(4)

 何が起きたのか、分からなかった。

 まるでキツネにでも抓まれたかのような出来事に、老人はただ呆けたように口を開けて座り尽くしていた。

 辺りは一面焔の海。

 障子も襖も天井も梁も、床さえも燃えていた。

 橙に染まった世界。

 熱も焦げ臭いにおいも炙られる痛みも鮮明に覚えている。

 最早手の施しようもないほどに燃えていた。

 この世の終わりだと思った。

 それが、その炎が、音を立てて消え去った。

 後に残ったのは燃え尽くされた無残な姿。

 それでも炎は消えていた。


「何が?」


 呆然と呟けば、


「あんた、死ぬことよりも生き残ることの方が怖いのか?」


 嘲りを含んだ問い掛けが向けられる。

 問い掛けは、老人の背後からかけられた。

 見やればそこに、まるで雀の羽のような色合いのフワフワの髪の見たことのない少年が立っていた。


「当り前だ。あんな苦しみ二度と味わいたくなどない!」


 老人は、誰だお前はとは問わなかった。

 問うだけの気力がなかった。

 状況に頭が付いてこない。何が起きているのか理解し切れない。

 故に、冷静な判断などできるはずもなく、


「だったらその恐怖心から解放してやろうか?」


 少年の申し出に、一も二もなく飛びついた。


「本当か? 本当に楽にしてくれるのか?」


 責任など負いたくはない。借金など作りたくはない。

 憎まれたくない。恨まれたくない。針の筵で生きていくのだけは嫌だった。

 苦労に苦労を重ね、屈辱に唇を噛み、自尊心も恥も外聞もかなぐり捨てて、がむしゃらに金を稼いだ。後ろ指をさされても、嘲笑われても、金を稼ぐためなら何でもした。


 あんな苦労をこの年になってから再び繰り返すなど嫌だった。

 苦しみたくはなかった。幸せになりたかった。見返してやりたかった。

 それが出来ると思っていた。それだけのことをしてきたと思っていた。

 やり尽くして死ぬときは、それなりに惜しまれて死にたいと思っていた。

 それが、夢のまた夢だと言われてしまえば、突き付けられてしまえば、あり得ないことだと言われてしまえば、願わずにはいられなかった。


 楽にして欲しいと。助けて欲しいと。それがたとえ命を奪われることになったとしても。

 生き地獄を味わうより断然マシだとばかりに少年に縋りつき懇願すれば、少年は嗤った。

 にんまりと。まんまとハマったなと言わんばかりのしてやったりの笑み。


 それでも、老人に選ぶ権利などなかった。

 選ばせられていると分かっていても、ほかの選択肢を選ぶわけにはいかなかった。

 何故ならすぐ傍に、老人のすぐ後ろに、あの焔を纏った娘がいたのだから。

 その気になればいつでも再開できるとばかりに、ちりちりとした熱を与えて来るのを感じていたから。

 だから――


「遠慮なくいただくぜ」


 少年――すずめ丸が舌なめずりせんばかりの笑みを浮かべて、その手を容赦なく老人の胸に突き刺したときも動揺はしなかった。が、


「?!」


 痛みもなく己の胸元に差し込まれたすずめ丸の手を見下ろして、老人は呆気にとられた。

 痛みがないことが、より老人を混乱させた。

 すずめ丸の腕は肘まで老人の胸の中に潜り込んでいたというのに。

 理解が出来ず、混乱極まる顔をすずめ丸に向けたとき、すずめ丸は目を細め、一気にその腕を引き抜いた。

 刹那、ズルズルズルと体の中から何かが引き抜かれるような感触に、老人は総毛立つ。


 そして見た。

 自分の胸から引き抜かれる赤黒い焔を。

 いや、自分の背後にいた焔を纏った娘が、老人の体の中を通って引きずり出されるのを。


 その先で、娘の躰が凝縮されて球体を形作る様を見る。

 それは長かったようで短い時だったのかもしれない。

 煌々と輝く赤黒い球体。それが、赤い球体の中に無数の文字がひしめき合っているせいだとは老人は気付かない。

 老人の恐怖心と絶望と、怒りと憎しみの感情ほのおが凝縮された《心球》。

 それを、すずめ丸は喰らって見せた。


 ガリッと噛み砕かれた音を聞いたとき、老人は自分の中から何かが消え去った感覚に襲われて、急速に意識が闇に飲み込まれる現象を体験した。



 後には焦げの一つも見当たらない、何事もなかったかのように眠っている旅籠と、その廊下に倒れ伏す老人が一人。

 それを冷ややかに見下ろして、すずめ丸は言った。


「これにて《心喰い》完了」


 翌朝、老人が廊下に倒れている姿を見つけた使用人たちによって一騒ぎが起きるが、すずめ丸の与り知らぬことだった。


   ◇◆◇◆◇


 男たちは逃げ回る。

 涙と鼻水で汚れた恐怖の表情を浮かべて懸命に逃げ回る。

 どこもかしこも炎に呑まれ、煙に巻かれて視界もろくに効かない中で。

 それを追うのは赤黒い焔で作られた女たち。

 触れた傍からあらゆるものを燃やし尽くす焔の女たちに追い回されて、男たちは逃げる。逃げ惑う。


 女たちはそんな男たちを見て嘲笑う。

 何故逃げると嘲笑う。

 こちらがいくら拒んでも、力づくで組み伏せたのは誰だったのか。

 逃げられぬと知っていながら好き放題したのは誰だったのか。

 お前たちが好いてやまないワタシたちから何故逃げると追い回す。

 それをアザミは冷笑を湛えて見下ろしていた。

 逃げ場のない女たちを弄び、稼がせてやったと一方的な恩を着せ、自らの行為を正当化した男たちを。


 許せるものではなかった。

 許せるはずがなかった。

 そのせいで唯一の肉親がこの世を去った。

 その後、誰にも話せぬ秘密を抱え、笑えなくなった女たちがいた。

 秘密を知られて家族を失った女たちがいた。

 弱いものを食い物にする奴らのせいで、不幸に落とされた女たちがいた。


 許せなかった。許せなかった。

 同じことをしてやらねば気が済まなかった。

 だからアザミは助けない。

 渦巻く焔に取り囲まれて追い回される男たちを。

 獄卒の鬼の気持ちで見下ろした。

 この世の地獄を模した世界。


 女たちは嗤っていた。

 立場の逆転した世界で、不幸に陥れた男たちに復讐できる世界で、人の身を失って得た力を誇示して嗤っていた。


「さあ、燃やせ。燃やせ! 身も心も憎しみと怒りによって焼き殺されたワタシたちの想いを思い知らせてやるがいい!」


 アザミの言葉に従って、女たちは飛びついた。

 男たちの悲鳴は上がらない。

 アザミの顔には暗い笑み。

 悲鳴すら飲み込むほどの業火の炎。

 灼熱の海に全ては沈む。

 誰も助けに来てはくれない。

 誰も慈悲を与えてくれない。

 触れれば最後、全てを飲み込み喰らう焔。


「さて。次は誰の憎しみを叶えてやるか」


 アザミは嗤う。焔を映した両目を細め。耳を澄ませて想いを聴く――


   ◆◇◆◇◆


 だからか――と、お赤は戯作者佐倉の戯作本を読んで得心が行っていた。

 母親が働いていた旅籠が火事になり、中から一人の遺体が見つかったことも、その前に立て続けに起きていた火事のことも、全てはこのアザミのように、復讐によってなされたのだということを。


 あの旅籠が火を出したのは、戯作者佐倉の元を訪れてから半月後のことだった。

 原因は、あの老人だったと瓦版は言っていた。

 気が狂っていたのだと使用人たちは語っていて、金に執着し、まるで人が変わったようだったと誰もが話していたという。


 旅人に対しても、使用人に対しても、火の扱いには口喧しくなり、常にピリピリと神経を張り詰めていた。下手に話し掛ければ被害妄想染みた様子でがなり立て、常連客の足も遠退き、使用人に掛ける金が勿体ないと、次々に下女中たちの首を切り、最後はたった一人旅籠に立て籠もっていたのだと。


 それでどうして、老人が火を出したのかは分からないが、母親を奪った旅籠が元凶共々消え去ったと知ったとき、お赤は『ざまあみろ』と鼻先で笑い飛ばしていた。


 佐倉の元を訪れてからというもの、まったく怒りを感じなくなったお赤にしてみれば、今更溜飲が下がるということはなかったが、それでもうまく利用したものだと楽しくなった。

 これでもし、老人の付けた火が原因で、旅人や下女中たちの命までも奪われたというのであれば、新たな怒りや憎しみも生まれていたかもしれないが、幸い旅籠から出てきた遺体は一人だけだと報じられれば、正直お赤にしてみればどうでもいいことだった。

 

 故に、知ることはない。

 その怒りと憎しみの感情が、佐倉とすずめ丸にどんな影響を与えていたか。

 お赤はただ、穏やかな心でお久の元へ向かう。一人でも立派に生きていくための針仕事を会得するために。


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