(3)

 年の頃は十代半ばだろうか。

 小柄なせいでもっと幼くも見えるが、そのつり上がった眉や憎しみの宿った鋭い眼差し。身に纏う焔のごとき威圧感が、十代前半の子供ではないと主張していた。

 髪を頭の後ろで一つに束ね、色の煤けた紺の縦縞の小袖を着た娘は、他人の家にも関わらず、住人の許可なく敷居を跨いでずかずかと入り込んで来ると、


「あんたが戯作者の佐倉か?!」


 まるで男のような口振りで問い詰めた。

 佐倉はそんな娘を間近で見上げ、


「君は誰だ?」


 眉一つ、頬の筋の一つも動かさない完璧な無表情で誰何した。


「あたしの名前はお赤(あか)! 単刀直入に聞くけど、あんた、人の感情を鎮めてくれるんだろ?!」


 座敷にバンと手を付き、一切の誤魔化しなど許さないとばかりに睨み上げて来るお赤に対し、佐倉は答えた。


「正確には鎮めるのではなく貰い受ける」

「そんなのはどっちもでもいいんだよ!」

「よくはない」


 なおも勢いに任せて怒鳴り散らそうとするお赤の言葉を、佐倉は静かに遮った。


「鎮めるということは消えてなくなるという意味ではない。私がする行為は貰い受けるということ。すなわち、二度と同じ感情を持つことが出来なくなるということ」

「同じだろうが」

「似ているだけで同じではない」

「意味わかんねぇよ!」

「例えば、蝉の声がうるさいとしよう」

「?」


 突如始まるたとえ話に、お赤の顔が不快と怪訝に歪む。


「鎮めるというのは、うるさい蝉を茶筒にでも詰めて声そのものを聞こえなくしたものを、己の傍に置いておくということ。故に、いつでも茶筒のフタを開ければ再び蝉は泣き喚き始める。

 一方。貰い受けるということは、蝉の入った茶筒を君から完全に引き剥がし、絶対に二度とその声を聞こえなくさせるということ。どんなに望んでも、聞くべき時に聞きたいと望んでも、取り戻したいと思っても、二度と手に入らないということ。

 確かに、フタをし続けて開けることなく戸棚にでも閉まっていられるのであれば、蝉の声を聴かないという点では『同じ』だろうが、傍にあるかないかという点で見れば、まったくの別物。似て非なる出来事だ。解るか?」

「解んねえよ!」

「そうか」

「バカにしてんのか!」

「違う」

「してるだろうが!」

「誤解させたのなら謝ろう」

「いらないよ! バカ!」


 涙目になって罵倒されるも、佐倉の表情に変化はない。

 それがより一層お赤にしてみればバカにされているように見えるのだろう。


「あたしが知りたいのは、あんたに本当に人の感情をどうこう出来るのか! ってことなんだよ!」

「ふむ」

「ふむ……じゃねぇよ!」


 怒鳴り声が震えていた。

 佐倉の目の前で、お赤は目にいっぱいの涙を溜めていた。


「辛いのか?」

「辛いよ!」


 叫んだ拍子に、一粒の涙が頬を伝うと、お赤は勢いよく手の甲で涙を拭い、胸の内を吐き出した。


「辛くて辛くて堪らないんだよ! 頭がおかしくなりそうなんだよ! 憎くて憎くて堪らなくて、このままじゃあたしは……あたしは……怒りで何するか分からないんだよ!」


 言った直後、お赤の感情の決壊が崩れ、涙は後から後から頬を伝い落ちて行った。

 故に、佐倉は訊ねた。


「怒りは、時として人が生きるために必要な感情となるが、本当にその感情を手放してしまってもいいのか? 失えば二度とは戻らない。返せと言われても返すことは出来ない。それでも」

「良いって言ってんだろ!」

「それを元に私が戯作を書くことになったとしても?」

「どうでもいいんだよそんなこと! あたしは、あんたならあたしを救ってくれるかもしれないってお久が言ってたから来たんだよ!」

「お久殿?」

「だから頼むよ!」


 お赤が座敷に膝から乗り込んで佐倉の腕に縋りつく。


「あたしをこの憎しみと怒りから救ってくれよ!」


 怒鳴りながらも泣き伏すお赤の頭越しに、佐倉は異様に静かだったすずめ丸を見て、


「解った。その感情を貰い受けよう」


 お赤の願いを聞き入れた。

 すずめ丸の黄金色の瞳が言っていた。

 絶対にそれは引き受けてくれと。

 お久の一件から早二か月と少しが経っていた。

 上質な心が喰らえると期待に胸を躍らせるすずめ丸は、少し前の人間らしさよりも初めて佐倉が見たときのような妖らしい顔つきをしていた。


   ◆◇◆◇◆


「あたしが憎くて憎くて仕方がないのは、あの詐欺師なんだ」


 同じ涙でも、お久の涙はただただ悲しみに沈んだ静かなものだったが、お赤の涙は溢れんばかりの怒りが籠った激しいものだった。

 肩を怒らせ、膝の上に置いた握り拳を震わせて、怒りを噛み締めるように事情を話す。


「あいつのせいで、あたしのおっかさんは死んだ」


 佐倉は、長い長い巻物に、文字ともつかぬ線を書き込んでいく。

 その間、すずめ丸は佐倉の背後に隠れ息を潜めて沈黙を守る。



 お赤の母親が死んだのは、今から一月前の梅雨が明けた頃のこと。

 死因は過労死だった。昼も夜もなく働いて働いて働いて働いて。働き詰めで体を壊した。

 母一人、子一人だった。

 別に珍しいことではなかった。

 父一人、子一人ということもある。

 一人親に複数の子。ということもある。

 必ずしも二親が揃っているというわけでもない。

 それが長屋の住人。

 故に、子育てはその長屋の住人たちが我が子も他所の子も関係なく当たり前に見てくれるものだった。

 だからこそ、お赤の母親はお赤を長屋の住人に託して、朝も早くから、夜は遅くまで働いて働いて働いて。


 お赤は母親がどんな仕事をしているのか分からなかった。

 それでも、心配するお赤に、母親は常に笑みを浮かべて出かけて行っていたという。

 その笑顔に、日に日に疲労の色を浮かべながら。

 どう見ても、疲れていると思っていた。

 どう見ても、無理をしていると思っていた。

 少し休んだ方がいいというお赤の言葉に、母親は常に『大丈夫よ』と返していた。


『お前は何にも心配しなくていいからね』


 頭を撫でる母親の手がひどく骨ばっていることにお赤の不安は膨れ上がった。

 このままでは母親が死んでしまう。

 得も言われぬ恐怖に取り憑かれた。

 不安だった。不安で不安で堪らなかった。

 どうして母親がこれほどまでに苦労しなければならないのか。

 原因を作っていたのは、博打にのめり込んだ父親のせい。

 それが元で、お赤と母親は父親とは縁を切って長屋を出たはずなのに、移り住んで半年が経ったころ。新年を迎えて鏡割りも終えたころ、ガラの悪い連中が突如お赤と母親の下へやって来た。

 借用書と書かれた悲劇の始まりとなる一枚のわら半紙を持って。


『あんたの旦那が作って踏み倒した借金だ。どっかに雲隠れしやがったから、あんたが代わりに払いな』


 と、恫喝された。

 母親は、お赤を背に庇いながら、もうあの人とは何の関係もないといくら主張しても、全く耳を貸さなかった。

 大柄な男たちが土間を占拠して、逃げ場の一つもなくしてしまった上で、大声で喚き散らされる恐怖は大の男でも耐えられるものではない。


 お赤は必至で助けを求めていた。心の中で何度も何度も。強く強く。神に仏に祈った。どうか助けてくださいと心の底から祈った。

 その時、


『お役人さん! こっちですこっち!』


 大声で役人を呼び寄せる声がした。

 その声に反応した取り立て屋たちが、舌打ちをして出て行くと、事の成り行きを心配していた長屋の住人を差し置いて、好々爺とした顔の身なりのいい老人がやって来た。その後には背の高い真面目そうな顔の青年が続いて、


『一体何があったのですかな?』


 老人が訊ね、母親が答えた。

 話を聞いた老人は、それはとんだ災難だと同情し、それではこうしようと一つの提案をしてきた。


『私がその借金を肩代わりしましょう』と。

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