(5)


「これは復讐の焔だと言ったはずです。彼女たちは各々復讐のために動きます」

「な、にを言っている?」


 脳裏をよぎった可能性に動揺し、わずかに締め上げる手から力が抜ける中、娘は告げた。


「復讐するべき相手はここだけではないと言ったのです。妻を、母を、娘を、姉を、妹を、食い物にした男たちに復讐を。それを強いた場所に復讐を。それに関わったものたちに復讐を。それらすべてに復讐するまで、業火の焔は立ち止まりません。今旅籠の外に出てみれば、きっと面白いものを見ることが出来るでしょう。夜空を照らす火柱に、そこから生まれた焔天女が四方八方に飛び散る姿を。見る人によってそれは悲劇でしかありませんが、人によっては胸のすく光景ともなりましょう」


 刹那、老人の脳裏を焔天女が夜空を疾駆する姿が思い浮かんだ。

 焔天女が降り立つ先々で火の手が上がる。あちらからもこちらからも。

 人々が逃げ惑い、打ち壊される音まで聞こえる。


 火の海。炎の海。

 全てを飲み込み無に帰す焔。


 老人は震えた。ガタガタと瘧のように震えた。

 立っていられず膝をつく。

 頭を抱えて蹲る。

 燃え盛る焔の音が老人をなぶっていた。

 恐怖心を煽り立て、絶望の底へと貶める。


「大丈夫です。あなたが炎にまかれて死ぬことなんてありませんから」


 娘は幼子を抱きしめる母のごとく、老人を抱きしめて囁いた。

 何の熱も心も籠らぬ声で。


「ワタシがいれば大丈夫。ワタシがあなただけは守って見せます」

「何故だ?」と、涙と鼻水で汚れた顔を上げれば、娘は言った。

「元凶であるあなたまで楽に死なせてどうするというのですか? 全てを失ってなお生き残されることこそが復讐。あなたのせいで巻き込まれた人々の恨みと怒りを抱きながら、あなたはこれからも生きていくことになるのです」


 老人は、ザッと血の気の引く音を聞いた。

 周りは火の海で、皮膚さえちりちりと焼けるような痛みを覚えているというのに、老人の体は冷水につけられているかの如く冷え切っていた。

 心が震えていた。ガタガタと音を立てて体まで震えさせるほどに震えていた。

 自分一人が生き残る。何事もなく生き残る。

 そして向けられるのは恨みと憎しみの感情ばかり。

 自分の旅籠が原因で飛び火したならば、恨まれるのは必定。

 その保証はどうするのか、旅籠を立て直すにはどうするのか。金も何もかもが燃え尽きた中、墨と化した旅籠の前で何が自分に残されるのか。


 借金――


 脳裏に浮かぶ二文字。

 ゾッとした。思い出したくもない辛い日々が走馬灯のように思い出された。

 苦しく惨めな日々。何度命を絶とうと思ったか知れぬほどに辛い日々。

 それが再び目の前に現れる。

 その地獄に再び己自身の身を浸さなければならない。

 その事実に、老人の理性は吹き飛んだ。


「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 頼む! 助けてくれ! それだけはやめてくれ! 私も一緒に燃やしてくれ!」


 娘に縋りついて懇願する。

 生き残ることが何よりも怖ろしかった。

 死ねばあの恐ろしい地獄を体験する必要などないとばかりに、頼むから殺してくれと希う。

 その時だった。


「本当に、人間ってのは面白ェ生き物だよな」


 嘲笑を含んだ聞き慣れぬ声がしたかと思うと、ザァアと羽虫のごとき音を立てて、世界から、焔がばらけて消え去った。



 何が起きたのか、分からなかった。

 まるでキツネにでも抓まれたかのような出来事に、老人はただ呆けたように口を開けて座り尽くしていた。

 辺りは一面焔の海。

 障子も襖も天井も梁も、床さえも燃えていた。

 橙に染まった世界。

 熱も焦げ臭いにおいも炙られる痛みも鮮明に覚えている。

 最早手の施しようもないほどに燃えていた。

 この世の終わりだと思った。

 それが、その炎が、音を立てて消え去った。

 後に残ったのは燃え尽くされた無残な姿。

 それでも炎は消えていた。


「何が?」


 呆然と呟けば、


「あんた、死ぬことよりも生き残ることの方が怖いのか?」


 嘲りを含んだ問い掛けが向けられる。

 問い掛けは、老人の背後からかけられた。

 見やればそこに、まるで雀の羽のような色合いのフワフワの髪の見たことのない少年が立っていた。


「当り前だ。あんな苦しみ二度と味わいたくなどない!」


 老人は、誰だお前はとは問わなかった。

 問うだけの気力がなかった。

 状況に頭が付いてこない。何が起きているのか理解し切れない。

 故に、冷静な判断などできるはずもなく、


「だったらその恐怖心から解放してやろうか?」


 少年の申し出に、一も二もなく飛びついた。


「本当か? 本当に楽にしてくれるのか?」


 責任など負いたくはない。借金など作りたくはない。

 憎まれたくない。恨まれたくない。針の筵で生きていくのだけは嫌だった。

 苦労に苦労を重ね、屈辱に唇を噛み、自尊心も恥も外聞もかなぐり捨てて、がむしゃらに金を稼いだ。後ろ指をさされても、嘲笑われても、金を稼ぐためなら何でもした。


 あんな苦労をこの年になってから再び繰り返すなど嫌だった。

 苦しみたくはなかった。幸せになりたかった。見返してやりたかった。

 それが出来ると思っていた。それだけのことをしてきたと思っていた。

 やり尽くして死ぬときは、それなりに惜しまれて死にたいと思っていた。

 それが、夢のまた夢だと言われてしまえば、突き付けられてしまえば、あり得ないことだと言われてしまえば、願わずにはいられなかった。


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