(4)

 刹那、老人は力の限り娘を突き飛ばした。

 娘は軽々と突き飛ばされ、老人の寝具の上にばたりと倒れる。

 反動で、襦袢の裾が割れて白い脚が見えた。

 相手が相手であれば、これほど心躍る景色もないだろう。

 だが、老人にしてみればそれどころではなかった。


「お前は何者だ!」


 本能が告げていた。この娘は危険だと。


「ふ、復讐とはなんだ!」

「なんだ?」


 倒れたまま、娘は繰り返した。


「復讐は復讐。恨みを晴らすために行う行為。それ以外に何があるのですか?」


 乱れた髪の間から、本来見えるはずのない黒い瞳が老人を見た。

 まるで、闇を写し取った湖面のように冷たい瞳が老人を貫くと、老人は咄嗟に後ずさる。

 パチパチと、どこからともなく微かに弾ける音がする。

 その鼻には何か焼け焦げた臭いが届き――


「火事だぁああ」


 絶望的な悲鳴が遠くの方から聞こえて来た。

 瞬間、老人は察する。

 即座に振り返り、障子を開け放つ。


「火事だ! 火事だ!」


 泊り客たちが我先にと逃げ出す音がした。

 ドタドタと複数の逃げ惑う足音。立ち込める煙。火の手は見えずとも、老人は冷水を浴びせられたかのように震え上がった。

 体が震え、足が震え、心が震えた。


 何よりも忌み嫌う火の手が上がる。

 全てを飲み込む炎が、我が子と呼べる旅籠を燃やす。

 冗談ではなかった。許せるものではなかった。


 故に否定した。

 火の手はどこにもなかったはずだと言いかけて、老人は唐突に思いついた。

 老人は娘を勢いよく振り返る。

 娘は――嗤っていた。口の端だけ持ち上げて。

 老人は、駆け出した。

 娘にではなく、火の元に向かって。


 消さねばならなかった。消さねば燃えてしまうから。

 その背に、冷たい娘の哄笑が浴びせかけられるも構ってなどいられなかった。

 天井を黒煙が覆い、焦げた臭いがますます強くなる中、老人はまっすぐに火元へ向かって走った。


 唯一火を灯していた場所。下へと伸びる階段の先の離れの部屋に向かって。

 最早、老人の頭の中に泊り客のことなど微塵もなかった。守るべきは人にあらず。旅籠。

 人はまた増やせばいい。だが、旅籠が燃え尽きてしまったら。金が燃え尽きてしまったら。


 借金などごめんだった。

 二度とあのような屈辱と苦しみは味わいたくなどない。

 火を消さねばならなかった。

 燃やされるわけにはいかなかった。


 だが、出し抜けに視界が朱に染まったら、老人は目を見張って息を飲んだ。

 目の前で、炎が舞っていた。

 アハハハハと哄笑を上げながら、炎の衣を纏い踊り狂っていた。

 まるで炎の天女の炎舞。

 炎で作られた女人らしきものたちが、着物の裾を翻し、火の粉を飛ばして、手と手を取り合い踊り狂う。


 障子が焼け、天井が焼け、床が焼けた。

 メラメラとメラメラと。

 轟轟と盛大に燃え上がる炎の中から、更なる炎の天女が生まれ出る。


 天女は駆ける。老人に向かって。

 老人は悲鳴を飲み込み目を瞑る。

 その瞼越しに、視界は橙色に染まり、熱風が老人を襲う。


 耳朶を打つのは天女たちの歓喜に沸いた笑い声。

 老人が再び目を開ければ、そこは既に火の海と化していた。


 老人は、慄いた。

 火の海。

 到底人の手で対処など出来ない炎の海。


 耐えきれずに梁が落ちて来る。炎が舞い、熱風が渦巻く。

 夜とは思えぬ明るさの中、熱の中。

 老人の頭の中は白一色に染め上がっていた。


 何が起きているのか理解できなかった。いや、理解することを拒絶した。

 これは夢だと悪夢だと。


「何がそれほどまでに信じられないなのですか?」


 今にも泣きださんばかりの顔で老人は見た。

 どこまでも暗く冷たい黒い瞳に、薄っすらと笑みを浮かべた娘の顔を。

 娘はその身に炎を纏いながら、一切の熱さなど感じていないかのように立っていた。


「これほど火元に適した場所もないでしょうに」


 確かに、そうだった。だが、


「何故……」

「何故……ですか。そうですか。解りませんか。解らないのなら仕方がありません。恨みを買う人と言うのは確信犯か無自覚か。した方は大したことなどないと思うのでしょう。ですが、された方は別です。それによって引き起こされた悲劇に対して怒りを覚えるものもいるでしょう。恨みを抱くものもいるでしょう。憎しみに身も心も焦がすほどの焔を宿すものもいるでしょう。単にその場所には突けば燃え上がる焔がずっと成りを潜めていたに過ぎないのです」

「焔……」

「そう。故の焔。ご覧になったでしょう? 歓喜に踊り狂う焔たちを」

「お、前が!」


 皆まで言わせず、老人は憎しみの衝動のままに娘に掴み掛かった。


「お前が私の城を!」

「はい」


 と、細い首を締め上げられながら娘はあっさり頷いた。


「ワタシは憎くて憎くて堪らなかったのです」

「何がだ!」

「あなたのせいで、ワタシの母は亡くなりました――と言う人間がおりました」

「何?」

「そのものは、最愛の母を奪われたことに対して強い復讐心を宿しました。その復讐心は一人二人のモノではありません。たった一つの蝋燭の炎ごときであれば、一吹きで吹き消すことも可能でしょう。ですが、それが寄り集まったら話は別です」


 娘の白い肌を炎が染める。

 漆黒の瞳の奥に焔が揺れる。


「ごらんなさい。この美しい焔たちを」

「ふざけるな! この放火魔が! よくも私の旅籠を燃やしてくれたな!」


 老人は締め上げる。ギリギリギリギリと締め上げる。

 しかし娘の顔に苦悶の表情は浮かばない。

 ただただ底冷えした黒い瞳を向けたまま、


「燃えているのはこの旅籠だけではありません」


 恐るべきことを口にした。

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