(4)

 見ず知らずの人間からのあまりにも気前のいい話に、お赤ですら警戒した。

 当然だった。故に老人もうんうんと頷いて、疑うのも無理はないと素直に認めた。

 だが、ようは店の働き手を捜しているのだと改めて説明されれば、疑問の余地すらなかった。

 老人の店には通いで来てくれればいい。

 働いてくれるのは借金分で構わない。

 だからこその前払いだと。

 その気前の良い話に、老人の背後に立つ真面目な顔をした青年は、困ったものだと言わんばかりの表情を浮かべて溜息をついた。


 そういうことを軽々しく言うから、怒られるんですよ、旦那様――と、小言もつけて呆れれば、困ったときはお互い様だと老人は笑った。

 その優しそうな雰囲気に、お赤も母親もまんまと騙された。


 初めは母親も早く帰って来ていた。

 勤め先は穂積町(ほづみちょう)の旅籠の一つ。そこで母親は下女中として働くことになっていた。厳しい人もいるが、基本的には皆優しい人たちばかりだと、母親はお赤に話して聞かせていた。


 だが、勤め始めてから一月が過ぎた頃から、少しずつ母親の顔に陰りが見え始めていた。

 どこか張り詰めた顔をしていて、何かあったことは確かなのに、話を聞こうとしてもはぐらかされた。

 時に、突如抱きしめられ、『大丈夫。大丈夫』と繰り返されたこともあった。

 何が大丈夫なのか分からなかった。まるで自分自身に言い聞かせているかのような口ぶりがさらにお赤の不安を募らせた。


 さらに十日が過ぎると、母親は魂の抜けたような状態になっていた。

 それでもお赤が話しかけると、今にも消えそうな笑みを浮かべて、『大丈夫』と言った。


 ある日の朝は、行ってくると長屋を出た後、通りへ出る途中で吐き戻し、他の住人に介抱されることもあった。

 今日は休みなよと誰が言っても、お赤が言っても、母親は『大丈夫』と言って、ふらふらとした足取りで出かけて行った。


 母親は、旅籠の名前を誰にも告げていなかった。

 得も言われぬ不安に苛まれて、遅くに帰宅した母親に、もう行くのをやめなよと訴えたことも一度や二度ではない。

 その度に母親は『大丈夫』と返して笑った。

 笑った後はぎゅっとお赤を抱いて、『大丈夫。大丈夫』と言い聞かせて来た。優しい優しい声音がお赤の目頭を熱くした。


 何かがおかしい。絶対におかしい。

 そうは思っても、母親は絶対に口を割らない。

 そのことが堪らなく悔しかった。

 自分が子供だから。女だから。守られているのだということだけが突きつけられて。

 お赤が出来たことは、『解ったから』という返事を込めて、力いっぱい抱きしめ返すことだけだった。


 それから一月が過ぎ、二月が過ぎ、三月目が過ぎ。

 長屋でも評判だった綺麗な顔の母親は、見るも無残にやせ衰えていた。

 自慢の肌も水気をなくし、白かったはずなのに土気色で。唇は割れて目は落ち窪み、隈はくっきりとはっきりと刻まれていた。


 いったいいつの間にこんなことになったのかと、お赤は愕然とした。

 もう行くなと引き止めた。周りの住人も引き留めた。

 そんなお赤や住人たちに、母親は言った。弱弱しい声で。


『でも、もう少しなんです。もう少しで返せてしまうんです。本来であればここまで無茶なことはしなくてもいいのですけれど、これは私自身が選んだことなんです。さっさとすべてを終わらせるためにしていること。この子には同じ思いをさせたくないですから。大丈夫です』


 そう言って、儚げに微笑まれてしまえば、誰も何も言えなくなった。


『おっかあの代わりにあたしが行く!』

 と言えればどんなに楽か分からなかったが、言う前に母親に言われてしまっていた。


 同じ思いをさせたくないと。転じて、代わりはさせられないと。

 いったい何の仕事をしているのかと問いたかった。

 だが、周りの住人たちの深い同情の顔を見てしまえば、黙らざるを得なかった。

 聞いたら終わりだと言われているようなものだった。


 それから更に一月が経った頃、初めて母親が夜に帰ってこなかった。

 寝ずに待ち続けていたお赤の元へ凶報がもたらされたのは、早朝のこと。

 一報を知らされて、信じられない思いで駆けつけてみると、遠巻きになった野次馬の群れの中で、倒れている小さな女がいた。


 こんなにも母親とは小さかっただろうかと、お赤はふらつきながら近づいた。

 もしかしたら違うかもしれない。いや、違うに決まっている。違っていないと嫌だ。


 だがその顔は、白粉を塗って隈を隠し、紅を塗って唇に艶を出しているという見慣れないものだったが、見間違いなどできるはずがなかった。

 おっかあだった。

 帰る途中だったのだろう。頭は長屋の方を向いていた。

 眉間には深いしわが寄せられて、今にも泣きだしそうな顔をしていた。


 お赤は泣いた。声もなく。

 膝をつき、すっかり冷たくなった母親の体に覆い被さる。

 知ったら終わりだと思っていた。

 それでも、全く想像していなかったわけではなかった。

 ただ、信じたくはなかった。そんなことをしているとは。

 旅籠で掃除の仕事をさせてもらえることになったと喜んでいた姿しか思い浮かばなかった。

 そうだということを信じたかった。


 騙されていた――

 騙されていた。

 騙されていた!


 あの憎たらしい好々爺の顔が。真面目そうな青年の顔が鮮明に蘇った。

 よくもよくもよくもと、呪い殺さんばかりの怒りが込み上げて来た。

 涙が溢れ出た。

 悲しみよりも怒りの涙が。

 泣きたくなくとも涙が溢れた。

 殺したい。殺してやりたい。母親を苦界に落とした父親も、助ける振りをして騙した連中も、母親を慰み者にして甚振った連中も。みんなみんな殺してやりたい。殺したい。


 お赤の中に、憎しみの焔が宿った瞬間だった。

 お赤は、荒れた。

 葬儀を済ませた後、お赤は引き籠った。

 自分の中に生まれた尋常ではない怒りを抑え込むために。

 抑え込む必要などどこにもないとお赤は思った。

 だが、連日のように母親が心配そうな顔で『駄目よ』と言うから。

 あなたなら『大丈夫』と言うから。

 恐ろしい考えだけは実行してはいけないと夢枕に立って言うから。

 お赤は抑えよう抑えようとした。

 だが、抑え込めば抑え込むほどに、復讐の焔は大きくなった。

 我慢する必要はないのだと。当然の行為だと。早く動けと急き立てる。

 その度にお赤は揺れた。唆してくる自分自身の素直な感情と、母親の影を使って諭してくる良心の間で。


 故にお赤は苦しんだ。

 相反する感情に、本能と良心との間に挟まれて。

 気が狂いそうになっていた。

 己を手放しそうになっていた。

 何をするか分からない。

 何ができるか分からないからこそ、何をするか分からない。

 脳裏に悲しげな母親の顔が浮かぶから。

 苦しくて、苦しくて、堪らなかった。

 助けて欲しかった。抑えきれないほどに膨れ上がった憎しみの焔から。

 だから――


   ◆◇◆◇◆


「え?」


 唐突に、お赤は目の前に青空が広がったような感覚を抱いていた。

 何が起きたか分からない。気が付くと、背後から胸に向けて爽やかな風が吹き抜けていた。


 キツネに抓まれたような心境だった。

 あれほどまでに荒れ狂っていた憎しみの焔が綺麗さっぱり消えていた。

 確かに、お久が言っていた。同情を込めた優しい微笑みを浮かべながらやって来た時に。

 辛いね。苦しいねと。

 すべてを知っているかのような口振りで。


 だから、俄かには信じられなかった。

 戯作者の佐倉と言う男に胸の内を曝け出してしまえば、その苦しみから解放されると。

 私自身もそうだったからと。

 それが事実だったと知り、お赤は動揺を隠せなかった。


 心が、軽かった。

 自分の中の憎しみがいったいどこへ行ってしまったというのか。


「あの……」


 と、戸惑いながらも真正面に座る佐倉に声を掛けようとして、お赤は言葉を飲み込んだ。

 ことりと筆を置いた佐倉。

 無表情は初めて顔を合わせたときから何一つ変わってはいない。

 だが、


「…………」


 声をかけることが出来なかった。

 ごくりと唾を飲み込んでしまうほどに、恐ろしい威圧感が放たれていた。

 それはあの日、突如長屋に大勢のガラの悪い男たちが雪崩れ込んで来たときの恐怖を思い出させた。


 怖い――と、これまで忘れていた感情が沸き起こる。

 見た目は何も変わらない。変わったのは何なのか。

 お赤が体を震わせていると、佐倉は告げた。淡々とした声で。


「これにて《心移し》完了」

「ご苦労様」


 と、すっかり佐倉の変わり果てた気配に飲み込まれていたお赤に、すずめ丸が明るい声で話しかける。

 その瞬間。何かの呪縛から解かれたようにお赤は感じた。


「あ、あの……《心移し》って……完了って」

「そのまんまだよ。あんたが望んだだろ? 憎しみと怒りから救ってくれって」

「そう、だけど。だって、なんで?」

「それが戯作者佐倉の特技……ってことだな。で? 気分はどうだ?」

「い、いい」

「そっか。それは良かったな」

「でも、本当にこれでよかったのかって思う気持ちも出て来た」


 最愛の母親を殺されたことに対する怒りと憎しみを忘れるということは、騙して利用して追い詰めて殺した面々を許すことになるような気がして、ひどい裏切り行為なのではないかと不安に駆られる。しかし、


「だから初めに言っただろ? 本当にいいのかって。今更元には戻せないからな」


 呆れた声ですずめ丸に忠告されれば、お赤は素直に『うん』と頷いた。

 どういう原理かは分からない。何をされたのかも分からない。

 分かっていることはただ一つ。

 何をどうしても変わらなかった爆発寸前の心が落ち着いた。

 誰の言葉を聞いても怒りが膨らむだけだった。憎しみが膨らむだけだった。

 お久に事情を話しながらも、赤黒い業火の焔は燃え上がるだけだった。

 それが、綺麗さっぱり消え去った。


 自分はやっぱり騙されているのかもしれないと、お赤は思った。

 きっと目の前にいる戯作者は、キツネか何かの化けたものだと、お赤は思った。

 だからお赤は頷いた。素直に畳に手を付いて、頭を下げて、


「ありがとう、ございました」


 感謝の気持ちを口にする。

 キツネに失礼なことをしたら祟られる。

 信心深い母親の言葉。

 人に化けられるほどの力を持ったキツネならば、礼を尽くさねばならない。

 ましてや、約束事に文句を言えるわけがない。


「じゃ。気持ちが落ち着いたら今度依頼料代わりの食い物、ちゃんと用意して持って来いよ?」


 と、茶化すようにすずめ丸に言われれば、お赤はハッとした。

 確かにお久に言われていた。依頼料代わりに食べ物を持って行くことと。

 だが、お赤は何も用意していなかった。それどころか、凄まじく喧嘩腰にやって来たことを思い出して血の気を引かせた。


「いや。何もそんなこの世の終わりみたいな顔しなくてもいいんだぜ? 今度持って来てくれても……」


 と、やや慌てた様子ですずめ丸が補足すれば、


「ご、後日お稲荷さんを持ってくるので、許してください!」


 深々と頭を下げてお赤が謝罪し、


「なんで、お稲荷さん?」


 すずめ丸が苦笑いを浮かべる。

 そして、


「ま、何はともあれこれであんたの願いは叶っただろ? 後は戯作者佐倉の本業の時間だからな。気を付けて帰れよ」


 退出するきっかけを与えられると、お赤はもう一度だけ頭を下げて礼を言い、やって来た時とはまるで違う、少し緊張した面持ちと動きで佐倉の長屋を後にした。

 それと時を同じくして、巻物に引かれた線たちがもぞりもぞりと動き始める。

 まるで、幾百もの糸虫のように、白き紙面から抜け出し佐倉に向かう。

 すずめ丸は、意思を持った糸虫に纏わりつかれる佐倉を見て、ごくりと一つ生唾を飲んでいた。


 お赤が気圧され呑まれた気配。

 決して普通の人間に見ることなど叶わない、どす黒く、それでいて美しい業火の焔を身に纏う佐倉は、今すぐにでも喰らい付きたくなるほどに、すずめ丸にとって美味そうな食い物に見えていた。

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