(3)


 誰もが寝静まった夜だった。老人は蝋燭を片手に、自らの城と称しても過言ではない旅籠の中を巡回していた。


 近頃火事が多かった。

 小さな火種であれば自力で消し止めることも出来るだろう。

 だが、大きく燃え広がってしまえば人の手で消し止めることなど不可能。

 ましてや旅籠には泊り客も大勢いる。

 火の始末だけはきちんとしなければ、どれだけの被害が出るか分からない。


 火は恐ろしいものだった。

 火事は恐ろしいものだった。

 一切合切あらゆるものを消し炭と化す火事。


 思い出しただけで震えが走る。

 赤々と燃え上がる炎が天を焦がす様を。周囲に立ち込める黒煙を。あの鼻の奥にこびりついて離れない焦げ臭いにおいを。


 思い出しただけで怖気が走る。

 故に、見回りには余念がない。

 厨の点検は特に念入りにし、泊り客にも事情を話して明かりを消させた。


 点けているのはただ一つ。

 老人は、階下へ続く階段を見下ろした。

 耳を澄ませても何も聞こえては来ない。


 だが、そこで繰り広げられている事は、老人と常連客と下女中しか知らぬこと。

 常連客は喜び、下女中は借財を減らし、老人は儲けた。


 番頭や下男。旅行客には知る由もない、老人のもう一つの仕事。

 飯盛り女のいる旅籠では珍しくない仕事。

 むしろ、それを承知で飯盛り女は仕事を請け負う。

 だが、この旅籠は飯盛り女として下女中を雇っているわけではなかった。

 それでも、時として同じような仕事をさせる。


 話が違うと抵抗する下女中は多い。それでも、老人は心からの同情を露わにし、どうしても断れぬ相手なのだと頼み込み、一晩に付き日銭の十倍の給金をつけるからと拝み倒す。申し訳ない。申し訳ないと、涙さえ流して土下座して頼み込む。

 そうすると、下女中の八割方は目まぐるしい葛藤の末に、蒼褪めた顔で覚悟を決める。


『下でお客様がお呼びだよ』


 申し訳なさを顔いっぱいに浮べて告げれば、それがもう一つの仕事の合図。

 そうして今宵も下女中の一人が、借財を減らすべく身を委ねている。

 それを冷ややかに見下ろして、老人は自室へと引き上げる。

 老人にしてみれば、本気で拒み切られれば無理強いなどしなかった。

 実際、絶対に嫌だと泣いて拒絶する下女中には客を宛がったりはしなかった。

 無理を承知で頼みはするが、無理だと分かればあっさり引いて、二度と話を振りはしない。

 そうすることで、相手は老人にさらなる感謝の念を持つ。


 本来持つ必要もない感情ではあるが、借金を肩代わりし、無理を断っても追い出すこともなく変わらず気にかけてくれる相手に対し、まっとうな働きで返そうとする。

 ただの口入屋から紹介された女たちには、そんな懸命さなどない。


 だからこそ、老人は借財を負った女たちを見繕って来た。ごろつきを雇い、ワザと借金を負わせ、取り立てるところに颯爽と現れ肩代わりをして恩を売るという芝居を打って。


 そうして老人は旅籠を存続させて来た。我が子のように可愛い旅籠を。

 若かりし頃、借財を負った老人を見捨てた家族たちに見返すように、老人は旅籠を愛した。旅籠を支えてくれる使用人たちを愛した。形は歪極まりないものだが、老人なりの善意と愛。


 そうすることで、老人が何よりも愛してやまない金を稼いでくれるから。

 この世はすべて金だった。金なのだと若かりし頃に老人は学んだ。

 金がなければすべてを失う。だが、金さえあれば心が満ちる。

 だからこそ、火事を何よりも老人は恐れていた。

 火事は、炎は、すべてを飲み込み無へと返す。

 無一文になどなりたくはなかった。


 近頃頻発する火事。それは付け火だとも言われていた。

 嫌だ嫌だと老人は思う。火事だけは嫌だと心から厭う。

 故に、自室の障子を開けたとき、ギョッとした。

 本来あるはずのない赤い色が、当然のように鎮座していたから。

 驚き過ぎて声も出ない。


「な、何をしているんだ、こんなところで」


 それは、赤い襦袢姿の娘だった。

 人形のように美しく整った無感情な顔で、じっと見上げて来る娘は、何かこの世のものではないかのようで、老人はごくりと唾を飲んだ。

 それは妖艶な娘の姿に対する淡い期待からか、気味の悪さからか。

 速まる鼓動からは老人自身にも判断が付かなかった。

 それでも老人は『出て行け』とは言わず、一歩踏み込み後ろ手に障子を閉めた。


 同時に娘は立ち上がる。

 満足な光源もない中で、俄かに発光しているかのように浮かび上がる娘が、静かに老人へと歩み寄る。

 老人は動かない。これから起こることを予感して。

 程なく娘は老人の目の前にやって来ると、その胸にそっと手を当て、頭を添えた。


「これは、一体何の真似かね?」


 声が上擦らぬように気を付けるも、鼓動ばかりはどうにもならない。

 老人の胸に頭と手を添えた娘には筒抜けであることは明白。

 そんな中、娘は告げた。


「こうすれば、早く借金を返せると聞きました」

「一体誰からだね」

「亡くなった母からです」


 刹那、老人の頭の中で警鐘が鳴った。


「君は確か、姉の代わりにここに来たと、言わなかったかな」

「はい。嘘です」


 淡々とした口調であっさりと認められる。


「では、母親と言うのは、誰のことだね」


 と訊ねれば、


「何故そんなことが気になるのですか?」


 どうでもいいとばかりにはぐらかされた。

 そして、


「ワタシはただ、あなたに対して復讐を果たすために来ただけなのですから」


 聞き捨てならない言葉が耳朶を打つ。



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