(2)
「大丈夫ですかな?」
女はぎこちなく頷いた。頷いて、問い掛けた。
「何故?」と。問わずにはいられなかった。
対して老人は、
「なに。見ていられなかっただけですよ。ちょうど持ち合わせてもいましたし」
「だとしても、何故?」
それは、周りで事の成り行きを見守っていた人々すべての疑問でもあった。
誰もが固唾をのんで答えを待ち受けている中で、老人はぺしりと己の頭に手を当てると、
「いや、本音を申せば、勿体ないと思ったんですよ」
「もったい……ない?」
「そうです。あなたが作った借金でもあるまいに、そんなもののためにみすみす不幸な目に遭わされるなんて、勿体ないと。それよりは、私どもの旅籠で働いてもらいたいと思ってしまったんですなぁ」
「旅籠?」
「ええ。初めてそちらさんで蕎麦を食べたときから、あなたさんの接客は心地が良かった。もしも私どもの旅籠で働いてもらえたらと、ずっと思っていたのです。ですが、働かれている蕎麦屋さんには恩などもあるでしょうし、引き抜きたいといわれても、すぐさま良い返事が返ってくるとも限らない。どうしたものかと思っていた矢先にこの騒ぎ。ズルいとは思いましたが、どうせ働いて金を返すのであれば、私どもの旅籠で返済しきるまで働いてもらいたいと思ったのですよ。もちろん利子などはありませんが、どうでしょうか? もちろん、長屋が近いのであれば通いでも構いません。通いが難しいのであれば旅籠の裏の長屋を紹介します。どうでしょうか?」
と、突如本音を明かされて、女の眼にはみるみる涙が盛り上がった。
同じように、野次馬たちもざわついた。
働きぶりを認められたお陰で、間一髪女の運命が変わった場面と遭遇したのだから。
どこで誰が見ているとも限らない。
しっかり働いていれば、こんな奇跡も起こることがあるのだと。
本当に奇跡だと誰もが思った。
だが、女はすぐさま飛びつく真似などしなかった。
女は見た。これまで働かせてもらっていた蕎麦屋の主人と女将の顔を。
二人は目元を拭いながら、笑顔でうんうんと頷いた。
こちらは気にするなと。行ってらっしゃいと。
故に女は心を決した。
「どうか、このご恩に報いたいと思います」
両手をついて、深々と老人に対して頭を下げる。
今にもかどわかされそうになっていた女にしてみれば、老人の申し出と成したことは天の助け以外の何ものでもなかっただろう。
野次馬たちにしても、この件は奇跡と美談で捉えたものが多かった。
女と老人に向けた拍手と喝采が良い証拠。
その中でいったい何人が考えただろうか。
ある意味、女には選択をする権利などなかったということに。
恩を着せられ逃げ場をなくされていたということに。
感謝に肩を震わせ頭を下げる女を見下ろしている老人の顔が、醜い笑みを浮かべていることに。
全ては仕組まれたことだった。
あの大柄な強面の男たちは、老人の手下だった。
借金のある女たちの中から、老人の目に留まった女の元へ送られる男たち。
男たちは借金のある女の元へ行き声を張り上げ脅して怖がらせ、そこに颯爽と老人が現れて、借金を肩代わり。見ず知らずの人間にそんなことをされれば疑問を抱くのも無理はない。そこで老人が肩代わりした分、自分の下で働いてほしいと提案する。
女たちは疑わなかった。老人の好々爺とした顔つきや物腰。供についている真面目そうに見える青年との微笑ましくも見えるやり取りのおかげで、女は老人を信じて働きに来ることを約束する。
そして、全てがまやかしだったと知ったときには時既に遅し。
もはや逃げることなど叶わない状況を作り出されることとなる。
そう。全ては老人の手のひらの上での出来事だった。
だが、九死に一生を得たような心地の女たちに、冷静な判断など出来るわけもなく、この日も一人、哀れな蝶が毒蜘蛛の巣へと引っ掛かった。
「ごめんくださいまし」
その日、老人の営む旅籠に現れた娘を見て、下女中、番頭を初め、あらゆる人間が目を見開き言葉を失った。
年の頃は十代半ば。山吹色の小袖に草色の帯をした、人形師が丹精込めて作ったような美しい顔立ちの娘の登場に、誰もが声を掛けることを忘れていた。
どれだけの沈黙が下りていたものか。長かったのかもしれず、短かったのかもしれず。
「あの……」
と、どこか平坦な声音で娘が口を開くと、
「い、いらっしゃいませ。お、お泊りですか?!」
我に返った番頭が声を掛けると、まさに人形のように表情一つ変えずに娘は小さく頭を振った。
「では、どういったご用件で?」
戸惑いつつ番頭が訊ねれば、
「姉の代わりに働きに参りました」
ニコリともせず答える娘。
「姉?」
誰のことだと言わんばかりに番頭が首を傾げると、
「先日、借金五両を肩代わりしてもらったものです」
せっかくの美貌が台無しだと思わずにはいられぬほどの平坦な口調。
だが、娘の言葉を聞いて番頭は合点が行った。
そうですか、そうですかと、心底同情した様子で頷き番台から立ち上がると、
「一体何の騒ぎだい?」
奥からやって来た老人が、玄関口に立つ娘を目にして目を見開く。
「なんとまぁ……。そちらの娘さんは?」
「いえ、先日旦那様が助けられた、蕎麦屋で働いていた方の妹らしく」
「なんとまぁ」
すかさず耳打ちをした番頭の言葉に、さらなる驚きを表しながら娘に近づく老人。
それを見て、娘は静かに一礼すると、
「姉の代わりにこちらで働かせていただきたく参りました」
淡々とした声音で要件を告げた。
「いや、まあ、それは構わないのですが」
「早く仕事を覚えたいので、出来ればこちらの長屋に住まわせて頂きたいと思います」
老人は思いがけぬ掘り出し物を手に入れたとばかりに緩みそうになる口元を引き締めて、
「それはそれは。では、さっそく長屋に案内させましょう」
「ありがとうございます」
再度頭を下げる娘の前で、老人は番頭に目配せを済ませる。
「では、こちらに」
そうして連れていかれる娘を見て、老人は内心でほくそ笑んだ。
上物も上物がやって来たことに。
しかし、それが大きな間違いだということを、老人はすぐに知ることとなった。
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