? 今度持って来てくれても……」
と、やや慌てた様子ですずめ丸が補足すれば、
「ご、後日お稲荷さんを持ってくるので、許してください!」
深々と頭を下げてお赤が謝罪し、
「なんで、お稲荷さん?」
すずめ丸が苦笑いを浮かべる。
そして、
「ま、何はともあれこれであんたの願いは叶っただろ? 後は戯作者佐倉の本業の時間だからな。気を付けて帰れよ」
退出するきっかけを与えられると、お赤はもう一度だけ頭を下げて礼を言い、やって来た時とはまるで違う、少し緊張した面持ちと動きで佐倉の長屋を後にした。
それと時を同じくして、巻物に引かれた線たちがもぞりもぞりと動き始める。
まるで、幾百もの糸虫のように、白き紙面から抜け出し佐倉に向かう。
すずめ丸は、意思を持った糸虫に纏わりつかれる佐倉を見て、ごくりと一つ生唾を飲んでいた。
お赤が気圧され呑まれた気配。
決して普通の人間に見ることなど叶わない、どす黒く、それでいて美しい業火の焔を身に纏う佐倉は、今すぐにでも喰らい付きたくなるほどに、すずめ丸にとって美味そうな食い物に見えていた。
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