第四章『焔天女』

(1)

「またお越しくださいませ」

「はい。ごちそうさんでした」


 質素な小袖に前掛け姿の女人に、好々爺とした顔つきの老人が頭を下げる。


「では、旦那様」


 と、その先を促すように、蕎麦屋の暖簾を押さえて真面目な顔つきの青年が待ち構えていれば、老人はゆっくりとした足取りで蕎麦屋を後にした。


「で? どうですか?」


 と、青年がほどなくして老人に問いかけると、老人は、口元に笑みを湛えたまま、冷たい光を目に宿して答えた。


「上出来だ。この前くたばったあの女の代わりは十分果たせるだろうな」

「では、やりますか?」

「ああ。やってくれ。明日の今時分。あの店に来るようにと」

「解りました」


 そこには、好々爺とした温かさは微塵もなかった。

 あったのは、どす黒い禍々しい気配のみ。

 だが、それとて刹那のことだった。


「誰でも借金には苦労する。借金っていうのは嫌なものだねぇ」


 心から同情する言葉を紡いで、老人と青年は通りを行く。

 その二人が、どんなあくどいことをしているかなど、すれ違う通行人たちに分かるはずもなかった。



 翌日、老人が再び同じ頃に蕎麦屋を訪ねると、蕎麦屋の前には人だかりが出来ていた。

 一体何事かと、遠巻きにしている野次馬の一人に訪ねれば、


「いや、なんか、借金取りが押しかけて来たらしい」

「なんとそれは気の毒な」


 心底同情して老人が相槌を打てば、


「どうか! どうか! 許してやってください!」


 悲鳴染みた女の声と、


「やかましいわ! 貴様らにゃ関係のない話だろうが! それとも何か?! あんたらが肩代わりしてくれるって言うのか?! ああ?」


 銅鑼のごとき恐ろしい声が響き、


「おやめください! おやめください!」


 見るからに強面のガラの悪い大男たちによって、女が一人連れ出されて来た。

 それは昨日、老人に対して声をかけた給仕の女だった。

 一部始終を見ていた野次馬たちの間から、絶望と同情の気配が立ち昇る。

 だからと言って、男たちの前に立ち塞がって、女を救おうとする者はいない。

 誰もが同情はするが、巻き込まれたくないと思っていた。

 引きずり出された女は泣いていた。


 当然だと、誰もが思った。

 借金取りに肩代わりと聞けば、大抵原因は博打だ。旦那の不始末を女房が払う。

 悲しいかな、割とよくある話と言えばよくある話。

 だが、だからと言って甘んじて受け入れられるものではない。

 借金のかたに連れて行かれる女の末路はほぼ一つ。

 怯えるなと言う方が無理だった。泣くなと言う方が酷だった。


「もう少し。もう少し、お待ちください。必ず、必ずお返ししますから」

「うるせえよ。そうやってもう半年もこっちは待ってやってたんだろうが」

「え?」

「え? じゃねぇよ。それを知らされていなかったとでも言うのか? だったら、お前さんを騙していた旦那を恨みな」

「そんな……」


 容赦ない事実が、女の顔に絶望を刻む。

 そんなことはないと言えるだけの根拠がなかったのだろう。

 むしろ、何かしら旦那の態度に思い当たる節があったのだろう。

 女はすっかりと諦め切って、ハラハラと涙を流していた。

 それを、蕎麦屋の店主と女将が何もできずに戸口で立ち尽くして見守っている中、


「これ、少し待ちなされ」


 老人は一歩前に出て声を上げた。


「ああ? 誰だ今の」


 ガラの悪い男たちが足を止めて辺りを見回す。


「私です。私。少しその方を連れて行くのを待っては下さいませんか」

「ああ? 何だジジイ。お前、こいつの身内か?」


 小柄な老人を、顔に傷のある男が脅すように睨み下ろす。

 対して老人は、


「いえいえ。最近こちらで食事を取るようになりまして。まだお会いして三回目」

「だったら赤の他人もいいところだろうが! さっさと消えろ!」


 鬱陶しいとばかりに苛立ちをぶつけられるも、怯え上がるのは老人の背後にいる野次馬ばかり。

 老人は、困ったもんだと言わんばかりに眉尻を下げて、


「老人の楽しみを奪われては堪らんのですよ」

「知るかよ!」

「ごもっとも。ですが、酔狂で皆さんの前には出られません。若い頃ならいざ知らず。吹けば飛んで行きそうなほどに弱った体で一体何が出来ましょう? 供の者は若いと言ってもただ若いだけで腕っぷしはからっきし」

「旦那様……」


 酷い言い様に、真面目な顔つきの青年が弱り顔になる。


「ですが、年を重ねた分、持ち合わせたものもございます」

「なんだよ。あんたがこの女の旦那が作った借金を肩代わりするとでも言うのか?」

「ええ。そうしましょう」

『は?』


 と、声を揃えて発したのは、いったい何人の人々だっただろうか。

 あまりにもあっさりと告げられた発言に、誰もが己の耳を疑った。

 それは、言い出した借金取り自身にも言えた。


「お前、自分が何言ってるのか分かってるのか?」

「ええ。解っていますよ? その方の借財はいくらばかりですか?」


 問われて借金取りは答えた。五両と。


「ではこれで」


 と、老人は当然のように懐から財布を取り出すと、受け取れとばかりに差し出した。

 借金取りたちが鼻白み、野次馬たちがどよめいた。

 連れ去られかけた女は、半ば呆然と老人を見やる。


「どうなされました? 五両でよいのでしょう?」

「ほ、本物か?」

「贋金なんて、持って歩いてどうします」


 疑う大男に老人が顔を顰める。


「それとも、何がなんでもその方が払わなければならないという決まりでもあるのですかな?」

「そんなもんは、ねえが……」

「でしたらどうぞ、これを受け取ってください」


 さあ、さあと言わんばかりに差し出せば、大男たちが互いに顔を見合わせて、


「頭がおかしいんじゃねぇか、ジジイ」


 悪態をつくと、引っ手繰るようにして金を奪い取り、


「行くぞ」


 号令一つで大男たちは帰って行った。

 後には、すっかり腰を抜かして呆けて座り込む女が一人。

 その顔が言っていた。何故と。

 何故、見ず知らずの他人のために気前よく五両もの大金を支払えるのかと。

 老人は、穏やかな笑みを浮かべながら、恐ろしい思いをした女の元へ歩み寄ると、着物が汚れるのも構わずに地面に膝をついて視線を合わせた。

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