(6)
お久はそれから数日おきに、男の指定する甘味処などで受け渡しをしながら、いつも甘味をご馳走してもらった。
いつも優しく言葉を掛けられ、眼差しを向けられ、お久は次第に自分を取り戻し、緊張しながらも楽しむ余裕が出て来た。
むしろ、自分が憧れる、兄とは違う年上の男から向けられる優しさや信頼がくすぐったい程に嬉しかった。
自分はその人にとって特別な存在なのだと思うようになっていた。
世界が一変していた。楽しくて楽しくて仕方がなかった。
そんなことはないと思っても、あり得ないと思っても、もしもこの人と……と、妄想することをやめることができなかった。
どうしても、その男と話していると思わずにはいられなかった。自分を特別に思ってくれているのではないかと。
だから気が付かなかった。いつも繕っている着物が女物だということに。
いや、気づいてはいたが気にはしていなかった。
男が何の仕事をしているのかも、どこに暮らしているのかも、その日まで全く気にしたりはしなかった。
今から十日ほど前だった。
お久は太吉の使いで買い物に出ていると偶然、その男を見つけた。
約束の日でもないのに偶然出会えたことに心を躍らせたお久は、声を掛けようと駆け寄りかけて、男が綺麗な女人と歩いているのを目撃した。
足が地面に縫い付けられたように動かなかった。
時が止まったように思えた。世界から音が消えた。
血の気が下がった音が聞こえ、心の臓が何者かに握り締められるように苦しくなった。
(誰?)
頭の中いっぱいに疑問が湧いた。
隣にいる人は誰なのか。
自分よりよっぽど似合うその女人は誰なのか。
(どうして私の繕った着物を着ているのか)
処理し切れない感情に硬直していると、さらに男の元へ女人が増えた。
皆が皆顔見知りらしく、気安く男の腕に自身の腕を絡ませ、体を密着させる女たち。
その女が着ているものもお久には見覚えがあった。
誰なのか、何故なのか。
気が付くとお久は、ふらふらと男たちの後を付けた。
よせば良かったというのに、お久は後を付けた。
考えてしたことではない。無意識のままに。ただただ、無意識のままに。
そして聞いた。
『ねぇ、いつまであの子と遊んでるつもりなの?』
香物屋の店の外で。
『あの子ってどの子のことだい?』
自分に向けてくれていた同じ声。ただし、自分に向けてくれた優しい口調ではなく、嘲りの混じった声でこともなげに聞き返す男の声を。
男は言った。店の外でお久が聞いているとも知らずに。
お久以外にも自分に好意を寄せている娘たちに、お久と同じように仕事を与え、親身になり、ますます惚れさせて一生懸命健気に尽くそうとしている様を見るのが堪らなく楽しいからと。
さらに楽しいのは、惚れさせるだけ惚れさせて手のひらを返したときの絶望した顔を見るのが快感なのだと。
話を聞いた女たちが『ひど~い』と、口々に嘲りながら男を詰る。
気が付けばお久は自分の長屋にいた。
どこをどうやって帰ってきたか分からない。
ただただ意味が分からなかった。
同一人物だとは思えなかった。思いたくなかった。
騙されていたとは信じたくなかった。
嘲笑われていたとは思いたくなかった。
頼られていると思っていた。好意を持ってくれていると思っていた。
自分が特別な存在になっていると思っていた。特別になりたいと思っていた。
だが、全てが嘘だった。偽りだった。遊びだった。
出会ってから今まで。たった二月にも満たない夢のような時間は――正しく、夢だった。
目覚めてしまえば虚しさだけが押し寄せて来た。
どれだけ自分がバカだったのかと、浮かれ切っていた分、笑いが込み上げてきた。
笑うしかなかった。笑いしかなかった。
少し考えれば分かりきったことだったというのに、何故自分は信じてしまったのか。
笑っているうちに、涙が零れた。一粒二粒。次から次へと後を追うように涙が溢れて止まらなくなった。
腹の一つも立たなかった。立ちようがなかった。全ては自分の愚かさが招いたこと。
一人で浮かれて、一人で思い込んで、一人で打ち砕かれた。
悲しかった。愚かな自分が悲しかった。
束の間でも運命の人だと思ったのが、浮かれてしまったのが悲しかった。
胸が痛かった。心が、痛かった。
涙が止まらなかった。こんな気持ちになるぐらいなら、何も知らなければ良かったと思った。
何もかもを忘れたかった。涙とともに綺麗さっぱり忘れてしまえればと。
だが、楽しかったのだ。嬉しかったのだ。
その気持ちが、忘れようとするたびに蘇る。
虚しい夢を見るにつけ、夢だと思い知らされることが悲しくて。
悲しくて悲しくて悲しくて。
悲しくて悲しくて悲しくて。
悲しさのあまり、深く深く自分の中に沈み込み――
気が付くとお久は、自分以外のすすり泣く声を聴いた。
一人二人ではない。もっともっと沢山の女のすすり泣く声を。
お久は慰められているような気がした。同じ思いを抱いた者たちがいるということに。
だからお久は泣き続けた。
同じように泣き続ける者たちを慰めるように。
ただただ苦しい思いを抱いて。朝も昼も夕もなく。夜も夢の中でも、ただただ泣いた。
人とはいつまで泣いていられるのかと疑問に思う暇すらなく、ただただ泣いた。
泣いて泣いて泣いて泣いて。
悲しくて悲しくて悲しくて。
あらゆる周りのことなどどうでもいいとばかりに。
もう二度と傷つきたくないと言わんばかりに。
自分の中に閉じこもり。
泣いていることが、悲しんでいることが、堪らなく辛く苦しいと思っても、助けを求めることすら出来なかった。
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