第二章『泣き女』

(1)

 しとしと、しとしと、今日も今日とて雨が降る。

 毎日が曇天。町は始終薄暗く、今が昼か夜かも分からなくなるほどに代わり映えしない日々。


「じゃあ、『私』はそろそろ行くよ」


 きゅっと着流しの帯を締め終えて、月代を剃っていない髷頭の優男が宣言すれば、


「もう行くのかい? 行ったってどうせいないよ」


 布団の中で半裸の女が笑いながら否定した。


「ていうか、その『私』ってやめてくれないかねぇ~似合わなさ過ぎて吹き出しちまうよ」


 片肘を立てて頭を乗せ、体に夜着(やぎ)を纏わせて女がからかえば、


「それはお前が俺のことを知ってるからだろ? でも、あの子たちは知らないんだ。あの子たちにとっての俺は、優しくて自分を特別扱いしてくれる大人の男だから、俺っていうよりは『私』って言った方が、いい印象を与えられるんだよ」

「優しい大人の男が聞いて呆れるよ。優しい大人の男があんたみたいなあくどい顔して笑うもんか」

「外に出ればいくらでも取り繕えるからいいんだよ」

「あ~あ、可哀そうな女の子たち。こんなろくでもない男に引っかかって……」

「言ってくれるねぇ~。そんなろくでもない男とこんな関係続けてるお前はなんなんだよ」

「こちとら商売だからいいんだよ。いちいちヤキモチなんか焼いてられないんだよ」

「焼かねぇのか」

「焼かないねぇ~。焼いてほしけりゃ誠意ってもんを示してもらわないとね。まぁ、無理だと思うけど」


 言うだけ言って、くっくっくと肩を揺らして笑う女に、男はケッと悪態をついて言い放った。


「そんなんだから俺は何も知らない娘たちの相手をしたくなるんだよ」

「はいはい。そりゃ悪ゥございましたね。精々騙されたって知った子に刺されないように気をつけな」

「その辺はちゃんと見極めてるから心配ねぇよ」

「ついでにボロが出ないようにも気をつけな。言葉遣いが戻ってるよ」

「うるせえよ!」


 長い付き合いの女にからかわれ、男は話は終わりだとでもいうように言い捨てると、勢いよく障子を閉めて馴染みの店を後にした。


   ◆◇◆◇◆


 しとしと、しとしと、外は雨が降っていた。

 相も変わらず降っていた。

 強くもないが弱くもない雨。

 傘を差せば、パラパラパラと、楽しげな音になる。

 男は何気なくその音が好きだった。

 建物にぶつかる音は気が塞ぎそうになるが、傘に当たる音は好きだった。知らず知らずのうちに口元に笑みが浮かぶほどには好きだった。

 ただ、足元がぬかるみ、瞬く間に汚れるのだけはどうしても嫌だった。不快だった。自分を汚すものが気に入らなかった。


 好きなものと嫌いなものが混在する雨の日は、気分がいいのか悪いのか自分でもよく分からなくなる。

 そんな日は通っている女のところに転がり込むのが常だったが、今夜は一つ約束事があったために馴染みの店を後にした。


 己が騙されているとも知らずに、夕餉をご馳走するからという言葉に頬を染める純朴な娘の顔が蘇る。

 自分が特別扱いされていると信じている娘たちのあの顔が、絶望に歪む様を想像するだけで、男は口元に浮かぶ笑みを堪えることが出来なくなっていた。


 バカだと思った。愚かだと思った。

 どうして自分がお前たちを特別だと思っていると本気で思うのか。

 だが、その愚かしさが堪らなく愛おしかった。


 中でも最近のお気に入りが、あの繕い物を頼んでいた娘だったのだが、先日娘は待ち合わせ場所に現れなかった。

 雨が降っていたせいか。日時を伝え間違えたか、自分が時間を間違えたか分からずに、連日同じ時に同じ場所で待ったが、娘は現れなかった。

 二か月半ほど前に古着屋で出会った娘。

 その着物の繕い物を頼んだのは私だと言った言葉を真に受けた娘。

 古着屋に飛び込んできて、一目で男に目を奪われた娘を見つけた瞬間。次はこの娘だと男は決めた。


 決して可愛いわけではない。美しいわけではない。しいて言えば愛嬌のある顔立ち。

 男慣れしていない奥手な様子。隠し切れない憧れを必死に抑え込もうとして何一つ成功していない様。

 何もかもが愛おしかった。


 だから声をかけた。釣るのは簡単だった。信用させるのも簡単だった。

 声を掛けられたことに舞い上がり、男の提示する条件に何一つ疑問を抱かず素直に頷き仕事をこなす。

 騙されているとも知らずに、男の言葉に一喜一憂し、緊張と興奮が入り混じるキラキラとした空気を纏った娘。


 その娘が、来なかった。約束の場所に。お気に入りの甘味屋に。

 待ちぼうけを食らわされた。

 一瞬怒りが沸き起こるが、もしかしたら自分が間違えたのかもしれないと考え直した。

 なんといっても、男は同時進行で何人もの娘たちと同じことをしていたのだから。

 約束の場所や時間を伝え間違えた可能性もあるし、舞い上がっていた娘が聞き間違えた可能性もあるとして留飲を下げた。


 だが、次の日も来なかった。娘の家を知らない男は、初めて娘と会った古着屋へ出向いたが、ここしばらくは顔も見ていないと言われる始末。

 雨に打たれて風邪でも引いたか。

 秘密の逢瀬のようなやり取りが家族にばれて会うことを止められたか。


(あ~もったいない)


 男は素直にそう思った。

 若い娘が年上の男に好意を寄せるのはよくあること。

 そんな心理を手玉に取って、夢に浮かれまくった後に現実を突き付けて叩き落す。

 その時の顔が見たかったと、男はがっくりと気を落としながら見切りをつける。

 相手との連絡を取る手段を持ち合わせていないのだから諦めるしかなかった。


 もしかしたら、その気になれば長屋など簡単に突き止められたのかもしれないが、わざわざ見舞いに行くほどのことでもない。行ったら行ったで喜ばれるかもしれないが、家族に勘繰られるのは面倒すぎた。


(かつての二の舞はごめんだよ)


 まだ距離感を測りかねている時にやらかした面倒ごとを思い出して頭を振る。

 しとしと、しとしと、雨が降る。

 パラパラ、パラパラ、打ち付ける。

 ざしゃざしゃ、ざしゃざしゃ、足元を濡らし、男は行く。人っ子一人歩いていない雨の町を。




 その不自然な光景に男が気が付いたのは、今夜待ち合わせの約束をしている娘と会う食事処がある通りに出た時だった。

 ある意味では《虫の報せ》に近かったのかもしれない。

 ふと、思ったのだ。


(なんだか異様に静かだな)


 そう。静かだったのだ。

 物思いから抜け出して、辺りをようよう眺めてみれば、食事処が連なる通りに人っ子一人いなかった。

 店から聞こえて来るはずの客の声も一切しない。

 明かりは一応ついている。

 だからこそ、異様だった。

 開店していても、雨が鬱陶しくて客が来ていないのかもしれないという可能性はある。

 むしろ、そう考える方が自然だ。


 だが男の本能は告げていた。これは異常だと。おかしいと。

 足を止めた男は、不意に悪寒に襲われた。

 己が見知った見知らぬ場所にいるような違和感。


 しとしと、しとしと、雨が降る。

 パラパラ、パラパラ、打ち付ける。


 足元からじわじわと寒気が這い上り、鼓動が早鐘と化して不安を煽る。

 男の顔は完全に引きつっていた。

 得体の知れない気味の悪さを感じ取り――


「っふ」


 唐突に鼻先で笑い飛ばす。


「馬鹿馬鹿しい。一体何だって言うんだ。単に人通りがないだけだろ」


 震える声で己を鼓舞する。


「こんな時だからこそ、金を落としてやるんだよ」


 誰にともなく言い聞かせ、男は一歩を歩みだす。

 夕餉を奢ると約束した娘の様子を想像しながら、無理矢理気持ちを盛り上げるようにして。


(でも、この雨だからな。もしかしたら家を出て来られないかもしれないな)


 またしても約束をすっぽかされるかもしれないと思いつつ、踏み外せば瞬く間に恐怖の沼に取り込まれそうになりながら、あえてゆっくりと歩いて行く。

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