(7)
――と、語りきったとき、お久は気が付いた。
ずっとずっと聞こえていた、すすり泣くような声が綺麗さっぱり何も聞こえなくなっていることに。
目の前で、無表情のままハラハラと涙を流す戯作者の存在に。
そして、自分の頬を伝うものが無くなっていることに。
お久の涙は止まっていた。
その代わりと言わんばかりに大人の男が静かに泣いていた。
その手元には、到底字『字』とは言えない線で埋め尽くされた長い長い巻物。
「あ、あの……」
お久は動揺した。
父親よりは若いと言っても、兄よりは父親に年の近い大人が泣いているのを初めて見たお久は、見てはいけないものを見ているような気がして、慌ててオロオロと周囲を見渡した。
「これにて、《心移し》完了」
筆を置くと共に、泣いているのが嘘だと言わんばかりに淡々とした声で佐倉が告げた。
「心、うつし?」
耳慣れぬ言葉を思わず反芻すると、
「もう悲しくも辛くも苦しくもないだろ?」
満面の笑みを浮かべてすずめ丸が問い掛け、初めてお久は自分の変化を知った。
「な、なんで?」
訳が分からなかった。
自分は話しただけだった。
とりとめもなく。何度も突っかかりながら、鼻を啜りながら、泣きながら。
話が前後したりもした。聞き取れなかったところも沢山あっただろう。
「もしかして、話せばそれだけで治ったの?」
「そう簡単な話でもないけどな。でも、話してくれなかったら治すことも出来なかったから、話してくれて助かったよ。お陰でいい作品が書けそうだよ。な? 佐倉」
と、ご機嫌な様子ですずめ丸が佐倉に話を振れば、佐倉は「ああ」と頷いて。
「座敷の外で心配している兄上を早く安心させてやると良い」
涙を流していることを欠片も気にした様子もなく促される。
それは言外に、もう用はないと言われているようにも聞こえたが、お久は自分の身に何が起きたのか気になって仕方がなかった。
故に、何をしたのか詳しい話を聞こうと口を開いたのだが、ぐぅうううう~と、盛大な腹の虫が鳴いたなら、羞恥のあまりに言葉を失った。
慌てて腹を抑えて佐倉とすずめ丸の様子を伺うと、
「あっははははは。心労が無くなって腹が減ったの思い出したんだろ? 何日もまともに食ってないって話だったからな。兄貴にたんと美味いもの食わせてもらえよ。依頼はあんたが悲しみから救われることなんだから。無事に依頼を果たしたことも伝えておいてくれよ! オレたちはもう一仕事あるからな。執筆の」
と、にやりと笑ってすずめ丸が促した。
何やら色々と言いたいことはあったが、押さえても鳴き続ける腹の虫を黙らせられないと分かったお久は、
「何が何だか分からないけれど、本当にありがとうございました!」
青白かったこけた頬を赤く染め、慌てて座敷を出る。
その後、何が起こるかお久は知らない。
お久が知るのは、この件をネタにした戯作が書き上がってからのこと。
それとて、読んだお久には創作だとしか思えなかったが、どこか溜飲が下がるほど清々することとなるのは、まだ少し後のこと。
燭台の蝋燭がほのかに闇を退ける中、取り残されたのは、お久の代わりと言わんばかりに涙を流し続ける佐倉と――
「なぁ、佐倉。オレ腹が減ったよ。早く喰いたい」
物欲しそうな顔をして詰め寄るすずめ丸。
その黄金色の瞳が蝋燭の明かりを受けて怪しく光ると佐倉は言った。
「もう暫し待て。今まとめる」
何の感情も籠らぬ黒い瞳が見つめる先で、文字とは呼べぬ記号のような線がもぞりと動いたのはその時だった。
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