(2)
「なぁ、佐倉」
「どうした、すずめ丸」
長屋に帰って来た佐倉が、行李の中に購入してきた筆をしまっていると、帰り道珍しく無言だったすずめ丸が、意を決したように呼び掛けて来た。
見ればすずめ丸は、常に浮かべている楽しげな顔ではなく、どこか思い詰めた顔をしていた。
「何をらしくもない顔をしている?」
行李に背を向け、改めてすずめ丸に体ごと向き合う佐倉の前に、すずめ丸は両膝を揃えて勢いよく座ると、
「オレのこと、恨んでるか?」
今更なことを聞いて来た。
「何故だ?」
傍から見れば、傍で聞いていれば、冷徹な父親の前で叱られるのを覚悟している息子――のように見えただろう。
しかしそれが、佐倉の通常の状態だった。
だが、何も知らないものからしてみれば、佐倉の淡々とした無感情な物言いは、疚しいことのあるものにしてみれば、針の筵のようなもの。
事実、すずめ丸は肩を竦ませ頭を下げて、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「だって、オレが、佐倉の《心》を……喰ったから」
対して佐倉は珍しく、本当に珍しく小さな溜息を一つこぼした。
「一体何を思い詰めているのかと思えばそんなこと」
その言い様に、さすがにムッとしたすずめ丸が、不機嫌な顔を上げた。
「そんなこととは何だよ、そんなこととは!」
「そんなことだから、そんなことと言ったまで。君に《心喰い》を許可したのは誰でもない私だ。こうなることを君は初めから私に忠告していたし、こうなっても生きていられるならそれでいいと受け入れたのは私だ。君が気に病むことはない」
「でも!」
「確かに、本当に何を見ても何を体験しても心が動かないと知ったときは、戯作など書けなくなると本気で思ったが、あくまで思っただけのこと。売れなければならない。売らなければならないと、切羽詰まることもなくなった。他者と自分を比べて悲観したり絶望したりすることもなくなった。自分は自分のままで、書く技術だけは持っていたし、感情の想像ぐらいは今でもつく。お陰で戯作を書く事に大して支障はないということも分かっている。私の戯作が売れないのは元からなのだから。むしろ、焦っておかしな行動を取ったり思い詰めて世を儚んだりしなくなっただけ大分マシだ。そもそも――」
「な、なんだよ。いきなり黙るなよ」
「いや。随分と君は人間らしくなったものだと思ってな」
「は?!」
まさかの発言に、すずめ丸の声が裏返る。
「初めて君が声をかけて来た時、とてもではないが相手を慮るような存在だとは思いもしなかった」
「そ、れはオレだってそう思ってるよ! オレだってこんな風になるとは思ってなかったさ! 人の心なんてただの食い物でしかなかった。特に怒りの感情と死への恐怖は堪らなく美味いものだから、好んで喰らってたよ! それがどうだよ。あんたのせいで調子が狂いっぱなしだよ。何だってオレが人間の機嫌を伺うようなこと口走ってんだよ」
「すまないな」
「謝るなよ! あんたがそんなこと言うと、ここがモヤモヤして嫌なんだよ!」
胸元を抑えて怒鳴りつける。
対して佐倉はいつも通り淡々と「そうか」と、すずめ丸のもどかしげな思いを受け止めた。そして、
「恨んでいないから安心しろ。すずめ丸」
「????????」
おもむろに手を上げて、すずめ丸の頭を優しくなでた。
思わぬ出来事に、何が起きたのか理解のできないすずめ丸は、目を丸くして暫し硬直。のちに慌ててその手から飛びのいて逃げると、
「な、な、な、何してんだよ!」
顔を赤らめて声を張り上げた。
「いや。私に息子がいたらこんな感じなのかと思ったらつい……」
「つい。で、ヒトの頭を撫でるな!」
「すまない」
「謝るな!」
「分かった」
「ホントに解ってるのか?」
「ああ。解っている」
「オレは人じゃないんだ」
「そうだな」
「オレは《心喰い》の妖だ」
「ああ」
「人に害なすものだ」
「ああ」
「これまでも数多の人間を廃人にしてきた」
「ああ」
「それなのに、なんだってあんたは無事なんだ?! 無事でそうやってオレを傍に置いておく?」
置いておくも何も君が勝手に居ついているのでは?
とは思ったが、それは胸の奥にしまっておいて、佐倉は答えた。
「どうして私が廃人にならずに済んだのかは分からない。だが、少なくとも私は君によって救われた」
「?!」
「君によって救われて、今もこうして生きている。心を失ったから感情も失った。それでもかつて感じていた感覚や、こういう時、人はどう思うのかは想像がつく。それに、君がいるから私はある意味、結果的には人助けも出来るようになった。一つの感情によってすべてが塗り潰されて苦しみ続けるぐらいなら、その感情を奪えばいい。それによって私は忘れかける己の感情も再認識できるようになっている。だから、君が自分を責める必要はどこにもないし、君がどこかへ行く必要もない。むしろ私には君が必要だ。君がいなくなってしまえば、それこそ私は生きていけなくなっているだろう。だからな、すずめ丸。君は何も心配する必要はない。そんな不安そうな顔をする必要はないし、泣きそうな顔をする必要もない」
「泣いてねぇよ!」
歪んだ顔で全否定してきても何の説得力もないと思いつつ、佐倉は本心だけを語る。
「むしろ、君がどうして私の書いた戯作を気に入り、目的を果たした後も共にいてくれるのか分からないが、これからもずっと共にいてくれることを私は切に願うよ」
「知るかよ!」
と言って俯いてしまうすずめ丸を見て、佐倉は思わずにはいられない。
本当にすずめ丸は人の子のようだと。
誰もが人の子だと疑わないはずだと。
すずめ丸――と名付ける前の存在は、恐ろしいものだった。禍々しいものだった。
少なくとも、屈託なく笑うことも、純粋に怒ることも、滑稽なほどに不機嫌を晒すことも想像なんて出来なかった。
それでも佐倉は死にたくなかったから、持ち掛けられた取引に応じて心を差し出した。
さして昔の話ではない。言ってしまえばまだ二年と経っていない。
たったそれだけで、すずめ丸は随分と感情豊か表情豊かになったと佐倉は思う。
それはまるで、佐倉から奪った心が宿り、感情が育まれたようで……
だからと言って、佐倉にすずめ丸を恨む気持ちがないのは本当だった。
そんな気持ちを生み出す心がないのだから当然だ。
他者を恨むというのも、相当心をすり減らす行為だ。
故に、佐倉にすずめ丸を恨むことなどそもそも不可能なことだったし、今更そんなことに執着する気もさらさらなかった。
あるとすればただ一つ。妖の癖に妖らしからぬ行動を取る自分に時々苛立ちながらも、それでも人間のようになっていくすずめ丸を観察すること。
何がすずめ丸に変化をもたらいているものか。空想上の存在だとばかり思っていた《妖》としか表現できぬ存在が実在し、それが傍にいることに対する奇跡を堪能すること。
だからこそ、すずめ丸は何も気にする必要がない――のだが。
部屋の中に、なんとも言えない微妙な空気が漂っていた。
言い表すならば、『むず痒い』。
はて、この空気をどうするべきかと佐倉が思った時だった。
「戯作者佐倉はいるか?!」
『?!』
突如、全てのもどかしい空気を吹き飛ばすかの如く、豪快に長屋の引き戸がスパンと開けられて、怒りも露わな若い娘がやって来た。
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